転生武田義信
第97話攻勢
5月駿河高原城の武田晴信:第3者視点
8000兵を率いて富士川を下って来た信玄の侵攻に対して、義元は急遽集めた8000兵を送ったものの、葛谷城は奪われ高原城と大宮城(富士城)で信玄の侵攻を防いでいた。
「調略のほうはどうなっている?」
山本勘助と2人、笹茶を飲み寛いでいる時に不意に信玄が訪ねた。
「色よい返事はありませんが、高原城を落とせば変わると思われます」
謹厳実直な山本勘助は居住まいを正して答えた。
「では城のほうは何時頃落とせる?」
「鷹司卿と同じ策を用いてよろしゅうございますか?」
「敵城代の首を持てば500貫文を与える、裏切って城門を開けた者は、助命の上で1人当たり100貫文与えると、ただ逃げ出して来ても助命する、であったな?」
「は! さようでございます。」
「構わぬ、武田の富裕を思い知らせるのもよい手じゃ」
さっそく3条件が書かれた矢文が大量に射込まれた、例のごとく城内では疑心暗鬼が広まりだした。夜陰に乗じて雑兵が1人逃げ出したのを契機(けいき)に、大量の雑兵が逃げ出し始めた。
業を煮やした侍大将が雑兵を切り殺した事で、雑兵の恐怖が怒りに変貌、日頃から傲慢だったその侍大将を集団で襲う事態となり、一気に同士討ちに発展してしまった。更にこの混乱に乗じて城門を開く者も現れたため、矢文を射込んでから6日で郭の1つが落ちた。
しかし流石に岡部正綱は名将だった。
このまま城に籠れば良くて全滅、悪くすれば降伏した兵で武田軍が増強されると判断したのであろう、外郭の城門が開かれた時点で兵を纏めて撤退を始めた。岡部正綱自身が先頭に立って、城門前に立ちふさがる武田軍に切り込み、今川軍が城外に出た後は殿(しんがり)を務めて武田軍を防いだ。
ここに今川の援軍が到着した。
義元が鷹司卿の騎馬鉄砲隊の活躍に危惧(きぐ)を覚えて、急遽編成した鉄砲隊2000兵と、大竹盾隊1000兵に槍隊1000兵だ。
足軽も鉄砲も、伊那に関連する利益で急ぎ買い揃えた。
遠江を経由して伊那を行き来する商人から、関料と入湊料を徴収し、伊奈が必要とする産物を輸出した利益を蓄えていたので、その銭を惜しまず使って買い揃えたのだ。
本来は鷹司卿直属軍に対抗するため温存しておきたかったが、晴信の猛攻に援軍に派遣する羽目になっていた。
武田軍は、今川軍の援軍に現れた部隊が大竹盾を装備しているのを見て、危険を察知して追撃を中止した。
武田軍の多くの侍大将や足軽大将は、鷹司卿の軍に出稼ぎ参戦した者が多く、大竹盾の後ろには鉄砲隊が潜む可能性が高いと判断したのだ。
結果として新たに高原城を得た武田軍と、籠城戦の危険を実戦で確認し、入山瀬城を後詰に野陣を張る今川軍が対峙する状況となった。
5月遠江三河の豊川:第3者視点
「急げ! 一向衆に川を渡らせるではない」
狗賓善狼は、眦(まなじり)を決して8000の僧兵たちを指揮していた。大弩砲を手早く操作して、渡河しようとしている一向衆に、十文字大竹矢を射込んだ。鷹司卿からは、三河と遠江の国境を守れば良いと指示されているが、防御線として使うなら川境の方が守り易い。
一方で滝川一益率いる騎馬鉄砲隊4000騎は、八面六臂の活躍をしていた。豊川の上流から下流まで、広く長く配備された物見の狼煙を受けて、一向衆の渡河を確実に阻止している。騎馬の機動力で渡河地点に素早く駆け付け、士筒の破壊力で一向衆を粉砕(ふんさい)している。
豊川流域の防衛責任拠点は、上流から左岸の長篠城を菅沼家、右岸の野田城も菅沼家、右岸の鹿勝川城も菅沼家・左岸の本宮山城も菅沼家、右岸の牧野場は牧野能成(まきのよししげ)、左岸の勝山城は熊谷家の末裔に、右岸の瀬木城は牧野家、左岸の行明城は星野行明、右岸の牛久保城は牧野成勝が、それぞれ城主や城代として守備責任があった。
