転生武田義信
第105話近江侵攻
9月近江:第3者視点
六角は疑心暗鬼になっていた。
いや六角だけではない、六角の国衆や地侍はもちろん、浅井の国衆や地侍も疑心暗鬼になっていた。
皆が子や弟はもちろん、一門に下剋上されるのではないかと、疑心暗鬼となっていた。
疑われた者どもは、信頼されていないことに最初は落胆し憤ったが、徐々に誅されるのではないかと警戒し、遂には疑われるくらいなら謀反を考えるようになっていた。
そんな緊張が続く中で農繁期に入り、突如として鷹司軍が近江の伊香郡余呉に現れ、東野行信の東野山城と東野館を急襲して、瞬く間に落城させた。
深夜から夜明けにかけて実行された城攻めは、同時に複数の城砦で行われ、磯野員詮の唐川城・大橋秀元の磯野山城・雨森弥兵衛清貞の雨森城・井口経親の井口城、他にも小山城・小山館・田部山城が一気に制圧された。
鷹司軍は、久しぶりに嶽影配下の城砦攻略部隊を投入した。
彼らは久しぶりの実戦に勇躍し、静かに堀を越え壁を登り柵や塀を飛び越えて城に侵入し、何の抵抗も受けずに城門を開いた。
そこに突入部隊が極力静かに突入して、城内を占拠していった。
六角勢は三好の猛攻を防ぐために、多くの兵が山科口・妙見山城・甲賀に配備されていた。
残りの兵も、鷹司軍の侵攻を防ぐため、関ヶ原方面の上平寺城・刈安尾城・長比城・須川城に配備していた。
しかし鷹司軍は、秘かに揖斐川上流の山道を整備し、余呉方面までの道と、拠点となる砦を築いていたのだ。
東野行信 :東野山城・東野館
田部家 :田部山城
小山家 :小山城・小山館
雨森弥兵衛清貞:雨森城
赤尾清綱 :赤尾城・京極旧臣
海北綱親 :
井口経親 :井口城・浅井長政の叔父
佐々木氏の庶流と言い高時川の「井預り」として水利権を掌握
磯野員昌(いそのかずまさ):佐和山城主・京極や磯野本家を裏切った宮沢系
磯野為員:元磯野山城主・浅井と京極の争いで一族の宮沢忠左衛門の裏切りで討ち死に
磯野員詮:唐川城主・為員の父
大橋秀元:現磯野山城主
遠藤直経:須川城主・長政傅役・知勇兼備の謀将・諜報担当
十二分に時間をかけて準備した城攻めは、その後の籠城も考慮されていた。
占拠した城には、大量の兵糧・武具・弾薬が運び込まれたが、特に大弩砲と弓矢・弩・弾薬の量は膨大だった。
同時に六角勢の反抗を警戒予防するために、相良友和の騎馬鉄砲隊2000騎を小谷城方面に進出させ、攻勢防御として国衆の平城を急襲させた。
少数の守備兵しか残っていなかった、浅井家の国衆と地侍の城は、鷹司侵攻に対する対応はまちまちであった。
女子供とともに必死で籠城する城もあれば、飛語流言の成果で雑兵が城門を開くところもあった。
相良隊は、開城したり逃亡してきた兵を余呉方面に向かわせた。
そして相良隊は、空き家になった城の兵糧・宝物・武具を、近隣の百姓を徴用して余語方面に運ばせた。
鷹司軍が制圧した余呉方面の城砦に、荷物を運んだ百姓達は、運んだ物の中から宝物や銭を褒美として与えられて帰された。
何を百姓に与えても、浅井の侍達が奪い返すだろう。
だから奪い返されても直接戦に関係しない、宝物や銭を褒美にした。
だが鷹司家から一旦褒美として与えられた物を、浅井の侍に奪われた百姓衆の気持ちは、浅井への恨みに向うだろう。
総大将の一条信龍(土岐信龍)は、間髪入れずに田屋城主の田屋明政に調略の使者を送った。
今度のは単なる流言飛語ではなく、正式な鷹司家の使者である。
田屋家は浅井一門筆頭の家柄で、明政は浅井家先代当主・亮政の嫡女・浅井鶴千代の婿だ。
そして亮政の養子となり、現当主の久政が産まれるまでは、次期当主として扱われていたのだ。
田屋明政が浅井久政と共に美濃口に出陣していたため、城地を預かる家老と話をして、家老から明政に知らせが走った。
田屋明政:田屋城・長法寺館・沢村城
:浅井亮政の一時養嗣子・久政誕生で無効。
「鷹司義信が田屋明政に与える恩」
1:本領安堵。
2:浅井名跡の継承を認める。
3:田屋本家とは別に越後で5000石を与える。
「田屋明政の鷹司義信への奉公」
1:近隣の国衆・地侍を鷹司に引き込む手伝い。
2:浅井本家の家臣調略の手伝い。
3:六角蔵入り地の占領。
4:高島七頭の調略の手伝い。
「高島七頭」
高島越中・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎の七家
「高島佐々木氏一族」
高島、平井、太田、下坂、朽木、横山、田中、永田、市原氏
