転生武田義信
第151話安芸武田家
1560年7月・京二条城の二ノ丸政務殿・鷹司義信・鷹司家家臣団・武田安芸守信実・武田小三郎光広・武田長一郎重恵:鷹司義信視点
「武田安芸守信実殿、武田小三郎光広殿、武田長一郎重恵殿、お入りなされませ」
「「「は」」」
真田幸隆の指示で3人が部屋に呼び入れられたが、俺は御簾の奥にいる。
一旦敵対してから捕虜になったり降伏臣従した事で、武田一門とは言え身分違いと言う事で、直接の対面や会話はしない事になっている。
今回の仕置きを任されている真田幸隆が、いつになく厳しい決定をした。
まあ勝ち戦とは言え、全てが終わったわけではなく、未だにしぶとく籠城している者もいるから、仕方がないのだろう。
だが山陽地方では掃討戦が続いているが、山陰地方に関してはほぼかたがついたと言える。
さて、今回の戦いで降伏したり捕虜になった者は数多いるが、問題はここに呼びだした安芸武田家の処遇だ。
一応現当主は、若狭武田家から養嗣子として迎えられた武田信実が9代目を名乗っている。
だが武田信実は、不利になると味方を見捨てて逃げ出すと言う、武士の風上にも置けない行動を繰り返している。
確かに死んで花実が咲くことなどなく、当主が死ねば、どれほど栄耀栄華を誇っていた家も、一気に凋落することも珍しくない。
戦場で有利に戦いを進めていたとしても、迂闊な行動で当主が討ち取られてしまうと、どれほど兵力で圧倒していようと、それまでの戦況が有利であろうと、一気に逆転してしまう。
だから当主が命を惜しむ事は大切な事なのだが、味方を見捨てて逃げるのは頂けない。
それも1度や2度ではなく、常に味方を見捨てて逃げるようでは、養子の立場で一門家臣衆の忠誠を得る事など出来ない。
今回も信繁叔父上が佐東銀山城を包囲しようとした際に、一門家臣を残して高嶺城に逃げようとして、影衆に捕縛されている。
逃げようとした先が高嶺城と言うのも頂けない。
武田信実を配下に迎え、何かと支援していたのは尼子晴久だったが、逃げ込もうとした高嶺城は尼子国久の居城だ。
尼子晴久が追い詰められ、月山富田城を残すだけの状況とは言え、この期に及んで尼子国久に寝返ると言うのはどうかと思う。
戦国武将として正しい判断だと言えるのだが、美しいとは言えない。
俺が武田信実の降伏臣従を認めなかったし、月山富田城に入るのも無理だから、まだ侵攻を受けていない高嶺城に逃げ込むのは正しい判断だ。
だからと言って、一門家臣を見捨てて尼子国久の下に逃げ込むと言うのは、どうしても許せない。
一門家臣を引き連れて逃げて欲しかった。
しかしだ、好き嫌いは別にして、生き延びると言う視点では、その状況判断は正しい。
尼子国久が大内家から奪って居城にした高嶺城は、周囲の山々に築いた兄弟山城・障子ヶ岳城・古城ヶ岳城、七尾山城・姫山城・長山城を強化しているので、逃げ込むには最適の城だ。
「安芸守殿、本来なら御上の沙汰に逆らった罪により斬首とすべきところなれど、御上の御厚情を持って罪一等を減じ、永年蟄居を命じ武田治部少輔信豊預かりとする。武田一門に産まれた事と、関白殿下の口利きに感謝されるがいい」
「は、関白殿下に置かれまして特別な御厚情を賜り、感謝の言葉もありません」
「よい、ただ今後は世情にかかわる事なく、世の平穏を祈って暮らすがよい」
「は、有り難き幸せにございます」
武田信実は近習に案内されて、部屋から出て行った。
やる気があるのなら、誰かの下に付けて働かせてみよう。
安芸武田家の当主と言う地位を降りたら、肩の荷が無くなって、もっと的確な判断が下せるようになるかもしれない。
「さて、小三郎殿と長一郎殿に確認したいのだが、安芸武田家の当主は甲斐の本家から送ると言う事で宜しいのですな」
「「はい」」
はてさて、2人とも本心から納得しているとは思えないが、これも戦国の習いだ、諦めてもらうしかない。
2人から見れば、足利幕府とのかかわり合いや、長幼の継承順位や嫡男庶子の関係から、安芸武田家こそ武田一門の本家だと言う思いもあるだろうし、若狭武田家が武田本家だと言っていた者もいる。
