転生武田義信

克全

第114話立皇太子儀・譲位の儀・即位の儀

5月美濃岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆:鷹司義信視点

立皇太子儀は、崇光天皇が暦応元年(1338年)に行って以来、217年間も行われていなかった行事である。

伊那に疎開していた公家衆は全て参加を希望したが、護衛無しに送り出すわけにもいかず、一条卿・三好・六角と話し合いの上で、年末までは鷹司家の責任で御所の警備を増員することとなった。

まあ既に近衛府軍として、鷹司軍1万が御所にいる以上、他者が入り込めば無用の合戦を誘発しかねないから、誰もごり押しはできなかった。

誰だって皇室悲願の行事を血塗られたものにして、朝敵にはなりたくない。

そして俺は一連の行事を全て欠席する為に、鷹司家当主を隠居し、跡を鷹司実信に任せた。

その理由の1つは、儀式や行事が大嫌いで、前世から逃げまくっていたこと。

もう1つの理由は、暗殺を恐れたからだ。

ここまで天下が定まれば、俺が暗殺されても御屋形様が天下を統一されるだろうが、それでは俺の望む天下とは、全然違う仕組みになってしまう。

そこで今上帝と方仁親王に連絡を取り、許しを受けて前関白の太閤になった。

「入れ替えましょう」

これこれ信長君よ、もう少し分かり易く話せないかな、教育の為に軍議に参加させている、近習と小姓が目を白黒させているよ。

「左様ですな、御所に詰めている近衛衆は、元々足利、細川、畠山、三好、六角などの間を、渡り歩いた雑兵が多く、危地に陥れば去就(きょしゅう)の怪しい者も多くおります。ここは公家衆の護衛に、心頼もしき者達を送り込み、儀式が終わって戻る時に入れ替えましょう」

そうだよ、これくらい丁寧に説明して欲しいんだよ、これなら若衆の教育になるんだよ。

だが信長にこれを求めるのは、ちょっと無理だろうな。

ついつい完璧な人間を求めてしまうけど、そんな人材が容易(たやす)く手に入るわけないよな。

「相分かった、難民から鍛え上げた、我に忠誠心の厚い者達に、弓鉄砲、兵糧、大弩砲などを持たせて、公家衆の護衛として送り出そう」

「断って頂きましょう」

「それがようございますな、。一条卿の願いを我らが直接断れば角が立ちますから、伊那を襲われた時に被害にあった公家衆を通じて、帝や方仁親王に断って頂くのが一番でございます」

信長の話は、言葉を極端に省いた上に走り幅跳びするから、今鷹司家に起こっている問題の優先順位が分からない者には、何の話をしているのかさっぱり理解できない。

厳選メンバーでの密談ならいいけど、今日のような教育を兼ねた場合は、幸隆のような説明役が必要不可欠だな。

「相分かった、伊那襲撃時に今川義元と通じて、我らを裏切りった公家衆。今は大内に逃げ込んでいる者共は、御所への帰参は認めない。一族一門から後継者を立てさせる」

「それがようございます。子弟を後継者に送り込みたい、子沢山の公家衆もおりましょう、朝議でも反対する者は、少ないと思われます」

まあそうだろうな。

いま御所に圧倒的に多いのは親鷹司派だし、そこに伊那に下向している公家衆が加われば、多数派工作など不必要なくらい圧倒的になる。

前世では、儲君治定(後継者指名)が立太子の礼に先立って行われていて、立太子の礼の後継者指名としての意味合いは低下していた。

でも儲君治定は、1682年に霊元天皇が立皇太子儀を再興するに当たり、立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君に治定したのが始まりだ。

