転生武田義信

克全

第100話陣中食・伝書鳩・会津攻防

6月駿河水軍衆:第3者視点

「急げ! 元信殿たちを下ろしたら、交代の兵を乗せるぞ」

「貞綱殿世話になった、生きて再び駿河に戻れるとは、正直思っておらなんだ」

「なに俺は運んだだけさ、全ては織田と話をお付けになった、御屋形様のお陰だよ」

「うむ、今度の今川と織田の同盟で、武田に一泡吹かせてくれる!」

「そうよ、遠江を奪い返し、今度こそ伊那を攻め取ってくれよ」

「おいおいまるで他人事だな、貞綱殿?」

「俺は水軍の差配に専念するからな、海岸線から武田を翻弄(ほんろう)してやるさ。それに北条の伊豆水軍にも、備えねばならぬ」

「そうだな、船で山攻めはできぬな」

「おうよ、俺は優秀な船頭だからな、決して山になど登らぬよ」

「それもそうだ!」

今川義元は水軍を使って、縦横無尽(じゅうおうむじん)に遠江海岸や浜名湖岸を荒らし回った。

そのお陰で、去就の怪しかった高天神城主の小笠原長忠を頭とする、遠江国衆の引き留めに成功していた。

ここで今川義元はさらなる手を打ち、予てから鷹司包囲網で協力していた本願寺から手を回し、織田信長との同盟に成功した。

今川義元と本願寺で結ばれた条件は、駿河と遠江での一向衆の優遇だった。

この条件を受けて、一向衆は信長に圧力を掛けた。

信長は内心に吹き荒れる嵐のような怒りを抑え込み、後日の一向宗と義元への報復を心に誓ったが、今は今川との同盟を受け入れた。

今川義元と織田信長の間で結ばれた条件の1つは、三河の織田家支配を認める事と、松平元信の駿河抑留の継続だった。

2つ目の条件は、遠江の今川家支配の確認であった。

今の信長の戦力は一向衆頼みの面が多く、実際三河に侵攻出来たのも一向衆のお陰であった。

そもそも尾張を統一出来たのも、鷹司の侵攻を防いでいるのも一向衆あっての事だったから、遠江に関しては一向衆に譲るしかなかった。

遠駿2カ国での優遇を認められた一向衆の、遠江攻撃は熾烈を極めた。

豊川右岸の城砦群は猛攻に耐えきれず、助命を条件に開城して行った。

守り切れぬと判断すれば、降伏と撤退の自由を鷹司卿から与えられていた為、多くの城砦の将兵は、左岸に渡河撤退するか、山側に撤退して行った。

だが豊川を挟んだ渡河攻防は、死屍累々の有様だった。

死ねば天国に行けると騙されている末端の一向衆は、豊川を天国に渡るための三途の川に例える糞坊主の指示で、遮二無二渡っていった。

一方守る側の武田軍も、疲労困憊のギリギリの迎撃を続けていた。

連続使用で壊れる大弩砲が出るような状況で、遮二無二に十文字大竹矢射込み、農閑期に入った百姓たちに大量の竹の切りだしを依頼した。

ここで鷹司と武田の富裕が生きてくるのだ。

一揆や謀反に繋がる徴発では無く、銭を支払う購入依頼で、支配地の百姓を動員できる事が大きかった。





6月三河豊川左岸:第3者視点

「若殿からの下賜料理が出来たよ~」

「おう~!」

史実でも、戦場では普段食べられない白米が食べれた。

だが普段の食事は、三河と遠江から武田軍に加わった、元今川勢の足軽では、雑穀雑炊が1日2食で普通だった。

命懸けの戦場でも、敵に近い場合は干飯・焼味噌・梅干・芋茎が普通であった。

だが武田軍では、時間が有れば白米を炊いて食べる事が出来た。

しかも副食には、たっぷり塩の利いた干肉・干魚・干貝・各種糠漬けが支給された。

史実では、白米は普段食べられないごちそうなのだが、合戦日だけは戦前に足軽にも支給された。

だが問題は、十分な副食を摂取しないと、脚気になる危険がるのだ。

今の武田軍は、連日連夜合戦状態なので、白米食が長く続くと、ビタミン不足から脚気を起こしかねない。

