転生武田義信

克全

第149話暗殺

1559年10月・京二条城の二ノ丸政務殿・鷹司義信・真田幸隆・黒影・織田信長ほか:鷹司義信視点

「閣下、高取山城主の島村豊後守盛実が、謀叛の疑いで殺されました」

「そうか、主導したのは宇喜多直家だな」

「はい、そのように報告を受けております」

さて、着々と備前侵攻の準備が進んでいるのだが、迎え討つ足利連合の足並みが乱れている。

まず備前の後詰をすべき尼子晴久と尼子国久は、俺と敵対しているから表面上は主従の形態は取っているものの、国久は半独立状態だ。

当然その影響は備前の大名国衆にも表れており、浦上村宗と浦上宗景の兄弟は、それぞれ寄り親が尼子晴久と尼子国久に分かれている。

だから直接援軍を派遣してくれる備中の国衆も、浦上村宗は荘為資であり、浦上宗景は三村元親だ。

他に備中で有力な一族は、石川家久の率いる石川家がある。

史実での石川家は、備中騒乱で直系男子が途絶えてしまっている。

史実における、豊臣秀吉の備中高松城攻めで有名な清水宗治は、石川久孝の娘婿である事を言い立てて、半ば強引に石川家の勢力を引き継いでいた。

清水宗治は石川氏の一族、高松城主の石川左衛門佐久孝に仕え、久孝の娘婿であったという。

男子のなかった石川久孝は、須々木氏から筑前守と言う養子を迎えたのち病没した。

ところが養子の筑前守も早世したため、石川氏は断絶となった。

長谷川氏らの家臣諸将は、再度須々木氏から新たに養子を迎えようとしたが、 久孝の娘婿である清水宗治が反対して、みずから城主になることを望んだと言う。

永禄八年(1565)に反対派の長谷川氏らを討って、自ら高松城主となると、ただちに毛利氏に通じ、小早川隆景の麾下に属したと言う。

まんまと石川氏の旧領を手に入れた清水宗治は、 高松城主になる前は幸山城主であったと言う。

幸山城主の石川久式と高松城主の石川久孝は、名乗りからみても近い一族であったように思われる。

石川家久:幸山城主・石川家現当主
石川久智:家久の嫡男・史実では1567年の宇喜多直家との戦いで戦傷死
石川久式:久智の嫡男・1574年に毛利に攻められ自刃する。

だが清水宗治が高松城主になったと言われる永禄八年当時、幸山城主は石川久式だった。

石川家は三村家の家臣のように書かれている本が多いが、俺は同盟者だと思っている。

豊臣秀吉や松永久秀は織田信長の家臣だが、徳川家康は同盟者だと言うのと同じだと思う。

その三村家の三村元親だが、父親の三村家親を謀殺した宇喜多直家と、宇喜多直家と同盟した毛利を許せず、毛利の傘下を離れ織田信長の傘下に入った。

血縁関係にあった石川家も、毛利の傘下を離れて三村元親と行動を共にした。

子供の頃は、備中高松城で切腹した清水宗治は、無意識に義に厚い武士のなかの武士と言うイメージであった。

だが色々と調べているうちに、宇喜多直家程にではないにしても、結構ドギツイ謀略を行っていた気がする。

石川久孝の養子、筑前守は病死ではなく、清水宗治が殺したのだと思う。

清水宗治が直接手を下していないとしても、父の清水宗則か兄の清水宗知が殺したのだと思う。

まあ下克上が当たり前の戦国時代だから、隙を見せたら家臣に殺されるのは当然なのかもしれない。

現代の独特観念で、戦国武士の生き様を批判するのは、お門違いなのかも知れない。

だが少なくとも、俺の側近くに置きたいとは思わない。

まあ備中の事はまだ先の事としても、その前に備前にもまだ独立心の強い有力国衆がおり、金川城主の松田元輝や、龍ノ口城主の税所元常、和田城主の和田伊織も油断ならない。

こんな状態の中国地方は、2つの割ろうと思えば簡単だ。

浦上村宗と浦上宗景の兄弟のどちらかを、備前の介や郡司に任じてやればいい。

そうすればすぐに味方に付いてくれるだろうが、そんな事をすれば、大きな勢力を残してしまう事になる。

だから当然、背後で操っている尼子晴久と尼子国久のどちらかを国司に任じて、味方に引き入れることもできない。

数か国を支配下に置く大名など、絶対に存在を許す訳にはいかない。

血を分けた我が子であろうとも、どれほどの功名をあげた功臣であろうとも、単独で纏まって複数国を領地として与えることはできない。

「好機だとは思われないのですか?」

「いい加減余を試すのは止めておけ、重々承知した上で聞いているのだろうが、大名や有力国衆を残す心算は無いぞ」

「しかしながら閣下、京にいては現地の状況を正しく知ることはできません。閣下が通信連絡に力を入れられ、飛脚、騎馬伝令、狼煙台、旗振り通信、伝書鳩の、5つの通信手段を構築され、居城に居ながら指揮が取れる体制をとられれた事は感服いたします。しかしながら、最前線で直接指揮するのには及びません」