だからまだこの時代には無かったもので、だからこそ立皇太子儀は、この時代の皇室と朝廷にとって大きなものなのだ。

もっとも霊元天皇が儲君治定の儀式を創り出し、立皇太子儀を復活させたのは、お気に入りの第4皇子・朝仁親王(東山天皇)を天皇にするための暴挙だったと思っている。

後水尾法皇の遺命で次期天皇に内定していた、第一皇子の一宮(後の済深法親王)を押し退けて、朝仁親王を天皇にする為の策謀だ。





6月美濃岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆:鷹司義信視点

「移動させましょう」

「それが宜しいですな。防御力強化するために、御所の修復や他の建物の新築を行っておりますが、その為に多くの貧民や河原者などを集めています。しかしその者どもを作事が終わった後も畿内に置けば、三好などの足軽に雇われてしまうかもしれません。引き続き高き銭で雇って、三河、尾張、美濃に移動させましょう。引き続き工夫として雇ってもよし、戦のない土地での耕作を望む者がおれば、開墾の終わった田畑の百姓にしてもいいでしょう」

相変わらずの信長と幸隆の軍議だが、同じ部屋で聞いている近習と小姓の能力が、急速に上がっている気がする。

ある程度の下地を勉強させた後でなら、習うより慣れろで、このような半ば競い合いのような軍議の場で鍛えた方が、能力が上がるのかもしれない。

もっともどんなやり方も、向き不向きがあるだろうが。

今回の軍議の内容に関しては、もちろん俺も賛成だ。

戦闘工兵の準備段階として導入している黒鍬輜重を、そろそろ近衛工兵隊と近衛輸送隊として、分けてもいいかもしれない。

だがその為には、畿内の優秀な職人や工夫を集める必要がある。

しかしその前にやって欲しいこともある。

「近江に移動させる。米原、長浜、尾上、木之本、塩津、大浦、菅原、海津、百瀬、今津などの、鷹司の支配下にある船を統合して、近淡海(ちかつあふみ)(琵琶湖)に水軍を創設する。大工や人夫は、水軍用の城を築くのに活用する。それと船大工もできるだけ集める」

「拠点は?」

信長は俺を試しているのか?

確かに今後の戦況によっては、近江の補給路は大切になる。

北国街道と山道の2つを確保したうえで、圧倒する近淡海水軍で補給を確保すべきだ。

「第1に長浜、第2に塩津、それに大浦、米原、海津の順に優先する」

「丸子船ですか?」

丸子船:長さ17メートルの百石船で米俵を250俵積んだ

「機動性に優れてた小早と関船にすべきでしょう」

幸隆が言うことが常識的な手段なのだろうが、史実を知る以上あれを作らせるしかないな。

「小早と関船に加えて、敵の攻撃に耐える、鉄張りと銅張りの大安宅船を建造させよ。有効なら全海軍艦船に、鉄張りと銅張りを取り入れる」

珍しく信長が驚いているな、御免ね、本当は君の受け売りなんだよ。

「承りました」

幸隆、尊敬の眼差しは止めてくれ、良心が疼く。

「我は1人で朝廷工作を考える、その方達も屋敷で今一度考えて、明日の軍議で答えよ」

「はっ、承りました。」

さて一連の行事だが、立皇太子儀を終えた後、東宮となられた方仁親王付きの役職が出来た。

そして7月中に、今上帝が譲位の宣命を宣布する儀式と、その後に行われる皇太子への剣璽を引き渡す儀式(剣璽渡御の儀)を行う。

その為の準備は全て整えた。

大きな箱物は、全て鷹司の力で建築出来ていたし、細々とした品々も、伊那に下向していた公家達の協力で作り終えている。

問題があるとしたら、参加する公家達の儀式練習だけだろう。

なぜ7月中に終わらそうと急ぐかと言うと、毎年11月に天皇が宮中三殿の近くにある神嘉殿で、五穀の新穀を天神地祇に進め、また自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する新嘗祭が行われるのだ。

