転生武田義信

克全

第115話譲位の儀・即位の儀・朝敵

7月に行われた譲位の儀と即位の儀:鷹司義信視点

全国の大名と国衆の当主または代理が、ほとんど全て御所に集まった。

今の勢力図で、鷹司(武田)・足利(三好)・大内(一条)が合意し盛り立てる皇室行事を、露骨に敵対して欠席できる者はいなかった。

当主が病弱であったり、暗殺を恐れている者だけが、名代を出していたが、それでも不参加の者はいなかった。

当然誰もが手ぶらと言う訳にはいかず、銭を掻き集めてやってきた。

もし完全無視をしたら、朝敵の汚名を着せられ、討伐の対象にされかねない。

鷹司家(武田)が率先したことではあるが、全国の大名や国衆が、総額1万貫文の切手札(観覧券のようなもの)を販売した。

同時に堺・博多・近江・公界の商人と庶民にも切手札販売をさせて、総額1万貫文を集め、皇室・朝廷の臨時収入とした。

これが前例となり、次代の儀式を皇室と朝廷が独自でやれるようになれば、俺の思惑が達成できる。

鷹司家(武田)は、御所の警備に総計5万兵を投入した。

俺の当初の考えでは、2万兵程度で御所の護衛をする予定だったのだが、支配下の国衆・地侍、特に甲斐譜代衆からの参加希望が、強く強くあったのだ。

甲斐譜代衆からすれば、武田家が帝と朝廷を支えたから出来る、一代一度の大行事である。

自分達甲斐譜代衆が、御所の警護に参加するのは当然だと言う思いがある。

だがそれは、鷹司支配下となっている近衛府出仕の国衆や地侍も同じで、近衛府武士団に所属しているのだから、御所の警備に参加するのは当然だと言う思いがある。

本当は綺麗に着色した具足を兵に装備させ、儀式に花を添えるはずだったが、流石に5万兵分の着色具足はなかった。

仕方なく皇室と朝廷に相談して、馬揃え(閲兵式)を行事に追加して貰って、2万の着色具足を皆で使い回して、交代で晴れの儀式に参加することになった。

鷹司家が貸与する具足を使い回すので、それなりの地侍でも足軽の具足になるが、皆満足していた。

特に率先して参加を希望した、武張った変わり者の公家衆は、将兵の先頭に立って馬揃え(閲兵式)に参加できたので、歓天喜地の有様だった。

鷹司が儀式用に揃えた着色具足は、上級大将用の紫を別格として、北条家の五色備・冠位十二階・七色十三階冠を参考に、黄・赤・青・白・黒・緑で揃えた6つの軍団で、それを新たな御所の護りとして創り出したものだ。

そしてそれは近衛府出仕の国衆と地侍の見栄を著しく刺激し、苦しい台所を遣り繰りして、自弁で着色武具を揃えるようになった。

鷹司家としても、持ち出しなしで着色武具を揃えられるのは助かるが、色が混ざった軍は見苦しいので、国元で待機している国衆と地侍が参加する軍団も、予め色を決めておかないといけなくなった。

滞りなく譲位の儀・即位の儀・馬揃えが終わり、俺は3万兵を国元に帰そうとしたのだが、国元が安定している国衆と地侍が、強く御所残留を希望した。

これを無制限に認めてしまうと、御所の護りを考えた部隊編成に支障がでてします。

鉄砲・弓・槍などの各種部隊は、その兵数の割合を最適にしておかないと、長柄兵だけで編成された軍勢より弱くなる場合もあるのだ。

そこで皇室・朝廷・鷹司・足利(三好)・大内(一条)で相談して、足利(三好)が反感を持たないように、1万だった御所常駐兵を6色1万2000兵とし、北近江の鷹司勢力圏に交代部隊を常駐させ、毎月2000兵が入れ替わるようにした。

それでも御所と北近江に、何時でも戦える専業兵3万兵が常駐している事に、三好は不満を言ってきたが、俺と御屋形様が北近江に入らない事を条件に、今回の部隊編制を認めさせることができた。





