転生武田義信

克全

第158話九州調略

1562年9月小田原城本丸義信私室:義信私室

小田原城に腰を据えて家族の融和に努め、特に子供達との愛情を育み、子供達が相争う事が無いように、兄弟姉妹愛が育つように腐心した。

だが政務を全くしなかった訳ではなく、以前から行っていた九州の諸大名・国衆・地侍への調略は手を抜くことなく続けていた。

この件に関しては信玄とも十分に話し合い、世間の信用信頼が厚い俺が前面に出て行う事になっている。

その前提条件として、俺はもちろん武田家も約束を守ると言う事が大切なので、大内義通に周防1国を与えることになった。

だがもちろん一部の忠臣を除けば、大内家の家臣団は主君である大内義通よりも、俺に忠誠心を持っている。

だから万が一大内義通が謀叛を企んでも同調する家臣は殆どおらず、決起する前に俺のもとに情報が入り、何も出来ずに事前に鎮圧されるだろう。

むしろ大内義通に周防1国を与えた効果の方が大きく、俺はもちろん信玄も鷹司武田として約束したことは守るのだと言う好印象を、鷹司武田の一族一門家臣はもちろん九州の大名・国衆・地侍に与えたことが大きかった。

これにより俺が滅ぼそうと考えていた九州の大名・国衆の家臣を切り崩すことが容易くなり、信玄が九州攻略を実施した時には、ほぼ戦うことなく勝てる体制を築くことが出来たと思う。

九州の大名・国衆のうちで、日本侵略を企むキリスト教徒の手先となっている、大友家は徹底的に滅ぼす予定だ。

立花道雪こと戸次鑑連や、将来名将・高橋紹運に育つ吉弘鎮理を死なせるのは惜しいが、彼らを調略するのは難しいと思う。

それと根本的な問題なのだが、日本の支配域を史実程度の領地で満足するのか、それとも北海道・千島・樺太だけにとどまらず、カムチャッカ半島・アリューシャン半島・アラスカ・沿海州・シベリヤ・台湾・フィリピンまで攻め込むかだ。

史実を知っている人間とすれば、朝鮮半島や中国の中華と言われる中心部には何の欲もない。

必要なのは化石燃料なのだ!

科学、特に武器や兵器の発達を考えれば、石炭石油を産出する地域は、俺が生きてる間に日本の版図に加えておきたい。

ロシアが支配している、西シベリアの油田地帯を占領出来れば理想的なのだが、流石にそれは厳しいかもしれない。

南樺太の油田地帯は絶対に確保するとして、少々の無理を重ねても満州の大慶油田かアラスカのプルドーベイ油田のどちらかは確保したいのだ。

それと同時に日本海を完全に内海化する為には、沿海州と朝鮮半島を占領すべきなのだが、その為に必要な犠牲が日本の将来の為に見合うかどうか、冷徹な判断が必要だろう。

南は台湾を絶対確保しておきたいし、出来ればフィリピンも支配下に置いておきたい。

現地住民と戦争になるか友好的な同化政策が可能かを考慮してうえでだが、石油を産出するボルネオ島・スマトラ島・ジャワ島は確保したい。

全ての島を支配下に置くのは無理でも、せめて1島は占領しておきたいし、鉱物資源・移民・現地人との同化政策を考慮すれば、オーストラリアも支配下に置くべきかもしれない。

中東の石油資源にも欲が出てしまうが、日本国内に首都を置くのなら、侵攻侵略の軍勢を送り、占領地を維持管理し、将来石油資源を日本に輸送することや、敵国が資源地帯に侵攻してきた場合に迎撃軍を送り防衛することまで考慮すると、自ずと優先的に占領すべき油田が決まってくる。

それは満州の大慶油田だ!