鷹司軍の近江侵攻の報告を受けた浅井久政は、急ぎ六角家に報告の使者を送るとともに、小谷山城に戻ろうとした。
だが一条軍が近江侵攻したのと時を同じくして、西美濃の国衆が関ヶ原に集結して、近江に侵攻する素振りを見せたのだ。
十中八九囮の陽動なのは確実で、尾張の織田と一向衆を無視して、美濃を留守にするはずがない。
だが相手は鷹司である。
西美濃衆に莫大な銭を与えて、出陣準備を整えさせていたとう報告も入っている。
大量の足軽や牢人を雇ったことも考えられ、国境を無防備にするわけにはいかない。
そこで信頼する須川城主の遠藤直経に後を任せ、最大動員していた1万余兵のうち5000兵を率いて、急ぎ小谷山城に戻った。
近江猿楽から、久政が小谷山城に向かったとの知らせを受けた相良騎馬鉄砲隊2000騎は、急ぎ小谷山城山麓の森に向かい、馬を降り待ち伏せした。
相良は、人馬ともに枚を含ませ音を立てさせないようにして、浅井久政の帰城を待ち受けた。
第1の伏兵部隊1000騎は、浅井勢が半ばまで通り過ぎるのを待って、半数の500騎が浅井久政と思われる武者に面制圧射撃を行った。
次いで250騎が、まだ統制のとれていそうな集団に向けて、面制圧射撃を行い、更に250騎が面制圧射撃を行った。
500騎の一斉射撃など受けたことのない、浅井軍の馬が暴れだし、奇襲に呆然としていた武者を振り落として逃げ出した。
同時にこの惨劇に茫然自失になっていた農民兵が、恐慌状態になり大声をあげて逃げ出した。
鉄砲の射程外にいた少数の武者が手勢をまとめ、小谷山城に逃げるように指示した。
前列にいた浅井勢は小谷山城に向かったものの、後列にいた浅井勢は散り散りになり、一部の集団が須川城方面に逃げ出した。
第1伏兵部隊は、散り散りに逃げ出した将兵に降伏を呼びかけ、鷹司軍に吸収していった。
第2の伏兵部隊1000騎は、潰走状態で小谷山城に向かう浅井勢の先頭が通過する瞬間に、面制圧射撃を行った。
250騎4隊に分けられた部隊は、1分4射の間隔で連続射撃を繰り返し、次々と浅井勢を射殺し続けた。
第1伏兵の射撃で致命傷を受けていた浅井久政は、この連射を受けてで落命し、残った浅井勢を指揮しようとするものは、次々と狙い撃ちにされた。
恐慌状態となった浅井兵は、泣き叫びながら逃亡するか、地に伏せて降伏した。
ここで一条信龍の策に齟齬(そご)が生じた。
建前上は、守護である京極家の高延と、浅井家当主候補だった田屋明政は、討ち取らない予定だった。
だが京極高延と田屋明政が鷹司に味方することを恐れた浅井久政は、常に高延と明政を自分と同行させていたため、久政とともに落命してしまった。
この知らせを受けた田屋家は頑なになり、降伏臣従を受け入れなくなってしまった。
この報告を受けた六角義賢は、重ねて国衆や地侍の兵を集めようとしたが、もはや国衆に兵を出す余裕はなかった。
まして稲刈り作業が差し迫っていて、本来なら今動員している農兵を、帰農させなければいけない時期なのだ。
じりじりと時が経つ中で、六角義賢は何の手立ても打てず、一条軍の跳梁跋扈を許すことになった。
そんな数日後、浅井久政に近江を追われ京に潜んでいた京極高吉が、一旗組の牢人と足軽を集めて、一条信龍の前に現れた。
そこで京極高吉を旗頭にして、降伏してきた近江の雑兵を付けて、京極軍を整えることにした。
相良騎馬鉄砲隊は、浅井勢を壊滅させた後も、浅井方城塞群への襲撃を続けていた。
浅井久政だけでなく、海赤雨の三士・浅井三将と称えられた、赤尾清綱・雨森弥兵衛・海北綱親など、多くの国衆と地侍が討ち取られていた。
籠城しているほとんどの城砦群も、当主を失い失意のどん底で有った。
城に残った女子供は、このまま籠城したくても雑兵が裏切る可能性が高く、相良のだした半知安堵・半知扶持化(近衛府出仕分)の条件を受けて、降伏臣従を誓った。
相良騎馬鉄砲隊は、京極勢と共に佐和山城を取り囲み、城主の磯野員昌に降伏臣従を勧告した。
佐和山城は六角家との境目の城であり、秘かに六角家からの独立を目論んでいた浅井久政は、磯野員昌には兵の動員をかけず戦力を残していた。
その磯野家は京極家の忠臣であったが、一門の宮沢忠左衛門の裏切りで当主が討ち死にし、その忠左衛門の息子と孫が、磯野員宗と員昌を名乗って、磯野家を横領していたのだ。
佐和山城では、元々の磯野本家の兵が磯野員昌を裏切り城門を開けた為、同士討ちが勃発した。
それを見た相良は、京極勢に突入を指示した。
京極兵が降伏した者は助命すると叫びながら突入したため、佐和山城は瞬く間に落城した。