だが新天皇の即位の年だけ、五穀豊穣を感謝しその継続を祈る一代一度の大嘗祭「践祚大嘗祭」が行われるからだ。

その大嘗祭を年内に行うのか、それもと来年の11月に行うのか、それを決める境目が7月末日なのだ。

皇室行事を疎かにする気は毛頭無いが、来年中も合戦が出来ないと、天下の構想が1年遅れてしまう。

だから何としても年内に、全ての皇室行事を終わらせたいのだ。

史実では、戦国時代の後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫していて、1500年(明応9年)に践祚したにも拘らず即位の儀式を行えず、22年後の1521年(大永元年)に室町幕府などからの援助を元に、やっと即位の儀式を行っていた。

直接のきっかけは幕府が2000貫文を献金したことだが、実際には文亀年間から何度かに分けて幕府から献金されていた費用と、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具を蓄積して、やっと実施出来たのだ。

今上帝(後奈良天皇)即位の時は、後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、それでも費用不足で、大永6年(1526年)4月29日に後柏原天皇の崩御にともない践祚したのに、即位儀式を行えなかった。

そこで全国から寄付金を募ったが、それでも10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)に、ようやく紫宸殿にて即位の儀式を行う事ができた。

また方仁親王(正親町天皇)の時も、皇室財政が逼迫していて即位の儀式費用がなく、毛利元就の援助を得て、やっと即位の儀式を行うことが出来たのだ。

しかしながら、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさず即位の儀式は挙行されている。

だがこの世界では俺がいる、毛利元就や三好長慶などに手出しはさせない。

いや、織田信長ですら譲位の儀を願った正親町天皇に対して、仙洞御所を建築することが出来ずに、お断りしたという説さえあるのだ。

銭に糸目はつけない、鷹司と武田の尊皇と富裕を見せつける意味でも、出来るだけの事をする。

それと後奈良天皇即位の儀に参加した事のある公家衆の話では、庶民が雲霞(うんか)の如く現れて見物しただけではなく、庭上にも見物人が乱入したりして儀式に支障をきたしたこともあるらしい。

鷹司が仕切る近衛軍が警備に当たる以上、絶対にそのような不祥事を起こさせない。

だがこのような見物が当たり前ならば、今後の皇室財政を考え、切手札(観覧券のようなもの)を作って売り出せば、今後の即位の儀では費用の足しにできるだろう。

将来は商人が国を担う時代になる事も知っているのだから、その時代の下準備をしておくことも俺の大切な仕事だ。

殿上に上げることは決して出来ないが、堺や近江の商人たちにはよい席を作って、大金で買い取らせる前例を作っておけば、今後の皇室行事を武家に頼らない仕組みを作れるかもしれない。





7月美濃岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆・黒影:鷹司義信視点

「矢止め勅命違反があったのか?」

「関東軍が北条領の村々を襲いました」

黒影の報告に室内の温度が一気に下がり、皆に緊張が走る。

「誰だ」

「上杉憲政配下の足軽と、足利晴氏配下の足軽でございます」

信長の簡潔な問いに黒影が答えるが、どう対応すべきか皆が思案に入る。

「北条家は応戦したのか?」

「はい、軍の再建途上ではありますが、民を助けるために出陣しました」

俺の問いに黒影が、淡々と感情を乗せずに答える。

「足軽たちはどうした?」

当初は逃げようとしたものの、周りを囲まれ居直ったようで、管領と公方の威光を笠に着て、徴発をしただけと申したようでございます」

「それに対して北条はどうした?」

「問答無用で、全員攻め殺したそうでございます」

北条も小笠原騎馬の略奪と夜襲で追い込まれ、形勢逆転をかけた野戦に敗北して、今では存亡を賭けた籠城をしているから、堪忍袋の緒が切れているのだな。

「複数回行われているのだな?」

「今分かっているだけで、6度の小競り合いがありました」

「皇室と朝廷に御報告して、詰問使を送って頂く。勅命に背くものは、誰であろうと攻め滅ぼす。年明けには合戦に持ち込み、問答無用で攻め滅ぼす、用意を整えておけ」

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