だが右岸の城砦に籠る将兵は、援軍を期待できない状態であった。
さらに河口付近の篠束城は、今川方の岩瀬雅楽助が籠城し、同じく伊那城にも今川方と思われる松平家家臣の本多忠俊が籠城していた。
鷹司卿としても、一旦味方に調略した三河衆を、援軍も出さす見捨てるのは外聞が悪い。その為の援軍を編成して投入していた。
5月信濃諏訪城:鷹司義信視点
「時貞はどうしている?」
義信は笹茶を飲みながら黒影にたずねた。
「は、新編成された騎馬鉄砲隊2000騎を率い、三河を縦横に暴れまわっているようでございます」
「補給は大丈夫か?」
「山家三方衆などの、御味方城砦を拠点としておられます」
山家三方衆とは、奥平家と長篠菅沼家に田峰菅沼家のことだ。
「松平宗家の身柄は確保できたのか?」
「護衛とともに諏訪に向かっております」
「こちらからも迎えの兵を送ってくれ」
「承りました」
5月遠江:第3者視点
武田信智軍は、飯田城の山内通泰を囲んだが、通泰は今川家への忠義を貫き開場を拒んだ。
それに対応して武田信智軍も、定番の3種矢文を射込んで城内を攪乱(かくらん)しつつ、時を置かずに大弩砲で肥松大竹矢を射込み、火責めを開始した。
包囲早々に3種矢文を使ったのは、掛川城から援軍や遠江衆の裏切り、高天神城からの長駆奇襲の危険を考慮して、早期攻略を目指したためだった。
伊那に近く、軍資金と戦略物資補給の心配のない武田信智軍は、雨霰(あめあられ)と肥松大竹矢と十文字大竹矢を射込み、僅か1日で飯田城を落城させた。
飯田城の山内家滅亡を知った武藤氏定は、支配下の片瀬城や真田山城などでの籠城を諦め、一族を率いて武田信智軍に降伏した。武藤氏定は城地を没収されたものの、検地の上で旧領地と同じ扶持武士として近衛府に組み込まれる事になった。
次に天方城に進軍した武田信智軍は、城を囲んで城主の天方山城守通興に降伏の使者を送った。通興は進退窮まったことを悟ったのか、城地没収の上で扶持武士となる事を受け入れ、近衛府に組み込まれることを条件に降伏した。
一方光明城を囲んだ楠浦虎常は、鷹司卿から許可を受けていた3種の矢文を射込んだ。必敗を悟っていた雑兵は、何時もの如く逃亡・開門・謀反を起こして城内を混乱の極致に陥れた。
これによって外郭は次々と落ちたものの、本丸に籠った朝比奈太郎泰方が忠臣と頑強に抵抗したため、最後は大弩砲で肥松を付けた大竹矢を射込み、火攻めにして焼き殺すことで落城させた。
伊那から天竜川を下り遠江に至る山側城砦は、全て武田信智軍に攻略された。
合流してきた楠浦軍を配下に加えて、武田信智軍は掛川城に向かった。
武田信智軍は掛川城を包囲した上で、各城門前に朝比奈軍の出撃を防ぐ堀・土塁・柵・竹塀・屋根付き矢場を設けた。
掛川城主の朝比奈泰能と泰朝の親子は、出撃口と脱出口を閉じられまいと、妨害を試み打って出た。だが大竹盾・槍衾・弓隊の諸兵科連携と、面制圧弓射によって、付砦の建設を防ぐことができなかった。
その為必至の籠城を試みたが、何時もの如く3種の矢文を射込まれ、城兵が動揺するところに、肥松大竹火矢・十文字大竹矢が雨霰と射込まれた。
武田信智軍は、掛川城の城門を塞いだ状態で、弓隊と大弩砲隊を3個部隊に分けて、自分たちは休憩を取りながら、城兵は眠らせないように、24時間連続で攻撃させた。
朝比奈親子は昼夜に渡る攻撃に対抗すべく、外郭で矢に対処する兵を、交代で内郭に入れて眠らせていた。
