女将軍 井伊直虎

克全

第25話尾張愛知郡侵攻

『日置城外』

「母上、このまま日置城を攻め落とすのですか?」

「いえ、それでは損害が多くなり時間もかかります。」

「ではどうすればいいのですか?」

「まずは岡部元信殿と鵜殿長照殿に慰労の使者を送られませ、その上で一旦御器所西城・御器所東城に戻って軍勢を立て直させ、信長が末森城に攻め掛かった時に背後を襲うように命じられませ。」

「信長は末森城を襲うのですか?」

「その可能性が高いだけで絶対ではありません、奇襲とは相手の思いもよらない場所に攻め掛かるものです。今私が思いつくようでは、そもそも奇襲にはなりません。ですが末森城が少々織田勢の中に入り込んでいるのも確かです、信長にはとても目障りでしょう。」

「では岡部元信殿と鵜殿長照殿に末森城を任せて、我らはどうするのですか?」

「愛知郡奥深くに切り込みます。」

「はい、母上様!」

義直軍は素早く陣を引き払って反転したが、もちろん拠点を築くために持って来た柵や木盾は回収していく。最初に1万を超える兵で圧力をかけたのは、岩塚城の吉田治郎左衛門守氏・元氏だった。彼らは信長に日々圧力をかけられ、尾張守護職としての体面を失っている斯波氏の一族だった。

「殿様、ここは今川に降って再起を図りましょう。」

「しかしな奥よ、今川家は我が斯波一門とは不倶戴天の敵同士なのだ、その事はそなたも知っておろう。」

「ならば殿様は、土豪上がりの織田にいいようにされてもよいと申されるのですか。」

「土豪とは言い過ぎだろう。」

吉田守氏は苦笑いしながら答えた。

「そうでしょうか? 信長などは織田大和守家に仕える家臣の家柄では無いですか。家臣の家臣・陪臣に合戦を命じられるなど、斯波一門の吉田家にとってこれほどの屈辱はありません! どうせ降るなら、由緒正しき今川に降った方がまだ面目を保てます。」

「確かにそれは奥の言う通りではあるが・・・・・」

「それに今の信長は、精々6000兵を集める事が出来るだけ、それに比べて今川殿は先鋒だけで1万を揃えておられます。信長が攻め寄せて来たとしても、今川が1万の援軍で駆けつけてくれるではありませんか。」

「そうなのだが・・・・・」

「殿様は、土豪の織田の家臣として、今川殿の兵に攻め滅ぼされる恥辱を御受けになるのですか?! 降伏の使者を追い返せば、城を囲む兵がそのまま攻め寄せてくるのですよ。」

「父上! 母上の申される通りでございます。斯波一門として、ここは今川殿に御味方いたしましょう。今川殿なら、義銀様を無碍に扱う事もございますまい。ですが信長は、義統様を弑逆した信友と同じ織田一門です。何時義銀様を弑逆するか判りませんぞ!」

「分かった、そなたらがそこまで言うのなら義直殿に降ろう。」

以前から白拍子や歩き巫女を使って調略していた吉田家は義直に降った。嫡男の吉田元氏を軍勢に同行させ、岩塚城には将兵を目付として残して先を急いだ。

次に圧力をかけたのは、荒子城の前田利久・利益親子だった。前田利久の父・利春は、林秀貞の寄騎であった関係で稲生の戦いにおいて去就が怪しかった。しかし前田本家が完全に信長と敵対した関係もあり、前田一門を割る意味で本家の領地であった荒子城一帯を与えらた。

だが今度は、利久が病弱である事を理由に、信長の寵童であった利家を前田家の当主にしようとする動きがある。確かに利久は病弱な上に子がおらず、3弟・安勝の娘を養女として養嗣子・利益(前田慶次)を迎えている。

だがだからと言って、利久・利玄・安勝の3人の兄たちを差し置いて、4弟・利家に家督を継がせようとする信長の動きに、利久の妻・滝川益氏の妹は激怒した。そして深く深く恨んで根に持った、そこを直虎の白拍子や歩き巫女は突いた。

荒子城・東起城を持ち、荒子・東越一帯の2000貫を領する前田利久が今川家に降った事は大きかった。

前田家と関係が深く、奥村屋敷と呼ばれる城館を持つ奥村家が降ったのだ。奥村屋敷は荒子城から見ると東南300m・西、南、北の三方に堀を持つ城館で、まずまずの守備力を持っている。そして奥村家は、前田家より格上だが奥村宗親が前田利久の姉を妻にもらい、次男の奥村永福が後に荒子城の城代を務めるほどの関係だ。

奥村家から人質兼用の将兵を出させ、同時に目付の将兵を奥村屋敷に入れ東起城に進んだ。

この状態で前田本家が降って来た。前田利久・利益親子にも恨みはあるものの、2000貫の領地を奪い前田利春・利久親子に与えたのは信長だ、信長に対する恨みの方が大きかった。まして1万を超える今川勢に敵対できるような兵力は無い。その結果として、前田本家の前田城と下之一色城が今川家の指揮下に入った。

荒子城   前田利久・利益
東起城   前田利玄・前田安勝

奥村屋敷  奥村宗親・永福

下之一色城 前田種利
前田城   前田長定・前田長種、前田定利

江松城   土方治兵衛
助光城   福留左近将監

下之一色城の近くにある江松城の土方治兵衛は去就に迷っていたが、土方家は滝川一門だが前田家と縁戚でもあるのだ。最悪前田利家の縁で織田家に戻る道もあると、この場は大軍を擁する義直に降った。

義直勢は土方勢を軍勢に加えて庄内川を遡るように進み、降伏臣従した前田城近くにある助光城主・福留左近将監に降伏の使者を送った。助光城は約36m四方の小さな城で、とても1万兵を擁する義直勢に抗する事など出来ない。そこで人質と兵を送って、義直に降伏臣従を誓った。

ここで義直勢は兵力を2つに分けて、南北朝時代の城跡である戸田城跡と榎津城跡を修築してそこに入った。

翌日払暁、戸田城跡・榎津城跡にそれぞれ500の兵を残して城の修築を行わせ、義直勢は織田の重要拠点・津島湊を抑える勝幡城に向かった。

勝幡城は、本丸が東西29間(52m)、南北43間(71m)、幅3間(5・4m)の方形土塁で守られ、その外側は二重の堀で囲まれた城で、三宅川にも外堀の役目をさせていた。

城代は武藤掃部助雄政が務め、今川に味方した服部友貞に対抗する為、2000兵もの軍勢を預かっていた。

服部友貞とは、津島の南にある河内(海西郡)に勢力を持っていた服部党の頭領で、桶狭間の時から今川家に味方しており、領地も信長の勢力圏と陸続きではなく「市江島」と呼ばれる輪中地帯(河川の中洲)にある。院家として東海地方の本願寺門徒を統括する願証寺と協調関係でもあり、独立独歩の国衆と言えた。

義直は勝幡城の武藤雄政に降伏臣従の使者を送った。

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