磯野員昌は僅かな忠臣に家族を守らせ、六角家の勢力圏に落ち延びていった。
京極勢に佐和山城の守備を任せた相良騎馬鉄砲隊は、馬首をめぐらせ余呉方面に戻った。
これにより一条軍は、小谷山城と美濃口の城砦を除く、浅井郡・伊香郡・坂田郡の城砦を、全て降伏臣従させた。
だが相良騎馬鉄砲隊は休む事無く、原昌胤勢1000兵と共に、当主を失った田屋城を囲んだ。
田屋明政は男子に恵まれておらず、田屋明政討ち死によって、田屋の家名と血脈を残す事が難しくなった。
そこに相良から書状が届き、知行は召し上げるが半知分の扶持は保証し、観音寺城で人質となっている猿夜叉丸(浅井長政)を助命したうえで、田屋家の婿養子として子弟に浅井と田屋の名跡を継がせると約束してきた。
鷹司義信の署名と花押のある書状を受けた田屋明政の妻女は、浅井家と田屋家を残すため、降伏臣従を受け入れた。
相良騎馬鉄砲隊と原昌胤はさらに軍を進め、高島七頭の総領家である高島高賢の、清水山城・日爪城・日爪南砦を囲んだ。
中島宗左衛門:丁野山城主
赤尾清綱 :京極旧臣・小谷山城赤尾屋敷
三田村左衛門:三田村城主
月ヶ瀬忠清 :月ヶ瀬城主
阿閉貞征 :山本山城主
浅井政澄
「海赤雨の三士・浅井三将」
赤尾清綱 雨森弥兵衛 海北綱親
「湖北四家」
赤尾家・雨森家 磯野家・井口家
一条信龍が、相良騎馬鉄砲隊以外の兵を、ほとんど戦闘に投入しなかったのには2つの理由がある。
1つは守勢重視で、侵攻直後に確保した城砦を堅持するためだ。
もう1つは、若狭武田家と越前朝倉家への警戒だった。
若狭武田家当主の武田信豊は、六角定頼の娘を正室に迎えていたし、その間にできた嫡男の義統は、先代将軍の足利義晴の娘を正室に迎えている。
同じ武田氏とは言っても、とてもではないが油断できないのだ。
それに朝倉家は、一向衆との熾烈な戦いの中とは言え、浅井家との縁が深く、油断する訳にはいかなかった。
六角は疑心暗鬼になっていた。
いや六角だけではない、六角の国衆や地侍はもちろん、浅井の国衆や地侍も疑心暗鬼になっていた。
皆が子や弟はもちろん、一門に下剋上されるのではないかと、疑心暗鬼となっていた。
疑われた者どもは、信頼されていないことに最初は落胆し憤ったが、徐々に誅されるのではないかと警戒し、遂には疑われるくらいなら謀反を考えるようになっていた。
そんな緊張が続く中で農繁期に入り、突如として鷹司軍が近江の伊香郡余呉に現れ、東野行信の東野山城と東野館を急襲して、瞬く間に落城させた。
深夜から夜明けにかけて実行された城攻めは、同時に複数の城砦で行われ、磯野員詮の唐川城・大橋秀元の磯野山城・雨森弥兵衛清貞の雨森城・井口経親の井口城、他にも小山城・小山館・田部山城が一気に制圧された。
鷹司軍は、久しぶりに嶽影配下の城砦攻略部隊を投入した。
彼らは久しぶりの実戦に勇躍し、静かに堀を越え壁を登り柵や塀を飛び越えて城に侵入し、何の抵抗も受けずに城門を開いた。
そこに突入部隊が極力静かに突入して、城内を占拠していった。
六角勢は三好の猛攻を防ぐために、多くの兵が山科口・妙見山城・甲賀に配備されていた。
残りの兵も、鷹司軍の侵攻を防ぐため、関ヶ原方面の上平寺城・刈安尾城・長比城・須川城に配備していた。
しかし鷹司軍は、秘かに揖斐川上流の山道を整備し、余呉方面までの道と、拠点となる砦を築いていたのだ。
東野行信 :東野山城・東野館
田部家 :田部山城
小山家 :小山城・小山館
雨森弥兵衛清貞:雨森城
赤尾清綱 :赤尾城・京極旧臣
海北綱親 :
井口経親 :井口城・浅井長政の叔父
佐々木氏の庶流と言い高時川の「井預り」として水利権を掌握
磯野員昌(いそのかずまさ):佐和山城主・京極や磯野本家を裏切った宮沢系
磯野為員:元磯野山城主・浅井と京極の争いで一族の宮沢忠左衛門の裏切りで討ち死に
磯野員詮:唐川城主・為員の父
大橋秀元:現磯野山城主
遠藤直経:須川城主・長政傅役・知勇兼備の謀将・諜報担当
十二分に時間をかけて準備した城攻めは、その後の籠城も考慮されていた。
占拠した城には、大量の兵糧・武具・弾薬が運び込まれたが、特に大弩砲と弓矢・弩・弾薬の量は膨大だった。
同時に六角勢の反抗を警戒予防するために、相良友和の騎馬鉄砲隊2000騎を小谷城方面に進出させ、攻勢防御として国衆の平城を急襲させた。
少数の守備兵しか残っていなかった、浅井家の国衆と地侍の城は、鷹司侵攻に対する対応はまちまちであった。