だが5昼夜に渡る間断ない攻撃に音を上げた雑兵が、城壁を越え堀を渡って逃げ出したのが、落城の契機となった。
予(かね)てから、城壁を越えて逃げ出してきた朝比奈兵は、心を掴むために歓待せよと申し付けられていた信智軍将兵は、逃亡してきた雑兵を攻撃せず迎え入れ酒食で歓待した。
そして翌日から、逃亡兵による籠城兵への呼びかけが開始され、日に日に足軽大将の目を盗んで逃亡する兵が増えていった。
連日連夜の攻撃で、外郭の建物はほぼ全て焼け落ち、神経を擦り減らし苛立ちを抑えきれなくなっていた足軽大将が、逃亡しようとした組下の足軽を罵ったうえで切り殺した事で、足軽の怒りが爆発した。
ここで逃亡しようとする足軽を、優しく慰撫することができれば状況も変わったのだろうが、全ての足軽大将が知力・胆力・義侠心を持っているはずもなく、起こるべくして足軽による反乱が起きてしまった。
足軽大将以上に知力・胆力で劣り、戦争神経症に罹っていたと思われる組下足軽たちが、一斉に足軽大将に襲い掛かり槍で串刺しにした。
これを見ていた周辺の足軽たちも次々と狂気に染まり、自分たちの大将に襲い掛かった。
夜間に城兵の同士討ちを察した武田信智軍は、城門が開けられる可能性を考え、味方となった元今川方遠江衆を城門前に集めた。
先陣は一番危険だが、同時に一番駆け・一番槍の功名を稼ぐ機会でもある。
特に今川から寝返った国衆や地侍は、名を上げ鷹司家で確固たる足場を築く絶好の機会だ。
その中には、井伊衆を率いる井伊直親と今村正実主従がいた。
2人は井伊家を今川の楔から解き放ち、堂々と本当の名を名乗れるようになったのだ。
父や叔父の敵を討つため、常に最前線に臨んでいたが、理由はそれだけではなかった。
他の近習や小姓出の近衛指揮官に比べて、自分の扶持が多いのが気になっていたのだ。
自分1人で、侍大将として2000貫文を受けているだけではない。今村正実も、足軽大将として別に500貫文を受けている。
全てが実力ではなく、井伊家調略の一環でである事は、2人とも重々承知していた。それに鷹司家家中も、その事を理解しているのも分かっている。だがそれでも、功名を上げないことには立場がないと、2人は思い込んでいた。
混乱の極致となった掛川城では、足軽が城門を開いた。そしてそこに、武田信智軍の攻城部隊が殺到した。
「降伏するものは武器を捨てよ!」
武田信智軍の戦目付は、城門を開いた者が間違って殺されないように、素早く寝返り兵を確保した。
武田信智軍に味方した者が、武田信智軍に殺された言う噂が立てば、今後の調略や城攻めに支障をきたすからだ。
さらに降伏する意思を示した将兵を無暗に殺せば、後々戦力や労働力に活用できる人間の命を、無駄に浪費する事になる。
今の鷹司家には、労働力を欲している職場が数多くある。特に必要としているのは、最悪の環境といえる鉱山労働だった。最後まで抵抗を示し、本来殺すべき敵兵は、絶好の鉱山労働者候補なのだ。
「命は助ける、衣食住は保証する、武器を捨て降伏せよ」
功名を得る為に、殺すべき敵を探し求める遠江衆に交じって、戦目付と配下の兵は、降伏兵を鉱山労働という地獄に誘う使者として、戦場を巡っていた。
朝比奈親子は、反乱が勃発し武田信智軍に奪われた外郭を、素早く見切った。主郭と残った郭に、今となっても今川と朝比奈に忠義を尽くしてくれる将兵を収容して、籠城をつづけた。
夜が明ける頃には、掛川城内の敵味方は鮮明となった。
武田信智軍は、手に入れた郭の守備を遠江衆に任せるとともに、主郭など朝比奈勢が確保し続ける所に大竹矢を射込めるように、手に入れた郭に大弩砲を移動させる。