だが今の力関係では、甲斐武田家に逆らえるはずもない。
まあこの本家分家のプライドが、安芸武田家が尼子に味方した理由の1つかもしれない。
「小三郎殿と長一郎殿には一門衆を纏めてもらい、左右の副将として働いてもらう事になります」
「「はい」」
さて誰を安芸武田家に送るかだが、西国を纏める大切な分家だから、優秀な武将を送り込む必要がある。
血統も大切ではあるが、方面軍司令官として四国はもちろん九州にも目配りしてもらう必要がある。
武田家の分家の中でも、若狭守護の若狭武田家と安芸分郡守護の安芸武田家は、別格だと考えるべきだろう。
京に俺がいるから、既に潰れた若狭武田家はそれほど重要ではなくなったが、安芸武田家は6万5000石程度とは言え疎かには出来ない。
多くの国衆の降伏臣従を認めたから、少しでも縁があり信頼できる武将と拠点は大切にしなければいけない。
無能な者や性格の悪い者は、例え弟や実子であろうとも、養嗣子に送り込む訳にはいかない。
まして傀儡にされそうな幼い者を送るわけにはいかない。
ここはまた信繁叔父上に御願するしかないだろう。
信繁叔父上なら、必ず山陰山陽の国衆地侍を纏め上げて下さるだろう。
まだ20年くらい余裕はあると思うのだが、天正大地震や慶長大地震が怖いから、できるだけ早く日本を統一して、関東に避難したいのだ。
ここは多元宇宙の1つだと思うから、俺の知る歴史とは違う流れになったけど、天災などは同じに日時に起こっている気がする
天正大地震や慶長大地震の時期に畿内や東海にいると、地震に巻き込まれて死傷する可能性がある。
天正大地震で城ごと土砂崩れに巻き込まれ、一族が滅亡した帰雲城の内ヶ島一族程ではないにしても、後に土佐の国主になる山内一豊は、長浜城で娘を亡くしている。
可哀想に、娘さんは地震で倒壊した屋敷の下敷きになったのだ。
この天正大地震(1586年)は有名だが、その前にも歴史を変えた大地震が発生している。
1585年11月29日の深夜、東海地方でマグニチュード8前後の内陸地震として史上最大級の大地震が発生している。
震源は、岐阜県から三重県にかけて南北に走る養老断層と推定され、史実の被害は織田信雄領の尾張と伊勢、羽柴秀吉領の近江(滋賀県)に集中した。
琵琶湖近くにいた秀吉は、驚いて大坂城へと逃げ出したほどだった。
丁度この時、小牧長久手で負けた秀吉は、家康に復仇すべく兵と整えていたと言う。
しかしこの大地震で、家康戦に集めていた軍勢が壊滅したと言うのだ。
実際に全軍勢が死亡したと言う訳ではないだろうが、天災を不吉と考えた雑兵が逃げ散ったのだろう。
迷信がはびこっていた時代だから、大地震などが起きたら、民心が離れるのは仕方がない事だろう。
とても外征など出来ない。
俺の記憶では、俺の寿命期間中は江戸に大地震はなかったはずだ。
小説のネタにするためにある程度は記憶していたから、記録に残らないようなものは別にして、江戸は安全なはずだ。
だからこそ軍師近習衆の提案を受け入れて、早期日本統一を実現すべく、1000石までの国衆の降伏臣従を認めたのだ。
1000石を越えるような大身国衆も、分家や陪臣の独立や領地替えを認めれば、家の存続を認めたのだ。
その成果が、両尼子家からの大量国衆離反であり、山陰山陽での快進撃だ。
頑強に籠城する城を包囲しなければならないし、降伏臣従を誓った国衆を野放しには出来ないから、大軍団を占領地に駐屯させる必要がある。
だがそれも無駄になる訳ではなく、彼らを動員した国家規模の用水路整備をしたり、河川改修を行う事で、史実の江戸末期の石高を戦国末期に達成する心算だ。
特に直轄領や占領地で新田開発を行えば、倍増した石高で家臣に領地を与えることができる。
そして移動させた家臣の旧領地を鷹司家や武田家の直轄領にして、国家規模の新田開発や河川改修・用水路整備を行えば、また鷹司家や武田家の直轄領は倍増することになる。
占領地の直轄化、新田開発と治水事業、領地替えと新たな直轄領の取得を繰り返す事で、鷹司家と武田家の国力は、他家を圧倒することになるだろう。