7月美濃岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆・黒影:鷹司義信視点

「将軍家の使者が、河越公方と関東管領が接触しておりました」

黒影の言葉に皆が緊張する。

「何時だ?」

「早くて12月、おそらく1月に動く心算であろう。朝敵の使者が来るまでに、北条を攻め滅ぼしたいだろうからな」

幸隆は信長の言葉を理解できたが、部屋にいた多く者たちは、信長が将軍家と河越公方と関東管領が何時接触したのかを、黒影に聞いたのだと思っていただろう。

だが信長は、そんな無駄な質問はしない。

3者が接触したなら、3者が何時どういう動きをするかの質問をする。

本当に信長は、馬鹿とは付き合えない奴だ。

流石に三好長慶は油断ならない、恐らく裏で長慶と実休が動いている。

俺達が関東東国を討伐する前に、北条に養嗣子を送り込むと言う情報に対して、即座に手を打って来たのだろう

北条氏康は馬鹿ではない、皇室と朝廷から詰問使が来た時点で、何の手も打たなければ朝敵として滅ぼされると悟ったのだ。

家名と血脈を残すために、武田家から養嗣子を迎えたいと、皇室・朝廷・俺・御屋形様に打診してきた。

俺と御屋形様だけに来たものなら、握りつぶす判断もあっのだが、皇室と朝廷は、早期に天下を平安に導きたい思いと、俺への間違った好意で、北条氏康の打診を受けてしまっていた。

特に後奈良上皇は、戦無く関東が鷹司の下で平安になると、有頂天外のありさまで、話を勧めようとなされた。

これには俺も御屋形様も苦笑するしかなく、氏康にしてやられた思いを隠しながら御受けした。

武田信顕が北条家の当主となり、北条信顕と成る予定なのだ。

氏康の皇室と朝廷への言い訳は、領民に害をなす河越公方と関東管領の兵を仕方なく討伐したとは言え、皇室と朝廷の矢止めの勅命に違反した事は申し訳なく、五摂家の鷹司の縁者を養嗣子に迎える事で御詫びし、幾久しく皇室と朝廷に御奉公したいと言う、皇室と公家衆が喜ぶ言上だった。

これに対して、勅命を先に破って罪無き領民を襲った河越公方と関東管領が、御咎め無しになる訳が無い。

焦った河越公方と関東管領は、慌てて皇室と朝廷に働きかけるも、親鷹司の皇室と朝廷は、河越公方と関東管領を相手にしない。

いや寧ろ早期に鷹司に関東東国を平定してもらい、奪われた荘園や家職銭上納を正常化して欲しいと、心から望んでいる。

それも当然だろう、今まで鷹司が平定した国は、皇室・朝廷・公家衆の荘園や家職銭上納は、鷹司家が代官となる事で、正常化しているのだから。

追い詰められた河越公方と関東管領は、新たに征夷大将軍となった足利義冬と三好長慶を頼ったのだろう。

足利義冬は将軍家による天下を夢見ているし、三好長慶は鷹司家が関東東国を制圧した後で、畿内を攻めるだろうと考えているのだろう。

だからこそ河越公方と関東管領を鷹司家と戦わせ、対鷹司家用の武具を整え兵を訓練する時間を稼ぐ心算だろう。

更に出来る事なら時間稼ぎだけではなく、鷹司家の戦力を削り、鷹司家の騎馬鉄砲隊や大弩砲車の対抗策を知りたいと思っているはずだ。

「どう動いた?」

「全てを知る事は出来ませんが、堺を通じて鉄砲と玉薬が買えるように仲介しております」

黒影も信長の唐突な質問を理解してて、的確に答えることができている。

「まあそうだろう、今具体的な敵対行動など犯せば、朝敵の汚名を着る。だからと言って三好としても、我らの兵を分断する為に御所警備の兵数増大を認めれば、己の首を絞めることになる。それに身銭を切っての支援などしたら、将軍家も三好も自分たちの軍勢を整えられなくなる」