史実の江戸時代では、白米を常食していた江戸で、江戸病(えどわずらい)と言われる脚気が流行したが、糠漬けが効果があると考えられていた。

恐らくビタミンが豊富な糠に野菜を漬けて、ビタミンを糠漬けに移動させていたのだろう。

武田譜代衆と一緒の戦場にいると、干物を加えた雑炊や握り飯などの美味しい食べ方を、元今川家の雑兵や地侍も知る事ができた。

毎日黒鍬輜重兵が、大量の食料を運んで来てくれるので、餓える心配なしに戦う事が出来た。

時間さえあれば、数日に1度は、水飴や甘酒を作って食べる事が許されていた。

時には鷹司卿から、陣中見舞いとして菓子が届く事があった。

多くは長期保存ができる干した果物で、干柿・干無花果(ほしいちじく)・干葡萄・干林檎が多かった。

だが時には、糯米に水飴を練り込んで作った羽二重餅・黍団子・牛乳餅(バター餅)が届く事があった。

その中でも一番喜ばれたのが、糯米に干した果物と水飴を練り込んだ、果物求肥であった。(ゆべし・ボンタン飴・柿飴・無花果飴・林檎飴・葡萄飴など)

この噂が広まると、徴兵されていないのに、家族を伴った足軽志願の百姓が戦場に集まり、瞬く間に豊川右岸に堤防兼用の土塁が完成した。

そして今日、鷹司卿が陣中見舞いに届けてくださった物は、広幅の乾麺と干果物であった。

乾麺は茹でて戻してから水で再び冷やし、干果物と一緒に煮て作った水飴を冷ました物に付けて食べるのであった。

甘い物など季節の果物しか口にしたことのない多くの兵には、とても好評であったが、中には味噌を溶いた汁や、梅干を煮た汁に付けて食べる変わり者もいた。

「しっかり喰って戦に備えよ、武田にいる限り餓える事などないぞ!」

「おう~!」





6月信濃諏訪城の鷹司義信と黒影の主従:鷹司義信視点

伝書鳩による諏訪と京の直通便が、遺憾ながら不通になりそうであった。

そもそも伝書鳩は鳩の帰巣本能に根差したものだから、1羽の鳩が往復するものではない。

京から諏訪への伝書鳩は、諏訪で飼っていた鳩を、荷役が荷と共に京まで運び、京で休ませ体力を回復させてから諏訪に放つのである。

諏訪から京への伝書鳩はその逆である。

だが荷役が襲われ、諏訪と京の行き来が不可能になったため、伝書鳩の運搬も当然なくなってしまったのだ。

だから今伝書鳩が飛べるのは、荷役が伝書鳩を運べる地域だけであった。

しかしながら、近江猿楽と保内商人が密かに協力してくれたことで、金穀の輸送や兵の移動は無理だが、西国との連絡だけは可能となった。

もっとも伝書鳩のような速さは不可能だ。

「三好が動いたか」

「はい、近江猿楽からの連絡を、西美濃から伝書鳩で伝えてきたものですから、情報の遅れは少ないと思われます」

「晴元の下から逃げて来た、1万兵の訓練は終えていたな?」

「はい、相良殿が騎馬鉄砲隊との連携も兼ねて、短期集中訓練を行いました」

「小筒と中筒の鉄砲隊2000、弓隊1000、盾隊4000、槍隊3000だったな?」

「はい、そろそろ三河に攻め込む予定でした」

「近江に攻め込ませろ」

「彼らだけで勝てましょうか?」

「元々近江にいたのだ、地理や国衆の事には詳しいだろうし、交流のある国衆もいよう。だが相良と彼らだけでは心もとないな、美濃支援に行っている甲斐譜代衆にも加わってもらおう」

「やはり美濃堅守の為には、近衛衆や生産衆は動かせませんか?」

「甲斐譜代衆を弱兵扱いするわけではないが、大弩砲や士筒鉄砲を持たぬ彼らでは、美濃守備の要に使えない」

「しかし必勝を期すなら、大弩砲を使える者達を付ける方がよいのではありませんか?」

「確かにな、ならば妻籠は生産衆に任せ、甘利信忠と近衛武士団1000を美濃に送り、美濃にいる大弩砲を使える近衛槍隊を近江に送ろう。それにどうせなら、信龍叔父上に功名をあげてもらうか」