8000兵を率いて富士川を下って来た信玄の侵攻に対して、義元は急遽集めた8000兵を送ったものの、葛谷城は奪われ高原城と大宮城(富士城)で信玄の侵攻を防いでいた。
「調略のほうはどうなっている?」
山本勘助と2人、笹茶を飲み寛いでいる時に不意に信玄が訪ねた。
「色よい返事はありませんが、高原城を落とせば変わると思われます」
謹厳実直な山本勘助は居住まいを正して答えた。
「では城のほうは何時頃落とせる?」
「鷹司卿と同じ策を用いてよろしゅうございますか?」
「敵城代の首を持てば500貫文を与える、裏切って城門を開けた者は、助命の上で1人当たり100貫文与えると、ただ逃げ出して来ても助命する、であったな?」
「は! さようでございます。」
「構わぬ、武田の富裕を思い知らせるのもよい手じゃ」
さっそく3条件が書かれた矢文が大量に射込まれた、例のごとく城内では疑心暗鬼が広まりだした。夜陰に乗じて雑兵が1人逃げ出したのを契機(けいき)に、大量の雑兵が逃げ出し始めた。
業を煮やした侍大将が雑兵を切り殺した事で、雑兵の恐怖が怒りに変貌、日頃から傲慢だったその侍大将を集団で襲う事態となり、一気に同士討ちに発展してしまった。更にこの混乱に乗じて城門を開く者も現れたため、矢文を射込んでから6日で郭の1つが落ちた。
しかし流石に岡部正綱は名将だった。
このまま城に籠れば良くて全滅、悪くすれば降伏した兵で武田軍が増強されると判断したのであろう、外郭の城門が開かれた時点で兵を纏めて撤退を始めた。岡部正綱自身が先頭に立って、城門前に立ちふさがる武田軍に切り込み、今川軍が城外に出た後は殿(しんがり)を務めて武田軍を防いだ。
ここに今川の援軍が到着した。
義元が鷹司卿の騎馬鉄砲隊の活躍に危惧(きぐ)を覚えて、急遽編成した鉄砲隊2000兵と、大竹盾隊1000兵に槍隊1000兵だ。
足軽も鉄砲も、伊那に関連する利益で急ぎ買い揃えた。
遠江を経由して伊那を行き来する商人から、関料と入湊料を徴収し、伊奈が必要とする産物を輸出した利益を蓄えていたので、その銭を惜しまず使って買い揃えたのだ。
本来は鷹司卿直属軍に対抗するため温存しておきたかったが、晴信の猛攻に援軍に派遣する羽目になっていた。
武田軍は、今川軍の援軍に現れた部隊が大竹盾を装備しているのを見て、危険を察知して追撃を中止した。
武田軍の多くの侍大将や足軽大将は、鷹司卿の軍に出稼ぎ参戦した者が多く、大竹盾の後ろには鉄砲隊が潜む可能性が高いと判断したのだ。
結果として新たに高原城を得た武田軍と、籠城戦の危険を実戦で確認し、入山瀬城を後詰に野陣を張る今川軍が対峙する状況となった。
5月遠江三河の豊川:第3者視点
「急げ! 一向衆に川を渡らせるではない」
狗賓善狼は、眦(まなじり)を決して8000の僧兵たちを指揮していた。大弩砲を手早く操作して、渡河しようとしている一向衆に、十文字大竹矢を射込んだ。鷹司卿からは、三河と遠江の国境を守れば良いと指示されているが、防御線として使うなら川境の方が守り易い。
一方で滝川一益率いる騎馬鉄砲隊4000騎は、八面六臂の活躍をしていた。豊川の上流から下流まで、広く長く配備された物見の狼煙を受けて、一向衆の渡河を確実に阻止している。騎馬の機動力で渡河地点に素早く駆け付け、士筒の破壊力で一向衆を粉砕(ふんさい)している。
豊川流域の防衛責任拠点は、上流から左岸の長篠城を菅沼家、右岸の野田城も菅沼家、右岸の鹿勝川城も菅沼家・左岸の本宮山城も菅沼家、右岸の牧野場は牧野能成(まきのよししげ)、左岸の勝山城は熊谷家の末裔に、右岸の瀬木城は牧野家、左岸の行明城は星野行明、右岸の牛久保城は牧野成勝が、それぞれ城主や城代として守備責任があった。