侵攻するのはもちろんだが、占領後に資源を日本に輸送するのも、取り返そうとする敵を迎撃するための援軍を送るにしても、その移動距離が日本から近いのだ。

それに何より都合がいいのは、満州が女真族の支配する地域であり、台湾・海南・新疆と同様に、中華の権力・法律が行き届いていない「蛮族」の住む中国文明外の「化外の地」と考えられているのだ。

早い話が満州は明国の領地の外だと言う事だ。

だから事前に明国に話を通しておけば、モンゴルや女真の侵攻略奪に苦心している明国が、日本の満州侵攻を黙認する可能性が高いのだ。

特に明国の属国である朝鮮に倭寇の取り締まりを約束して、朝鮮から明国に話を通りておけば、明国と戦争をすることなく、満州を領有出来ると思う。

満州を確保出来たとしたら、中東やオーストラリアなどに色気を出すよりは、シベリアの確保に動くべきだろう。

出来ればバイカル湖とレナ川より西側の地域は、鷹司武田で支配に置くべきだと思う。

ここまで考えれば、同じ日本人同士で殺しあうのは愚かなことだと分かるだろう。

化石燃料が自国内で産出するかしないかが、将来の国力に重大な影響を及ぼすことを知っている以上、九州の大名・国衆を早期に取り込み、南進北伐のための人材を確保し軍需物資を残しておきたい。

それに今の九州の勢力図は、史実とは大きく違ってきている。

当面の主敵である大友家は、同紋衆と他姓衆の反感を煽り不和を憎しみにまで高めているので、同紋衆と他姓衆が肩を並べて鷹司武田と戦う事が無理な状況になっている。

しかも大友一門内の当主争いを誘発させて、不利な方に軍資金と武具弾薬を支援しているので、支配下領域内のあちらこちらで叛乱がの火の手が上がっている。

大友家としては、早期に大軍を派遣して徹底的に弾圧したいだろうが、長門の下関・伊予の佐多半島と宇和島に鷹司武田の海軍と大軍が駐屯しているため、国境線の守備軍を移動させられない状況になっている。

完全に専業兵制に移行した鷹司武田と違って、農民兵の依存度が高い大友家では、その経済的負担は国衆や地侍に重くのしかかっている。

不公平に軍役を課せられている他姓衆の同紋衆大友宗家への反感や憎しみは、既に殺意と言っていいレベルの達しているのだ。

この状況で俺が調略を仕掛けるのだから、その成功率は恐ろしく高い。

鷹司武田軍が九州に上陸すれば、ほとんどの大友家他姓衆は戦うことなく降伏臣従するだろう。

そして他姓衆は、喜んで刃を大友に向けるだろう。

一方史実で九州統一の目前まで行っていた島津家にしても、俺が支援を続けていた島津勝久と島津義虎の抵抗が激しく、大隅国の併合どころか薩摩1国すら完全に支配下に置けていない状況だ。

九州の勇将達を小領主の留めたまま家臣化し、琉球・台湾・フィリピン・ボウルネオと続く南進の先鋒に活用できれば、理想の王国を築くことも可能だ。

出来る事ならその軍勢の総大将は、次郎や三郎が務めて欲しい。

当然太郎にも実践経験が必要だが、南方にはマラリア等の多くの疫病があるので、太郎を戦病死の恐れのある南方戦線に送るわけにはいかない。

万が一にも太郎が戦死や戦病死することがあれば、鷹司武田は後継争いを起こしてしまうかもしれないのだ。

だから太郎が総大将として指揮する軍勢は、樺太から沿海州に渡り満州に侵攻する、北伐軍にすべきだろう。

俺は大日本皇国内武田王国を建国する予定だから、その首都は大慶に近い哈爾濱に定めるべきだろう。

そして明国かその後継国家、それとロシアが攻め込んで来るのを確実に防ぐために、広い領地を占領し、縦深防衛陣地を構築出来るようにしておかなければならない。

ここまで青写真が定まれば、後はいつ九州に攻め込むかだが、これは純軍事的な要因に加え、朝廷内で俺の諸侯王への就任を認めさせる下工作と連動してくる。

元々日本の朝廷は、中国の官位を手本に作られているから、中国の諸侯王制度を取り入れてもおかしくはないと思うのだが、魏王・曹操や晋王・司馬昭の前例を鑑み、俺が御上から皇位を簒奪すると邪推する公卿や、俺が御上を殺して皇位を簒奪する心算だと言い建てて、君臣の間を裂こうとする公卿も出てくるだろう。

