転生武田義信

克全

第102話近江謀略・武蔵攻防

7月美濃と近江:第3者視点

近江は名門京極家の守護国であったが、一族で跡目争いをしたことで、没落してしまった。

京極騒乱(きょうごくそうらん)により、領国である出雲・隠岐・飛騨を、守護代や国衆に横領されてしまった。

文明2年(1470年)8月4日の京極持清の病没から始まり、永正2年(1505年)に孫の京極高清が一族を統一するまでの34年間の争いで、領国は北近江しか残らなかった。

なのにだ、京極高清が命懸けで統一した京極家を、高清の子供である高延と高吉が、跡目を争ってしまった。

またも京極一族で跡目を争った事で、京極家は力を失い、浅井亮政に高清が追放されるはめになった。

現在北近江は、浅井が横領した状況であったが、亮政の跡目を継いだ浅野久政は、南近江の六角と朝倉の間に有って、親朝倉の亮政政策を転換して六角傘下となっていた。

京極高清の子 高延・高吉・高峯・景重・実高

美濃から近江への主要街道は、越前街道(北国脇往還)であったが、その境界線上に有るのは、上平寺城だった。

この城は京極氏の居城だったが、大永3年(1523)に京極高清が家臣団のクーデターにより失脚したため、北国脇往還や東山道の近江美濃国境を防衛する、境目の城として機能することになった。

上平寺城の更に上には弥高寺があった。

浅井家は伊香郡、浅井郡、坂田郡・高島郡の北東は領地だが、美濃からの侵攻には、上平寺城が重要な防衛拠点である。

そして弥高寺は、上平寺城の支城の1つと言うよりは、上平寺城の詰めの城としての役割が強く、とても重要な防衛拠点だ。

鷹司卿から、美濃の国衆や地侍に、近江侵攻準備金が下賜された。

何とその額は、本領分と同額で有った。

戦国の常識としては有り得ないことである。

本来大名は非常時に国衆を護り領地を安堵すること『恩』を与え、国衆はそれに対して兵役の義務『奉公』を負うのである。

それが今回は奉公前に本領と同額の銭が下賜されたのだ。

理由は、長年の戦で疲弊している国衆と地侍を慮り、収穫前で苦しい台所事情を鑑み、と言うものであった。

無数の鉱山を有し、自前で良質の銅銭を鋳造する、富裕な鷹司しか出来ない事だが、当然裏がある。

この銭には、猛毒が含まれているのだ。

それは受け取った国衆は、絶対鷹司を裏切れなくなると言う事だ。

ここまでの御恩を受けたのに鷹司を裏切った場合、そんな者を誰1人信用しなくなると言う事だ。

織田・六角・朝倉・三好など、どこに行っても奉公は叶わなくなる。

支給された銭は武田銅貨なのだが、極力近江・尾張・伊勢からの物資で、兵備兵糧を整える様に申し渡しがあった。

鷹司領内なら、当然武田銅貨は使えるが、他国領で使えるのか?

特に敵国領内では、拒否されるのではないか?

だが武田銅銭は、伊勢・京・近江では使えた。

理由は、伊勢神宮の式年遷宮費用が武田銅貨で賄われた為、既に伊勢では武田銅貨が浸透しており、拒否すれば流通が破綻してしまう。

京でも方仁親王への椿姫入内、覚院宮と菖蒲姫輿入れで、莫大な武田銅貨が持参金として持ち込まれ、御所の修復や公家衆家職料としても流入している。

京に持ち込また武田銅銭は、自然と近江にも流れ込んでおり、守護である六角家でも止められないのだ。

次に一条摂関家が、積極的に武田銅貨を受け入れていることがある。

京で使うだけでなく、影響下に有る土佐でも武田銅貨の流通を後押した。

これが一条家と大友家の血を受け継ぐ義通を大内嗣養子にしたい大友家を動かし、大友領内で積極的に武田銅貨を受け入れさせる事に成った。

勿論同じ思いの陶などの大内家武断派も同調し、安芸の毛利をはじめとする国衆も、武田銅貨を受け入れていた。

更に倭寇ジャンク船との交易が、軍資金の重大な柱となっている尼子も、武田銅貨を受け入れている。

特に尼子晴久は、領内の統制を正して完全な戦国大名となり、新宮党を頼らぬ国にする為に、積極的に武田銅貨を受け入れていた。

勿論だが明国との交易が商売の柱である、大友支配域に有る博多商人達も、武田銅貨を積極的に流通させていた。

とどめは堺商人が、為替差益に乗り出していることだった。

以前東国と西国で精銭・永楽銭・鐚銭の交換比率が違い、荷役衆が両替えで莫大な利益を上げていると書いたが、これに武田銭が加わったことで、投機商品として武田銅貨を使う堺商人が出たのだ。