だが右岸の城砦に籠る将兵は、援軍を期待できない状態であった。
さらに河口付近の篠束城は、今川方の岩瀬雅楽助が籠城し、同じく伊那城にも今川方と思われる松平家家臣の本多忠俊が籠城していた。
鷹司卿としても、一旦味方に調略した三河衆を、援軍も出さす見捨てるのは外聞が悪い。その為の援軍を編成して投入していた。
5月信濃諏訪城:鷹司義信視点
「時貞はどうしている?」
義信は笹茶を飲みながら黒影にたずねた。
「は、新編成された騎馬鉄砲隊2000騎を率い、三河を縦横に暴れまわっているようでございます」
「補給は大丈夫か?」
「山家三方衆などの、御味方城砦を拠点としておられます」
山家三方衆とは、奥平家と長篠菅沼家に田峰菅沼家のことだ。
「松平宗家の身柄は確保できたのか?」
「護衛とともに諏訪に向かっております」
「こちらからも迎えの兵を送ってくれ」
「承りました」
5月遠江:第3者視点
武田信智軍は、飯田城の山内通泰を囲んだが、通泰は今川家への忠義を貫き開場を拒んだ。
それに対応して武田信智軍も、定番の3種矢文を射込んで城内を攪乱(かくらん)しつつ、時を置かずに大弩砲で肥松大竹矢を射込み、火責めを開始した。
包囲早々に3種矢文を使ったのは、掛川城から援軍や遠江衆の裏切り、高天神城からの長駆奇襲の危険を考慮して、早期攻略を目指したためだった。
伊那に近く、軍資金と戦略物資補給の心配のない武田信智軍は、雨霰(あめあられ)と肥松大竹矢と十文字大竹矢を射込み、僅か1日で飯田城を落城させた。
飯田城の山内家滅亡を知った武藤氏定は、支配下の片瀬城や真田山城などでの籠城を諦め、一族を率いて武田信智軍に降伏した。武藤氏定は城地を没収されたものの、検地の上で旧領地と同じ扶持武士として近衛府に組み込まれる事になった。
次に天方城に進軍した武田信智軍は、城を囲んで城主の天方山城守通興に降伏の使者を送った。通興は進退窮まったことを悟ったのか、城地没収の上で扶持武士となる事を受け入れ、近衛府に組み込まれることを条件に降伏した。
一方光明城を囲んだ楠浦虎常は、鷹司卿から許可を受けていた3種の矢文を射込んだ。必敗を悟っていた雑兵は、何時もの如く逃亡・開門・謀反を起こして城内を混乱の極致に陥れた。
これによって外郭は次々と落ちたものの、本丸に籠った朝比奈太郎泰方が忠臣と頑強に抵抗したため、最後は大弩砲で肥松を付けた大竹矢を射込み、火攻めにして焼き殺すことで落城させた。
伊那から天竜川を下り遠江に至る山側城砦は、全て武田信智軍に攻略された。
合流してきた楠浦軍を配下に加えて、武田信智軍は掛川城に向かった。
武田信智軍は掛川城を包囲した上で、各城門前に朝比奈軍の出撃を防ぐ堀・土塁・柵・竹塀・屋根付き矢場を設けた。
掛川城主の朝比奈泰能と泰朝の親子は、出撃口と脱出口を閉じられまいと、妨害を試み打って出た。だが大竹盾・槍衾・弓隊の諸兵科連携と、面制圧弓射によって、付砦の建設を防ぐことができなかった。
その為必至の籠城を試みたが、何時もの如く3種の矢文を射込まれ、城兵が動揺するところに、肥松大竹火矢・十文字大竹矢が雨霰と射込まれた。
武田信智軍は、掛川城の城門を塞いだ状態で、弓隊と大弩砲隊を3個部隊に分けて、自分たちは休憩を取りながら、城兵は眠らせないように、24時間連続で攻撃させた。
朝比奈親子は昼夜に渡る攻撃に対抗すべく、外郭で矢に対処する兵を、交代で内郭に入れて眠らせていた。
だが5昼夜に渡る間断ない攻撃に音を上げた雑兵が、城壁を越え堀を渡って逃げ出したのが、落城の契機となった。