総大将:一条信龍
遊撃 :相良友和:騎馬鉄砲隊:2000騎
副将 :馬場信春:足軽   :1100兵
:甲斐国衆 : 220騎
:原昌胤 :足軽   :1000兵
:大弩砲隊 :1000兵
:足軽鉄砲隊:2000兵
:足軽弓隊 :1000兵
:足軽盾隊 :4000兵
:足軽槍隊 :3000兵
:計   1万3100兵 2200騎





6月陸奥会津:第3者視点

会津郡伊北郷を支配していた山之内七騎党は、5000石にも満たない国衆であった。

だが鷹司卿の支配下に入る事で、踏み車と牛を利用した激龍水の導入することができ、只見川より遥かに高い場所に、多くの水田を作る事が出来た。

さらに南瓜・薩摩芋・じゃが芋の種や種芋を支援してもらった事で、食料生産力が飛躍的に増大した。

元々山の実りが山之内七騎党の大きな力であったが、鷹司卿の要求を受け入れて山の民を優遇した為、その余禄で椎茸や蜂蜜などの産物が作られ、城下の市で売られる事で現金収入も手に入る事に成った。

このような実情が蘆名家家臣団や領民に知られるにつれ、蘆名盛氏に鷹司卿の傘下に入る事を求める家臣が増大し、盛氏がそれを受け入れない事で、蘆名を離れて鷹司に直属する事を望む者が増えて来た。

鷹司家の臣従条件は、半知安堵・半知扶持化・半知分近衛出仕・開発支援・食料種子援助であった。

史実での蘆名家は、全盛時1万8000の動員兵力があったと言われるが、今は恵日寺の僧兵3000と山之内七騎党が敵に回り、蘆名四天の宿老も佐瀬貞藝だけが蘆名家に忠誠を尽しただけで、残る富田氏実と平田舜範・平田宗範と松本舜輔・松本宗輔は裏切り、家臣団も穴沢俊恒・河原田盛頼・大槻政通・長沼実国など多くの者が離反した。

蘆名盛氏と共に黒川城に籠城した者達は、周囲を囲まれ城門前を封鎖された上で、何時もの3種の矢文を射込まれた事で同士討ちが起こり落城した。

「蘆名四天の宿老」
富田氏実・松本舜輔・佐瀬貞藝・平田舜範

曽根昌世は素早く軍勢を再編、旧蘆名勢を組み込んで、中通の田村家に攻め込んだ。

三春城を本拠とする田村隆顕(たむらたかあき)は、相馬顕胤の娘(盛胤の妹)を嫡男・清顕の正室として迎え、相馬と和平を結んで蘆名に対抗していた。

その状況で、鷹司家が蘆名家に攻め込み安心していたが、長期の攻城戦を予想していたのに、あまりに早く蘆名家が滅亡したため、鷹司軍の侵攻に対する防御が遅れてしまった。

しかしそれでも田村隆顕は、支配下の田村郡城砦に籠城準備を命じると共に、相馬盛胤に援軍を求めた。

さらには伊達家をはじめとする、陸奥諸将に援軍を依頼した。

同時に援軍が間に合わなかった場合も考慮し、曽根昌世に対して鷹司家傘下に入る条件交渉の為に、使者も送った。

田村隆顕:当主・三春城主
田村義顕:先代当主・隠居
田村顕頼:叔父・攻めの月斎・船引城主
田村顕盛:弟
田村清顕:嫡男
田村氏顕:次男
常磐甲斐守貞久:常盤城主

鷹司軍は、長沼実国などの案内役のお陰で、素早く田村郡に侵攻する事ができ、圧倒的な兵力で三春城を囲もうとした。

この状態となった田村隆顕は、予てからの鷹司軍の3種矢文による戦法を知っており、籠城策は必敗と考え、野陣を張って迎え撃つと共に、今度は臣従降伏の使者を送った。

降伏臣従の使者を受けた曽根昌世は、予てから義信に陸奥の基本戦略として、伊達家と南部家の滅亡と、他の陸奥諸侯の半知降伏臣従の指示を受けていた。

しかもある程度の自由裁量も許されていたので、田村隆顕に対して、半治安堵・半知扶持化・半知分近衛府出仕の条件を出した。

田村隆顕は、この条件を受け入れ降伏臣従の形を取るが、相馬盛胤に対しては形だけの降伏臣従であり、相馬軍と鷹司軍の合戦時には内応して、相馬軍の味方に成ると使者を送った。

同じ内容の使者は、伊達家をはじめとする陸奥諸将にも送った。

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