今までは鷹司配下の荷役衆だけが、銭相場の差益売買を行っていたが、甲賀と伊賀忍者の妨害で、荷役衆は西国に行けなくなった。

東西日本の中間に存在し、堺という良湊に納屋を持つ堺商人から、命懸けで船を仕立てて、東国と西国を行き来して、銭を交換する者が出て来たのだ。

以上の状況下で、武田銅貨は済崩し的に流通していった。

鷹司の下賜銭が美濃衆に配られた頃、近江では流言飛語に悩まされていた。

鷹司が三好の侵攻に併せて、北国街道から攻め込んで来ると言うものだ。

侵攻用の下賜銭が配られたのだから当然なのだが、同時に鷹司が得意とする、調略が進んでいると言う噂も流れた。

問題は調略の内容が木札や紙に書かれて、夜間に有力な百姓家の前に置かれていると言う事だ。

鷹司の離反の計としか思えないのだが、真実の調略を隠す為の策ともとれるため、近江の国衆と地侍は、徐々に疑心暗鬼に陥っていた。

何より置かれている木札や紙に書かれた内容が、多岐に渡っていた。

1:六角親子の首を取った者は、六角の姫を与えて六角の後継者とする。
2:浅井の首を取った者は、浅井の姫を与えて浅井の後継者にする。
3:梅戸家が六角を裏切り、鷹司と共に六角を攻めるなら、六角の後継者にする。
4:田屋明政が鷹司の味方するなら、浅井の後継者と認める。
5:鷹司に味方すれば本領安堵で、手柄次第で扶持銭を支給する。
6:一門に裏切られ没落した磯野家などは、鷹司に味方するなら本領を戻す。
7:京極家の子息で鷹司に味方した者は、北近江で1郡を与える
などの他にも、何時もの3種の約束が書かれた物が有った。