そういう点をどうやって解消するかが問題だ。

九州を討伐して大名・国衆・地侍を完全に支配下置いた時が、朝廷に王位を要求する好機だから、実際に討伐する前に諸侯王就任の内諾を受けておく必要がある。

九州を討伐してから慌てて王位を要求しても、それが通るはずがない。

無理に王位を得ようとすれば、武田譜代衆を動員した御所巻きを実行するしかなくなるかもしれない。

だが完全武装の実戦部隊で御所を包囲などすれば、歴史に汚名を残すのは必定だ。

信玄なら日本のため武田家の為に、悪名も恐れずやってのける可能性があるが、そんなことになれが六衛軍に任命している外様衆が、武田家に反旗を示す可能性すらある。

そんな最悪の事態を引き起こさないためにも、諸侯王就任の事前工作が成功し、その事を全国の大名・国衆・地侍にも事前に周知徹底してから、九州の討伐を開始したい。

その間にもっと入念に調略を仕掛けるのは当然だが、北伐の準備も並行して行う。

在地の大名・国衆・地侍・百姓を動員して、河川改修と治水事業を行い、開墾開発に全力を注ぎ、1800万石前後の日本の石高を、出来るだけ幕末の3200万石に近づける。

そして満州に王都を定め武田の主力軍を移住させるために、亜寒帯冬季少雨気候でも耕作可能な春小麦・ジャガイモ・カブ・ライ麦・蕎麦の種や籾を確保している。

元々小氷河期とも言える戦国期・江戸期の日本において、北海道・千島・樺太でも農耕を広め、東北地方が冷害に陥っても飢饉にならないように、意識して積極的に南蛮等からジャガイモやライ麦を導入していたのだ。

今年も蝦夷地と呼ばれている北海道に入植させた元アイヌ奴隷の屯田兵が、千島や樺太に農耕を導入するための大量の種や籾を植え付けてくれている。

屯田兵に扶持や褒美として与える玄米は、明国や東南アジアの国々から中継貿易で確保出来ている。

朝廷工作に時間がかかるようなら、各地の駐屯軍のもっと治水開墾に転用すべきだろう。

「父上様、入って宜しいですか?」

「太郎か? 入るがよい」

「「「「「失礼いたします」」」」」

「うむ」

太郎が同母弟の次郎・三郎・四郎・八郎だけでなく、異母弟の五郎・六郎・七郎・九郎達も伴い、俺の私室に入ってきた。

家族の融和、特に子供達との絆を強化すると決意してからは、妻妾の部屋に渡る前の時間を、俺の私室で兄弟姉妹そろって物語を聞かせる時間にしている。

勉強の時間と決めてしまうと、厳しいことを言わねばならぬことが多くなるので、ただただ愛情を注ぎスキンシップを図る時間として、計画的に時間割りを組むことにしたのだ。

この効果が出て、俺に叛旗を翻す子供が現れないことを切に願っている。

島津忠良
誕生:1492年10月14日
実父:島津善久
実母:常盤(梅窓夫人、新納是久の娘)
養父:島津運久
島津貴久を後見する

島津貴久
誕生:1514年5月28日
実父:島津忠良(伊作忠良)・伊作島津家
養父:島津勝久
正室:肝付兼興の娘
1527年4月に島津宗家15代当主となる

島津義久
誕生:1533年3月4日
実父:島津貴久
実母:入来院重聡の娘・雪窓夫人
島津貴久の長男

島津義弘
誕生:1535年8月21日
実父:島津貴久
実母:雪窓夫人(入来院重聡の娘)
島津貴久の次男

島津歳久
誕生:1537年8月15日
実父:島津貴久
実母:雪窓夫人(入来院重聡の娘)
島津貴久の三男

島津家久
誕生:1547年
実父:島津貴久
実母:本田親康女
島津貴久の四男

島津勝久
誕生:1503年9月8日
実父:島津忠昌
実母:天真夫人(大友政親の娘)
島津宗家14代当主・島津貴久に当主の座を譲るも後悔

島津義虎
誕生:1536年5月20日
実父:島津実久
実母:島津成久娘・上ノ城
島津薩州家6代当主・父の代から島津宗家当主の座を巡り島津忠良・貴久親子と争う

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