女子供とともに必死で籠城する城もあれば、飛語流言の成果で雑兵が城門を開くところもあった。
相良隊は、開城したり逃亡してきた兵を余呉方面に向かわせた。
そして相良隊は、空き家になった城の兵糧・宝物・武具を、近隣の百姓を徴用して余語方面に運ばせた。
鷹司軍が制圧した余呉方面の城砦に、荷物を運んだ百姓達は、運んだ物の中から宝物や銭を褒美として与えられて帰された。
何を百姓に与えても、浅井の侍達が奪い返すだろう。
だから奪い返されても直接戦に関係しない、宝物や銭を褒美にした。
だが鷹司家から一旦褒美として与えられた物を、浅井の侍に奪われた百姓衆の気持ちは、浅井への恨みに向うだろう。
総大将の一条信龍(土岐信龍)は、間髪入れずに田屋城主の田屋明政に調略の使者を送った。
今度のは単なる流言飛語ではなく、正式な鷹司家の使者である。
田屋家は浅井一門筆頭の家柄で、明政は浅井家先代当主・亮政の嫡女・浅井鶴千代の婿だ。
そして亮政の養子となり、現当主の久政が産まれるまでは、次期当主として扱われていたのだ。
田屋明政が浅井久政と共に美濃口に出陣していたため、城地を預かる家老と話をして、家老から明政に知らせが走った。
田屋明政:田屋城・長法寺館・沢村城
:浅井亮政の一時養嗣子・久政誕生で無効。
「鷹司義信が田屋明政に与える恩」
1:本領安堵。
2:浅井名跡の継承を認める。
3:田屋本家とは別に越後で5000石を与える。
「田屋明政の鷹司義信への奉公」
1:近隣の国衆・地侍を鷹司に引き込む手伝い。
2:浅井本家の家臣調略の手伝い。
3:六角蔵入り地の占領。
4:高島七頭の調略の手伝い。
「高島七頭」
高島越中・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎の七家
「高島佐々木氏一族」
高島、平井、太田、下坂、朽木、横山、田中、永田、市原氏
鷹司軍の近江侵攻の報告を受けた浅井久政は、急ぎ六角家に報告の使者を送るとともに、小谷山城に戻ろうとした。
だが一条軍が近江侵攻したのと時を同じくして、西美濃の国衆が関ヶ原に集結して、近江に侵攻する素振りを見せたのだ。
十中八九囮の陽動なのは確実で、尾張の織田と一向衆を無視して、美濃を留守にするはずがない。
だが相手は鷹司である。
西美濃衆に莫大な銭を与えて、出陣準備を整えさせていたとう報告も入っている。
大量の足軽や牢人を雇ったことも考えられ、国境を無防備にするわけにはいかない。
そこで信頼する須川城主の遠藤直経に後を任せ、最大動員していた1万余兵のうち5000兵を率いて、急ぎ小谷山城に戻った。
近江猿楽から、久政が小谷山城に向かったとの知らせを受けた相良騎馬鉄砲隊2000騎は、急ぎ小谷山城山麓の森に向かい、馬を降り待ち伏せした。
相良は、人馬ともに枚を含ませ音を立てさせないようにして、浅井久政の帰城を待ち受けた。
第1の伏兵部隊1000騎は、浅井勢が半ばまで通り過ぎるのを待って、半数の500騎が浅井久政と思われる武者に面制圧射撃を行った。
次いで250騎が、まだ統制のとれていそうな集団に向けて、面制圧射撃を行い、更に250騎が面制圧射撃を行った。
500騎の一斉射撃など受けたことのない、浅井軍の馬が暴れだし、奇襲に呆然としていた武者を振り落として逃げ出した。
同時にこの惨劇に茫然自失になっていた農民兵が、恐慌状態になり大声をあげて逃げ出した。
鉄砲の射程外にいた少数の武者が手勢をまとめ、小谷山城に逃げるように指示した。
前列にいた浅井勢は小谷山城に向かったものの、後列にいた浅井勢は散り散りになり、一部の集団が須川城方面に逃げ出した。
第1伏兵部隊は、散り散りに逃げ出した将兵に降伏を呼びかけ、鷹司軍に吸収していった。
第2の伏兵部隊1000騎は、潰走状態で小谷山城に向かう浅井勢の先頭が通過する瞬間に、面制圧射撃を行った。
250騎4隊に分けられた部隊は、1分4射の間隔で連続射撃を繰り返し、次々と浅井勢を射殺し続けた。
第1伏兵の射撃で致命傷を受けていた浅井久政は、この連射を受けてで落命し、残った浅井勢を指揮しようとするものは、次々と狙い撃ちにされた。
恐慌状態となった浅井兵は、泣き叫びながら逃亡するか、地に伏せて降伏した。
ここで一条信龍の策に齟齬(そご)が生じた。
建前上は、守護である京極家の高延と、浅井家当主候補だった田屋明政は、討ち取らない予定だった。
だが京極高延と田屋明政が鷹司に味方することを恐れた浅井久政は、常に高延と明政を自分と同行させていたため、久政とともに落命してしまった。