問題なのは、全て鷹司家が直接約束した物では無い事なのだが、しかし今まで鷹司家は、矢文で約束したことを違えたことが無い。

六角は、浅井を含めた支配下の国衆に再度の動員をかけ、三好戦線以外に、美濃関ヶ原方面にも駐屯軍を配備することになった。





7月相模の北条家:第3者視点

武田家と北条家との婚姻同盟が、密かに進められていた。

駿河に北条が援軍を出すにあたり、何処を持って両家の境界線とするかの話し合いもある為、直ぐに決着するものでもなかった。

信玄は義信との話し合いで、武田が領有するのは遠江と駿河半国でもよいと結論は出ていたが、農繁期に入れば勝てるとの思いも有り、簡単に北条に譲歩する気も無かった。

しかし小笠原長時と神田将監の連戦連勝(奇襲・略奪・撤退)で、関東での指導力を回復した関東管領の上杉憲政は、古河公方の足利晴氏と同盟して、武蔵に攻め込んでいた。

史実で謙信が関東攻めを実行した時には、籠城戦を選んだ北条氏康だが、今回の関東軍(5万兵)は兵数が微妙であった為、野戦を選択した。

川越城を囲んだ関東軍に対して、迎撃に出た北条軍は3万兵であった。

関東の諸将は生き残りを懸けて、北条家か関東軍の去就に迷い、中立を保つために甲斐に近い者は武田(鷹司)に、上総に近い者は上総武田(鷹司)の傘下に入る事を選んだ。

当然武田への帰属は、戦後の結果によれば、関東軍か北条軍に乗り換える可能性もある、一時的な臣従でしかなかった。

関東軍は前回の川越合戦の教訓を生かし、油断することなく奇襲夜襲に備えていた。

特に小笠原騎馬隊は、交代で陣の周辺を警戒巡回をしており、北条軍に付け入る隙を与えなかった。

その状況で、両軍は真っ向正面から戦うことになった。

関東軍は川越城籠城兵3000に対して、各城門に迎え陣を設けて3000兵を置いた。

一方野戦は、夜明けから半刻程度で関東軍側から攻撃を仕掛けた。

大竹盾を持った関東軍の足軽が、じりじりと北条軍の方に前進していった。

これに対して北条軍も、大竹盾を持った足軽が集まり防御を固めると共に、2段目の弓隊と鉄砲隊をその後ろに集め、3段目と両側に予備の槍隊を置き、迎撃の準備を整え、更に両翼に騎馬隊を配備し横槍を入れる構えを見せた。

関東軍の盾隊が、北条弓隊の射程に入って、更に50m越えた地点で、北条軍が弓を射かけた。

だが関東軍の2列目以降の盾隊は、比較的軽量小型の盾を装備しており、それを空に向けて上げ矢を防いだ。

そしてその態勢で、じりじりと北条陣地に近付いて行った。

北条軍も、大竹盾に鉄砲を撃っても効果が無い事は知っており、仕方なく側面を突いて盾隊の陣形を崩すべく、騎馬隊に遊撃を命じた。

関東軍からは、北条軍騎馬隊が動くのを見て、小笠原騎馬隊が即座に反応して飛び出した。

北条騎馬隊が関東軍盾隊の側面に到達する前に、小笠原騎馬隊は鉄砲の射程内に彼らを捕え、急停馬を行い一斉射撃を行った。

左右で各1000丁に撃ち倒された北条騎馬隊だが、直ぐに立て直して次発装填前に切り込もうと、盾隊への側面攻撃から目標を切り替え、突撃を開始した。

しかしそこに、小笠原騎馬隊の第2陣騎馬弓隊が、左右各2000騎が控えていた。

彼らは面制圧騎射を連続で射放って、北条騎馬隊を近づける事無く、次々と倒していった。

その間に騎馬鉄砲隊は次発装填を完了し、今度は200騎5段の陣を敷き、順番に射撃と装填を繰り返して、北条騎馬隊を殲滅してしまった。

当然その間も、騎馬弓隊の弓射は続けられていた。

北条騎馬隊が粉砕されたのを見て、勝機と判断した関東軍は、一斉に攻勢を掛けた。

鬨の声をあげながら、最前列が盾隊が盾を押し立てて駆け始めた。

槍隊も盾隊の横に広がって、北条軍を押し包むように駆けだした。

更にその横に広がって、関東諸将が手勢を率いて突撃し始めた。

恐怖に駆られた北条軍鉄砲隊は、正面の関東軍盾隊に鉄砲を撃ち出したが、小筒と中筒が中心の鉄砲隊に、大竹盾を撃ち抜く事はできず、いたずらに弾薬を浪費する事に成った。

しかし歴戦の北条軍指揮官は、直ぐに思考を切り替え、関東軍盾隊正面から鉄砲隊を移動させ、両側から攻め掛かる槍隊と関東諸将軍を、迎え討つ役割に陣替えさせた。

同時に鉄砲隊を守る槍隊を、両外側前面に押し出した。

両軍の正面最前列の盾隊同士が激突し、互いの盾をぶつけ合う肉弾戦が展開され、次いで後列の槍隊が盾隊の後ろから叩き合いを始めた。

盾隊の外側に出ていた関東軍槍隊は、北条軍鉄砲隊が外側に陣替えしたのを見た小笠原騎馬隊によって、盾隊の後ろに押し戻された。

同時に更にその外側を掛けていた関東軍諸将も、小笠原騎馬隊によって強制的に停止させられた。

小笠原長時は、足利幕府の弓馬術礼法宗家として、関東軍の諸将から優秀な騎馬武者を引き抜いていた為、諸将の軍に対しても彼らを通す事で、一定の統制が可能となっていた。

これも北条家の領内に入り込み、奇襲夜襲を繰り返し、連戦連勝を誇った名声によるものだった。

騎馬の機動力と鉄砲の打撃を組み合わせ、必ず勝てる時と場所を選び戦って来たからこその結果だ。

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