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転生武田義信

克全

第123話近江決戦2

近江坂本周辺・鷹司義信・真田幸隆・織田信長・黒影:第3者視点

「閣下! 敵軍が踏みとどまりました!」

「動きがあったら報告せよ!」

「は!」

「閣下、逃げませんでしたな」

「そうだな、この一戦に全てをかけているのだろう」

「確かにここで負けたら、畿内から叩きだされるでしょうね」

「いや、直ぐには無理だろうな」

「何故です?」

鷹司義信と幸隆の会話に信長に加わって来た。

「逢坂の関を封じ、渋谷街道、三条街道、滑石街道にも兵を置き、非常時に備えているだろう」

「確かに左様ですな、多少の時間はかかりますな」

「敵軍動き出しました!」

「騎馬隊は?!」

幸隆が井楼の見張りに、味方騎馬隊の動静を聞き返した。

「近衛騎馬鉄砲隊と僧騎馬弓隊は徐々に後退しております」

「予定通りですな」

「ああ、大砲隊と大弩砲隊を停止させて、次の砲撃の準備をさせろ」

「承りました」

義信は今回の合戦で、出来る限り足利軍を叩く心算だったが、同時に味方の損害は極力抑える予定でもあった。

そうしなければ、例えここで勝ったとしても、今後の侵攻と復興に障害が出てしまう。

最終秘密兵器の大砲を投入した以上、これで日本を支配権を確立しないと、天下を砲撃戦の戦禍に巻き込んでしまう。

一気に天下平定を成し遂げなければならない。

「大弩砲隊、射撃準備整いました!」

「大砲隊、砲撃準備整いました!」

「騎馬隊射撃線を越えました!」

伝令がひっきりなしに状況報告にやって来て、井楼の見張りが逐一報告の声をあげる。

義信は心臓を氷の手で握り潰されるような痛みを感じ、胃が口から飛び出そうな緊張と不安の時間を過ごしながら、足利軍の前進を待っていたが、もう1度罠にかかってくれた。

「放て!」

もう1度同じ地獄絵図が展開された!

だがここで三好軍が歴戦の軍勢だと証明する光景が現れた。

「盾隊後退!」

一撃を受けて勝てないと判断した三好軍は、即座に全軍撤退を決意した。

当初は一向衆を前線に配備していた為、鷹司大砲部隊の攻撃力を把握できなかったようだ。

だが影衆の報告では、当主の三好長慶や弟達を後方に残っており、三好実休が大竹把隊だけを率いて、戦況を確認する為に最前線にまで進出していると言う。

三好軍だと思われる備えは、整然と撤退している。

だが大竹把隊の後ろにいたのは、最初の砲撃から逃げて来た部隊だった。

味方であるはずの足利督戦隊の攻撃を受けて、嫌々再攻撃に加わったものの、再度の大砲の斉射攻撃に逃げ出していた。

前に進めず後ろに逃げる事も出来ず、左手の比叡山に向かって逃げて行った。

「閣下! 足利軍後退します!」

「潰走ではなく後退か?!」

「盾隊の後ろは叡山に逃げております、盾隊は盾を構えて後退しております」

「歴戦の軍勢ですな、三好勢でしょうか?」

「恐らくな」

「追撃はどうなされます?」

「再開させるが無理をさせるな、敵が釣り野伏を仕掛ける可能性もある」

「承りました」

幸隆が伝令達に指図をしている、敵の指揮官が殿を務め繰り引き行えば、近衛騎馬鉄砲隊と僧騎馬弓隊でも、足利軍を全滅させる事は出来ないだろう。

無理をさせる必要はない、山城、大和、摂津、河内とこれからも追撃戦は続く、各兵科には得意な場所で力を発揮してもらう。

「追撃開始!」

大砲の射程外まで逃げた足利軍を攻撃すべく、4000騎の近衛騎馬鉄砲隊と3000騎の僧騎馬弓隊が、真田綱吉の指揮で再び前進を開始した。

「全隊停止!」

最初は速足で距離を詰め、足利軍鉄砲隊を警戒すべき距離まで来た時に馬を休めた。そして各指揮官は素早く鐙のベルトを詰めて、鐙の位置を高くして馬上で立ち上がった。

義信の提案を受けて、職人が仲間と相談して改良した鞍は、ベルトは革製で鐙は鉄製だった。

ベルトを長くして鐙の位置を低くすれば、重心を下げて安定感をえられるので戦い易くなる。

一方ベルトを短くして位置を高くして馬上で立ち上げれば、遠くまで見通す事が出来て、偵察にうってつけだった。

少しでも遠くを見通せることは、戦況を把握して指揮を執るには必要不可欠であり、大きな武器なのだ。

「構え!」

案の定、足利大竹把隊の後ろに鉄砲隊と騎馬隊が待機していた。

流石に歴戦の三好勢だ、僅かな門数とは言えフランキ砲・カノン砲を手に入れていたため、大砲の攻撃は同士討ちの可能性があり、砲撃の間は追撃がなく、砲撃が終われば追撃が始まると理解していた。

三好勢の大西頼武は、残った大竹把と木盾を掻き集め、鉄砲隊と共に防衛線を構築していた。

馬上でそれを見て取った真田綱吉は、士筒の斉射で足利軍を粉砕することにした。

「放て!」

三好勢で固められた足利軍の殿部隊は、盾隊を防壁とし、鉄砲隊・騎馬隊を逆撃部隊として配して、徐々に後退していた。

足利軍は後詰から順に京へ撤退を開始していた。

山道・峠なら鷹司軍の大砲部隊が使い難い。

それを察して平野部での決戦を回避することにしたのだろう。

「これまででございますか?」

「そうだな、後は地固めをしよう」

義信は追撃戦を実施したかったが、三好勢の巧みな撤退戦に戦果を拡大することが出来なかった。

だが大砲隊を徐々に前進させる事で、戦わずして支配域を拡大することが出来た。





近江堅田:第3者視点

「放て!」

ドーン!