まずは完全移占領下に置いた、因幡・伯耆・出雲・石見・美作・備前・備中・備後・安芸の9カ国で試してみる。
「天正大地震後の大地震」
1596年9月1日:慶長伊予地震(慶長伊予国地震)M 7.0。
1596年9月4日:慶長豊後地震(大分地震)M 7.0~7.8。
1596年9月5日:慶長伏見地震(慶長伏見大地震) M 7.0〜7.1。
1605年2月3日:慶長地震(東海・東南海・南海連動型地震) M7.9〜8。
1608年2月30日:仙台で地震・津波で50人死亡。
1611年9月27日:会津地震・M 6.9、死者3,700人。
1611年12月2日:慶長三陸地震・M 8.1。
1614年11月26日:高田領大地震・M 7.7・同じ日に日本海側の越後高田領と太平洋側の伊豆、銚子の両方の津波記録がある他、京、会津、伊豆、紀伊、山城、松山の地震被害記録があり、これらの記録を満足する単一の地震はあり得ないとされる。
1662年6月16日:寛文近江・若狭地震(寛文地震)(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震、近江・山城地震) M 7 1/4〜7.6、死者数千人。
「安芸分郡守護・安芸武田家」
安芸分郡守護は若狭武田氏が継承していたが、安芸武田家は守護代的立場で佐東郡・山県郡・安南郡(現在の安芸郡)を治めていた。
武田元繁:安芸武田家第7代当主
武田光和:安芸武田家第8代当主・武田元繁の嫡男
伴繁清 :武田元繁の次男
武田信実:安芸武田家第9代当主
:若狭武田家第6代当主・武田元光の次男
:安芸守
:1524年8月17日誕生
武田信重:武田元繁の孫
武田宗慶:武田光和の3男
:1524年10月11日誕生
:小三郎
武田光信:武田宗慶の長男
:1546年5月3日
武田重恵:武田信重の長男(史実の安国寺恵瓊)
:1537年7月19日
:竹若丸・長一郎
「武田安芸守信実殿、武田小三郎光広殿、武田長一郎重恵殿、お入りなされませ」
「「「は」」」
真田幸隆の指示で3人が部屋に呼び入れられたが、俺は御簾の奥にいる。
一旦敵対してから捕虜になったり降伏臣従した事で、武田一門とは言え身分違いと言う事で、直接の対面や会話はしない事になっている。
今回の仕置きを任されている真田幸隆が、いつになく厳しい決定をした。
まあ勝ち戦とは言え、全てが終わったわけではなく、未だにしぶとく籠城している者もいるから、仕方がないのだろう。
だが山陽地方では掃討戦が続いているが、山陰地方に関してはほぼかたがついたと言える。
さて、今回の戦いで降伏したり捕虜になった者は数多いるが、問題はここに呼びだした安芸武田家の処遇だ。
一応現当主は、若狭武田家から養嗣子として迎えられた武田信実が9代目を名乗っている。
だが武田信実は、不利になると味方を見捨てて逃げ出すと言う、武士の風上にも置けない行動を繰り返している。
確かに死んで花実が咲くことなどなく、当主が死ねば、どれほど栄耀栄華を誇っていた家も、一気に凋落することも珍しくない。
戦場で有利に戦いを進めていたとしても、迂闊な行動で当主が討ち取られてしまうと、どれほど兵力で圧倒していようと、それまでの戦況が有利であろうと、一気に逆転してしまう。
だから当主が命を惜しむ事は大切な事なのだが、味方を見捨てて逃げるのは頂けない。
それも1度や2度ではなく、常に味方を見捨てて逃げるようでは、養子の立場で一門家臣衆の忠誠を得る事など出来ない。
今回も信繁叔父上が佐東銀山城を包囲しようとした際に、一門家臣を残して高嶺城に逃げようとして、影衆に捕縛されている。
逃げようとした先が高嶺城と言うのも頂けない。
武田信実を配下に迎え、何かと支援していたのは尼子晴久だったが、逃げ込もうとした高嶺城は尼子国久の居城だ。
尼子晴久が追い詰められ、月山富田城を残すだけの状況とは言え、この期に及んで尼子国久に寝返ると言うのはどうかと思う。