この知らせを受けた田屋家は頑なになり、降伏臣従を受け入れなくなってしまった。
この報告を受けた六角義賢は、重ねて国衆や地侍の兵を集めようとしたが、もはや国衆に兵を出す余裕はなかった。
まして稲刈り作業が差し迫っていて、本来なら今動員している農兵を、帰農させなければいけない時期なのだ。
じりじりと時が経つ中で、六角義賢は何の手立ても打てず、一条軍の跳梁跋扈を許すことになった。
そんな数日後、浅井久政に近江を追われ京に潜んでいた京極高吉が、一旗組の牢人と足軽を集めて、一条信龍の前に現れた。
そこで京極高吉を旗頭にして、降伏してきた近江の雑兵を付けて、京極軍を整えることにした。
相良騎馬鉄砲隊は、浅井勢を壊滅させた後も、浅井方城塞群への襲撃を続けていた。
浅井久政だけでなく、海赤雨の三士・浅井三将と称えられた、赤尾清綱・雨森弥兵衛・海北綱親など、多くの国衆と地侍が討ち取られていた。
籠城しているほとんどの城砦群も、当主を失い失意のどん底で有った。
城に残った女子供は、このまま籠城したくても雑兵が裏切る可能性が高く、相良のだした半知安堵・半知扶持化(近衛府出仕分)の条件を受けて、降伏臣従を誓った。
相良騎馬鉄砲隊は、京極勢と共に佐和山城を取り囲み、城主の磯野員昌に降伏臣従を勧告した。
佐和山城は六角家との境目の城であり、秘かに六角家からの独立を目論んでいた浅井久政は、磯野員昌には兵の動員をかけず戦力を残していた。
その磯野家は京極家の忠臣であったが、一門の宮沢忠左衛門の裏切りで当主が討ち死にし、その忠左衛門の息子と孫が、磯野員宗と員昌を名乗って、磯野家を横領していたのだ。
佐和山城では、元々の磯野本家の兵が磯野員昌を裏切り城門を開けた為、同士討ちが勃発した。
それを見た相良は、京極勢に突入を指示した。
京極兵が降伏した者は助命すると叫びながら突入したため、佐和山城は瞬く間に落城した。
磯野員昌は僅かな忠臣に家族を守らせ、六角家の勢力圏に落ち延びていった。
京極勢に佐和山城の守備を任せた相良騎馬鉄砲隊は、馬首をめぐらせ余呉方面に戻った。
これにより一条軍は、小谷山城と美濃口の城砦を除く、浅井郡・伊香郡・坂田郡の城砦を、全て降伏臣従させた。
だが相良騎馬鉄砲隊は休む事無く、原昌胤勢1000兵と共に、当主を失った田屋城を囲んだ。
田屋明政は男子に恵まれておらず、田屋明政討ち死によって、田屋の家名と血脈を残す事が難しくなった。
そこに相良から書状が届き、知行は召し上げるが半知分の扶持は保証し、観音寺城で人質となっている猿夜叉丸(浅井長政)を助命したうえで、田屋家の婿養子として子弟に浅井と田屋の名跡を継がせると約束してきた。
鷹司義信の署名と花押のある書状を受けた田屋明政の妻女は、浅井家と田屋家を残すため、降伏臣従を受け入れた。
相良騎馬鉄砲隊と原昌胤はさらに軍を進め、高島七頭の総領家である高島高賢の、清水山城・日爪城・日爪南砦を囲んだ。
中島宗左衛門:丁野山城主
赤尾清綱 :京極旧臣・小谷山城赤尾屋敷
三田村左衛門:三田村城主
月ヶ瀬忠清 :月ヶ瀬城主
阿閉貞征 :山本山城主
浅井政澄
「海赤雨の三士・浅井三将」
赤尾清綱 雨森弥兵衛 海北綱親
「湖北四家」
赤尾家・雨森家 磯野家・井口家
一条信龍が、相良騎馬鉄砲隊以外の兵を、ほとんど戦闘に投入しなかったのには2つの理由がある。
1つは守勢重視で、侵攻直後に確保した城砦を堅持するためだ。
もう1つは、若狭武田家と越前朝倉家への警戒だった。
若狭武田家当主の武田信豊は、六角定頼の娘を正室に迎えていたし、その間にできた嫡男の義統は、先代将軍の足利義晴の娘を正室に迎えている。
同じ武田氏とは言っても、とてもではないが油断できないのだ。
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7,460
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1.5万
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2,620
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7,283
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191
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926
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23
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2
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9,166
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2.3万
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179
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157
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4,916
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1.7万
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1,640
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2,764
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37
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52
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59
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87
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98
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15
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86
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30
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400
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439
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33
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83
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3,202
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1.5万
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83
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150
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40
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13
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1,252
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944
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611
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236
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