幸隆の言う通りだろう、義冬も長慶もぎりぎりの選択だ。

伊那と諏訪の大鉄砲生産地に続いて、近江国友村の鉄砲生産地が鷹司の支配下に入ったのだ。

無償で関東勢に鉄砲や玉薬の支援などできない、何かとんでもない代価を得ていれば話は別だが。

俺の導入した鉄砲鍛冶増員計画は、順調に推移している。

農具等を作る野鍛冶に弟子を送り込み、初期教育をさせる。

優秀な野鍛冶で希望する者を刀鍛冶にし、初期修行を終えた弟子を数打ちの刀鍛冶の弟子にする。

数打ち刀鍛冶として中級教育を終えた弟子を、今度は鉄砲鍛冶の弟子にする。

鉄砲鍛冶の弟子として高等教育を終えた弟子は、1人前の鉄砲鍛冶として1つの工房を任される事になる。

このようなシステムが順調に稼働した御蔭で、大量の鉄砲を自給自足できるようになった。

「今後も動きを探れ、特に一向衆の動きに気を付けろ、動くとしたら奴らだ。後は粛々と討伐の準備を整えろ」

「承りました」


12月美濃岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆:鷹司義信視点

大嘗祭(だいじょうさい)の儀式が着々と行われる中で、俺は関東討伐の軍勢を整えていった。

来春に正式配備するはずだった者達を、少々早いが各地の駐屯軍に回し、歴戦の戦士を最前線に配備した。

関東方面に配備した飛影の軍団には、戦闘準備を命じた。

上総の八柏道為の軍団を増強し、総大将として滝川一益、副総大将として狗賓善狼を送り、八柏道為は軍師大将とした。

大嘗祭の全ての行事が終わって、後奈良上皇から、矢止め違反の河越公方と関東管領討伐を命じる、院綸旨(いんりんじ)が送られてきた。

皇室・朝廷・俺・御屋形様は、色々と対応策を協議する中で、今上帝と朝廷が戦に係るリスクを減らす努力をした。

俺に負ける気は毛頭無いが、この世の中に絶対はない。

俺が負けた所為で、今上帝が危地に陥るなどあってはならない。

そこで矢止めの勅旨を出されてから譲位された後奈良上皇に、院綸旨と言う形で討伐令を出してもらった。

最低でも公式文書としなければならないが、後奈良上皇にも御負担をかけないように、出来る限り軽い文書にしたい。

そこで院政で出せる一番軽い公式文書の、院綸旨での討伐令を出して頂く事にした。

同時に河越公方・関東管領・佐竹義昭・関東軍諸将へも、城地は没収するものの、検地した半知分を扶持として支給し、鎮守府出仕の武士としての地位を約束すると言う院綸旨も発して頂いた。

勅旨:今上帝のみが太政官符を添付して発する公文書
宣旨:勅旨を簡略化し印璽なき文章
綸旨:宣旨を更に簡略し、蔵人だけで天皇の意を受けて発給する文書
女房奉書:公式とは言えない私信
御沙汰書:公式とは言えない私信





12月の各地状況:第3者視点

討伐令を受けて最初に動いたのは、武田信玄指揮下の武田軍だった。

戦に備えて雪が降る前に峠を越えており、上野と武蔵の武田方国衆の城に詰めていた。

その甲斐と信濃の武田譜代衆が、関東軍を挑発した。

同時期に相模と伊豆の北条家城砦に駐屯していた、飛影軍団も関東軍を挑発した。

関東軍諸将の結束は、12月には完全に崩壊していた。

元々北条憎しと私利私欲で集まった者達だ。

しかも御所での儀式観覧と上洛往復旅程で、鷹司軍の威勢は身に染みている。

家と血脈をを守りたい関東の国衆や地侍は、朝敵の汚名を着てまで、必敗の関東公方や関東管領に味方する者は少なかった。

ここで小笠原長時と神田将監が関東にいれば、まだ抵抗の術もあったのだろうが、2人と小笠原騎馬隊の幹部達は、即位の儀で上洛した時に足利義冬と三好長慶の勧誘説得を受けて、足利幕府の評定衆兼侍所別当として畿内に残っていた。

小笠原長時と神田将監の2人は歴戦の勇者であり、戦場往来の古強者である。

矢止めの勅旨違反後の関東軍必敗を、十分理解していた。

小笠原騎馬隊を編成した武士の中で、長時に忠誠を誓い領地を持たない者は、矢止めの間に関東を離れて、摂津に居を移した小笠原長時の下に参集した。

領地を持ち目端の利く者は、鷹司義信と武田晴信に降伏臣従の密使を送ったり、御所での儀式で上洛した往復路の間に、鷹司義信と武田晴信に謁見を求めていた。

武田譜代衆は、鷹司軍が合戦で鹵獲した小筒や中筒を買い取って、全員が鉄砲を装備していた。

御所での馬揃えに参加し、若殿である鷹司義信が訓練した兵達に劣る事を自覚し、将来を考えて恐怖した。

このままでは、次代の武田家(鷹司家)で取り残される事に、ようやく譜代衆全員が気付いたのだ。

今迄も褒賞目的で若殿の軍に志願し、援軍として前線に参加していた者は、頭では分かってはいたのだが、認める事が出来なかったのだ。

この状態でも河越公方・関東管領・佐竹義昭の忠誠を誓う者はいる。

彼らは旧小笠原騎馬隊の残存戦力を再編成して、武田軍を迎撃をしようとした。

しかしここで風魔忍者が、生き残りをかけて動いた。

厩を襲って、馬を盗んだり逃がしたりしたのだ。

馬を毒殺するだけでは相手の戦力を削ぐだけだが、盗み取る事が出来たら、味方の戦力を増強する事が出来る。

武田譜代衆8000兵と飛影軍団2万1000兵に加えて、降伏臣従した関東の国衆と地侍が、続々と拠点城砦に集まった。

そこに一益軍団の1万6000騎と1万7000兵が、上総から下総に侵攻した。

もはや関東東国に鷹司軍に抵抗出来る勢力など存在しなかった。

コメント

コメントを書く

「歴史」の人気作品

書籍化作品