戦国武将として正しい判断だと言えるのだが、美しいとは言えない。
俺が武田信実の降伏臣従を認めなかったし、月山富田城に入るのも無理だから、まだ侵攻を受けていない高嶺城に逃げ込むのは正しい判断だ。
だからと言って、一門家臣を見捨てて尼子国久の下に逃げ込むと言うのは、どうしても許せない。
一門家臣を引き連れて逃げて欲しかった。
しかしだ、好き嫌いは別にして、生き延びると言う視点では、その状況判断は正しい。
尼子国久が大内家から奪って居城にした高嶺城は、周囲の山々に築いた兄弟山城・障子ヶ岳城・古城ヶ岳城、七尾山城・姫山城・長山城を強化しているので、逃げ込むには最適の城だ。
「安芸守殿、本来なら御上の沙汰に逆らった罪により斬首とすべきところなれど、御上の御厚情を持って罪一等を減じ、永年蟄居を命じ武田治部少輔信豊預かりとする。武田一門に産まれた事と、関白殿下の口利きに感謝されるがいい」
「は、関白殿下に置かれまして特別な御厚情を賜り、感謝の言葉もありません」
「よい、ただ今後は世情にかかわる事なく、世の平穏を祈って暮らすがよい」
「は、有り難き幸せにございます」
武田信実は近習に案内されて、部屋から出て行った。
やる気があるのなら、誰かの下に付けて働かせてみよう。
安芸武田家の当主と言う地位を降りたら、肩の荷が無くなって、もっと的確な判断が下せるようになるかもしれない。
「さて、小三郎殿と長一郎殿に確認したいのだが、安芸武田家の当主は甲斐の本家から送ると言う事で宜しいのですな」
「「はい」」
はてさて、2人とも本心から納得しているとは思えないが、これも戦国の習いだ、諦めてもらうしかない。
2人から見れば、足利幕府とのかかわり合いや、長幼の継承順位や嫡男庶子の関係から、安芸武田家こそ武田一門の本家だと言う思いもあるだろうし、若狭武田家が武田本家だと言っていた者もいる。
だが今の力関係では、甲斐武田家に逆らえるはずもない。
まあこの本家分家のプライドが、安芸武田家が尼子に味方した理由の1つかもしれない。
「小三郎殿と長一郎殿には一門衆を纏めてもらい、左右の副将として働いてもらう事になります」
「「はい」」
さて誰を安芸武田家に送るかだが、西国を纏める大切な分家だから、優秀な武将を送り込む必要がある。
血統も大切ではあるが、方面軍司令官として四国はもちろん九州にも目配りしてもらう必要がある。
武田家の分家の中でも、若狭守護の若狭武田家と安芸分郡守護の安芸武田家は、別格だと考えるべきだろう。
京に俺がいるから、既に潰れた若狭武田家はそれほど重要ではなくなったが、安芸武田家は6万5000石程度とは言え疎かには出来ない。
多くの国衆の降伏臣従を認めたから、少しでも縁があり信頼できる武将と拠点は大切にしなければいけない。
無能な者や性格の悪い者は、例え弟や実子であろうとも、養嗣子に送り込む訳にはいかない。
まして傀儡にされそうな幼い者を送るわけにはいかない。
ここはまた信繁叔父上に御願するしかないだろう。
信繁叔父上なら、必ず山陰山陽の国衆地侍を纏め上げて下さるだろう。
まだ20年くらい余裕はあると思うのだが、天正大地震や慶長大地震が怖いから、できるだけ早く日本を統一して、関東に避難したいのだ。
ここは多元宇宙の1つだと思うから、俺の知る歴史とは違う流れになったけど、天災などは同じに日時に起こっている気がする
天正大地震や慶長大地震の時期に畿内や東海にいると、地震に巻き込まれて死傷する可能性がある。
天正大地震で城ごと土砂崩れに巻き込まれ、一族が滅亡した帰雲城の内ヶ島一族程ではないにしても、後に土佐の国主になる山内一豊は、長浜城で娘を亡くしている。
可哀想に、娘さんは地震で倒壊した屋敷の下敷きになったのだ。
この天正大地震(1586年)は有名だが、その前にも歴史を変えた大地震が発生している。
1585年11月29日の深夜、東海地方でマグニチュード8前後の内陸地震として史上最大級の大地震が発生している。
震源は、岐阜県から三重県にかけて南北に走る養老断層と推定され、史実の被害は織田信雄領の尾張と伊勢、羽柴秀吉領の近江(滋賀県)に集中した。