信長の指揮、で一向衆が立て籠もっていた堅田に、大砲と大弩砲の攻撃が加えられた。

堅田は、「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)と言われる3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)による自治が行われていた。

殿原衆は「堅田湖族」とも呼ばれており、堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。

今では領主である延暦寺から堅田関の運営を委任されて、堅田以外の船から海賊行為を行わない代償として、上乗(うわのり)と呼ばれる一種の通行税を徴収する権利を獲得するようになっていた。

一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきたが、堅田大責(延暦寺と堅田衆の合戦)で殿原衆が大敗した為、殿原衆と同等の地位を獲得し、更に人口の多数を占めている為、堅田の指導的地位を獲得するようになっていた。

その所為で堅田を城砦化して一向衆が立て籠もり、近江決戦前から頑強に鷹司軍に抵抗していたのだ。

決戦中は、湖上封鎖と城門前に抑えの兵を置く事で無力化していたが、足利軍が惨敗して撤退した以上、後は根切りして後顧の憂いを断つ状態だった。





近江坂本:第3者視点

「女子供は降伏を許す! 直ぐに出て参れ」

義信は、比叡山延暦寺の門前町として栄えた坂本を包囲していた。

延暦寺が直接攻撃を行って来のは好機だった。

政教分離の原則を守らせたい義信は、民を害し政に介入する僧兵の存在を、解消したいと思っていたのだ。

寺社は平安時代末期には強大な武力集団となり、今の本願寺だけではなく、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)・東大寺なども寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いだけでなく、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえしていた。

特に興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師と呼ばれ、宗教的権威を背景として、御神体を神輿に入れて京の家々を破壊して周る強訴は、僧兵の武力以上の威力をもち、しばしば朝廷や院を屈服させ、国府や他領との紛争を自らに有利に解決させた。

また寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われた。

延暦寺と園城寺(「山門」と「寺門」)の抗争などが有名で、白河法皇は自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)とし、「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であった。

英俊という僧侶が、信長の比叡山延暦寺焼き討ちの前年に延暦寺を訪れた時のことを書き残しているのだが、「山内は人影もまばらで建物は荒廃し、人里に遊びにでも行って帰ってこないのであろうか。」と嘆いています。

これは焼き討ちの前年には、既に延暦寺からは往時の賑わいが失われ、女子供が沢山いるような状況ではなかったことを示しています。

しかし比叡山延暦寺の敷地内に女子供がいる事自体がおかしいのです、戒律を守らなければならない境内に、一時的な参詣者以外の女子供がいる事、そしてそれを誇る心が、比叡山延暦寺の堕落と僧侶・英俊自身の堕落を物語っているのです。

また発掘調査で建物の残骸を年代測定したところ、叡山焼き討ちで焼失したのは根本中堂と大講堂だけであり、他の寺院建築物は焼き討ち以前にすでに失われていたことがわかっています。

信長が比叡山延暦寺焼き討ちをした頃の叡山僧兵達は、修行の場である比叡山延暦寺を離れ楽な坂本に降り、魚肉を喰らい酒色に溺れ女人をかき抱き、俗人と何ら変わるところがないばかりか、浅井・朝倉連合軍を匿い、公然と信長に叛旗を翻す純武装勢力だったのです。

義信は女に化けて逃げようとする僧兵を厳しく詮議し、女子供は甲斐信濃に生産方・女中として送、。投降してきた僧兵は鉱山労働者として各鉱山送りとした。

しかし比叡山延暦寺の宗教的権威を背景として、頑強に抵抗しようとする僧兵達は、坂本を厳重包囲した上で焼き討ちして皆殺しにした。





近江高島郡・清水山城下:鷹司義信視点

「閣下、どうかお許しください。義秋様と晴元様を逃がしたのは元綱でございます、私達は全く知らなかったのです」

「ならぬ、2人を逃がした六角家にも相応の責任をとってもらう約束だ、当然高島殿達にも責任は取ってもらわねばならぬ」

今回俺は一切口を利かず、全てを真田幸隆に取り仕切らせた。

諏訪から京までの街道と領地は、蔵入り地を地続きにする形にしなければならない。

最低でも敵対行動を取りそうな者は排除しなければならない。

「そこをどうか温情を持ちまして・・・・・」

「ならん!」

高島七頭と呼ばれた武士団は一旦解散させた。

表向きは、朽木元綱が足利義秋と細川晴元を助けて、若狭に逃がした事を問題視したのだ。

六角家の降伏臣従を認め、本領分の扶持安堵を約束したが、滋賀郡と栗太郡は鷹司家の直轄領とした、そこに所領を持っていた国衆と地侍は、扶持武士化した。

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