「そんな事は分かっているが、万が一不覚を取るような事があれば、天下百年の計が破綻してしまう。それに細やかな所は、有能な指揮官が補ってくれる」

「殿下、軍団長や師団長を信じておられるのなら、もう少し調略条件を任されてはいかがですか?」

やれやれ、信長は何時も痛い所を突いて来る。

もう少し条件を緩やかにして、寝返り易くしろと言うのだろう。

まあ俺の力が強まるにつれて、寝返りの条件を厳しくしているから、早期に天下布武を達成するためには、条件を緩めないまでも、同条件で寝返らせよと言うのであろう。

戦国時代では、弱小国衆や地侍が、生き残るために主人をコロコロ変えるのは仕方がない事で、いちいち目くじら立てる事ではないのだろう。

今回転機となるだろう宇喜多直家にしても、今はまだ祖父の敵を討つために、島村豊後守盛実を謀殺しただけだ。

俺の知る史実で咎められている、数々の謀略謀殺は、今はまだなにも行っていない。

宇喜多直家を味方に引き入れる事で浦上宗景を潰し、清水宗治を味方に引き入れる事で石川家久を潰して三村家親の力を奪い、浦上村宗の支援ができないようにする。

甲同盟           乙同盟
尼子晴久          尼子国久
浦上村宗          浦上宗景
荘為資           三村元親
浮田国定          中山信正
宇喜多直家

まあ日本国内だけを計算するなら、降伏大名や国衆はもちろん、子弟や功臣にも、多くの領地を与えることはできない。

だが蝦夷・千島・樺太・カムチャツカかまで耕作化する心算なら、浦上兄弟クラスまでなら、転地を条件に同石高で家臣に加えることも不可能じゃない。

だが大陸制覇までは無理だ。

明国まで攻め込むことを考えたら、不覚を取る事もあるだろう。

言葉も通じない、石高で3倍以上の異国に攻め込んだら、家臣領民が苦しむのは目に見えている。

万歴帝が失政を繰り返して明国の屋台骨を腐らせ、清を建国したヌルハチが後金を名乗った1620年前後なら、大陸に攻め込んでも勝てるだろうが、今はまだ嘉靖帝の時代だと思う。

影衆に調べさせていないから確かな事は分からないが、俺の記憶が確かなら、道教に熱中して内政を顧みず、モンゴルン族の侵攻や倭寇との戦いで疲弊していたと思う。

だが隆慶帝の時代には、賢臣を登用する事で財政を再建し、怪しげな道教も追放している。

東夷と呼ばれる日本人が攻め込んだら、明国中が一致団結し、日本人に対抗するだろう。

今攻め込んでも厳しい事になるだろう。

攻め取るとしたら、海軍を整備強化し、海を隔てた琉球や台湾辺りまでだろう。

この辺は王直をはじめとする倭寇を通じて情報を集め、影衆を明国に送り込んで調べる事にしよう。

いや、今1つ信用しきれない伊賀や甲賀の忍びだが、影衆の下で新たに再編し、明国に送り込んでみよう。

風魔をはじめとする関東東国の忍び達には、蝦夷地以北を調べさせよう。

実際に攻め込むかどうかは別にして、正確な情報を集めておく必要がある。

「分かった、滝川一益と猿渡飛影にある程度任せる事にするが、それにしても全ては信繁叔父上がこちらに来られてからだ」

「そうですか、ならばそれまではどうなされるのです」

「今まで通り、軍用道の整備と農地開墾だ」



1559年10月・坂越浦城・滝川一益:滝川一益視点

龍野城主であった赤松村秀は、坂越浦城を通城として、坂越浦を支配していた。

瀬戸内往来の重要な中継地である坂越浦は、赤松村秀の大切な資金源だった。

今は備前侵攻の最重要拠点として私が預かってるが、詰めの城である坂越茶臼山城も整備強化してあるし、坂越浦には海軍艦艇も駐留しているから、敵に攻め込まれる危険はすくない。

備前勢が播磨に攻め込もうとしても、千種川の向こうにある加里屋城(赤穂城)に1万の軍勢が詰めているから、奇襲される事などない。

京から調略基準に関する新たな指示が来たが、どうやら軍師や側近衆が、若様に無理な願いをしたようだ。

不遜な連中だ!

若様の想いを押しのけて、自分の軍略を優先しようとするなど、不忠のきわみだ。

幼い頃に若様に助けられ、慈しんで育ててもらった影衆も、軍師や側近のやり方には思うところがあるようだ。

だからこそ、伝令がこのようなことを俺の耳に入れるのだろう。

まあ俺は途中から拾われた身ではあるが、それでも若様の想いを押しのけて、自分の軍略を押しと通そうする者には怒りを感じる。

山陰方面の飛影殿に相談しなければいけないが、今まで通りの厳しい基準で行かねば、若様を蔑ろにする軍略がまかり通ってしまう。

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