琵琶湖近くにいた秀吉は、驚いて大坂城へと逃げ出したほどだった。
丁度この時、小牧長久手で負けた秀吉は、家康に復仇すべく兵と整えていたと言う。
しかしこの大地震で、家康戦に集めていた軍勢が壊滅したと言うのだ。
実際に全軍勢が死亡したと言う訳ではないだろうが、天災を不吉と考えた雑兵が逃げ散ったのだろう。
迷信がはびこっていた時代だから、大地震などが起きたら、民心が離れるのは仕方がない事だろう。
とても外征など出来ない。
俺の記憶では、俺の寿命期間中は江戸に大地震はなかったはずだ。
小説のネタにするためにある程度は記憶していたから、記録に残らないようなものは別にして、江戸は安全なはずだ。
だからこそ軍師近習衆の提案を受け入れて、早期日本統一を実現すべく、1000石までの国衆の降伏臣従を認めたのだ。
1000石を越えるような大身国衆も、分家や陪臣の独立や領地替えを認めれば、家の存続を認めたのだ。
その成果が、両尼子家からの大量国衆離反であり、山陰山陽での快進撃だ。
頑強に籠城する城を包囲しなければならないし、降伏臣従を誓った国衆を野放しには出来ないから、大軍団を占領地に駐屯させる必要がある。
だがそれも無駄になる訳ではなく、彼らを動員した国家規模の用水路整備をしたり、河川改修を行う事で、史実の江戸末期の石高を戦国末期に達成する心算だ。
特に直轄領や占領地で新田開発を行えば、倍増した石高で家臣に領地を与えることができる。
そして移動させた家臣の旧領地を鷹司家や武田家の直轄領にして、国家規模の新田開発や河川改修・用水路整備を行えば、また鷹司家や武田家の直轄領は倍増することになる。
占領地の直轄化、新田開発と治水事業、領地替えと新たな直轄領の取得を繰り返す事で、鷹司家と武田家の国力は、他家を圧倒することになるだろう。
まずは完全移占領下に置いた、因幡・伯耆・出雲・石見・美作・備前・備中・備後・安芸の9カ国で試してみる。
「天正大地震後の大地震」
1596年9月1日:慶長伊予地震(慶長伊予国地震)M 7.0。
1596年9月4日:慶長豊後地震(大分地震)M 7.0~7.8。
1596年9月5日:慶長伏見地震(慶長伏見大地震) M 7.0〜7.1。
1605年2月3日:慶長地震(東海・東南海・南海連動型地震) M7.9〜8。
1608年2月30日:仙台で地震・津波で50人死亡。
1611年9月27日:会津地震・M 6.9、死者3,700人。
1611年12月2日:慶長三陸地震・M 8.1。
1614年11月26日:高田領大地震・M 7.7・同じ日に日本海側の越後高田領と太平洋側の伊豆、銚子の両方の津波記録がある他、京、会津、伊豆、紀伊、山城、松山の地震被害記録があり、これらの記録を満足する単一の地震はあり得ないとされる。
1662年6月16日:寛文近江・若狭地震(寛文地震)(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震、近江・山城地震) M 7 1/4〜7.6、死者数千人。
「安芸分郡守護・安芸武田家」
安芸分郡守護は若狭武田氏が継承していたが、安芸武田家は守護代的立場で佐東郡・山県郡・安南郡(現在の安芸郡)を治めていた。
武田元繁:安芸武田家第7代当主
武田光和:安芸武田家第8代当主・武田元繁の嫡男
伴繁清 :武田元繁の次男
武田信実:安芸武田家第9代当主
:若狭武田家第6代当主・武田元光の次男
:安芸守
:1524年8月17日誕生
武田信重:武田元繁の孫
武田宗慶:武田光和の3男
:1524年10月11日誕生
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武田光信:武田宗慶の長男
:1546年5月3日
武田重恵:武田信重の長男(史実の安国寺恵瓊)
:1537年7月19日
:竹若丸・長一郎
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