予(かね)てから、城壁を越えて逃げ出してきた朝比奈兵は、心を掴むために歓待せよと申し付けられていた信智軍将兵は、逃亡してきた雑兵を攻撃せず迎え入れ酒食で歓待した。
そして翌日から、逃亡兵による籠城兵への呼びかけが開始され、日に日に足軽大将の目を盗んで逃亡する兵が増えていった。
連日連夜の攻撃で、外郭の建物はほぼ全て焼け落ち、神経を擦り減らし苛立ちを抑えきれなくなっていた足軽大将が、逃亡しようとした組下の足軽を罵ったうえで切り殺した事で、足軽の怒りが爆発した。
ここで逃亡しようとする足軽を、優しく慰撫することができれば状況も変わったのだろうが、全ての足軽大将が知力・胆力・義侠心を持っているはずもなく、起こるべくして足軽による反乱が起きてしまった。
足軽大将以上に知力・胆力で劣り、戦争神経症に罹っていたと思われる組下足軽たちが、一斉に足軽大将に襲い掛かり槍で串刺しにした。
これを見ていた周辺の足軽たちも次々と狂気に染まり、自分たちの大将に襲い掛かった。
夜間に城兵の同士討ちを察した武田信智軍は、城門が開けられる可能性を考え、味方となった元今川方遠江衆を城門前に集めた。
先陣は一番危険だが、同時に一番駆け・一番槍の功名を稼ぐ機会でもある。
特に今川から寝返った国衆や地侍は、名を上げ鷹司家で確固たる足場を築く絶好の機会だ。
その中には、井伊衆を率いる井伊直親と今村正実主従がいた。
2人は井伊家を今川の楔から解き放ち、堂々と本当の名を名乗れるようになったのだ。
父や叔父の敵を討つため、常に最前線に臨んでいたが、理由はそれだけではなかった。
他の近習や小姓出の近衛指揮官に比べて、自分の扶持が多いのが気になっていたのだ。
自分1人で、侍大将として2000貫文を受けているだけではない。今村正実も、足軽大将として別に500貫文を受けている。
全てが実力ではなく、井伊家調略の一環でである事は、2人とも重々承知していた。それに鷹司家家中も、その事を理解しているのも分かっている。だがそれでも、功名を上げないことには立場がないと、2人は思い込んでいた。
混乱の極致となった掛川城では、足軽が城門を開いた。そしてそこに、武田信智軍の攻城部隊が殺到した。
「降伏するものは武器を捨てよ!」
武田信智軍の戦目付は、城門を開いた者が間違って殺されないように、素早く寝返り兵を確保した。
武田信智軍に味方した者が、武田信智軍に殺された言う噂が立てば、今後の調略や城攻めに支障をきたすからだ。
さらに降伏する意思を示した将兵を無暗に殺せば、後々戦力や労働力に活用できる人間の命を、無駄に浪費する事になる。
今の鷹司家には、労働力を欲している職場が数多くある。特に必要としているのは、最悪の環境といえる鉱山労働だった。最後まで抵抗を示し、本来殺すべき敵兵は、絶好の鉱山労働者候補なのだ。
「命は助ける、衣食住は保証する、武器を捨て降伏せよ」
功名を得る為に、殺すべき敵を探し求める遠江衆に交じって、戦目付と配下の兵は、降伏兵を鉱山労働という地獄に誘う使者として、戦場を巡っていた。
朝比奈親子は、反乱が勃発し武田信智軍に奪われた外郭を、素早く見切った。主郭と残った郭に、今となっても今川と朝比奈に忠義を尽くしてくれる将兵を収容して、籠城をつづけた。
夜が明ける頃には、掛川城内の敵味方は鮮明となった。
武田信智軍は、手に入れた郭の守備を遠江衆に任せるとともに、主郭など朝比奈勢が確保し続ける所に大竹矢を射込めるように、手に入れた郭に大弩砲を移動させる。
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