転生武田義信

克全

第61話出羽侵攻・陸奥武力威圧

6月5日出羽湊城:義信視点

俺は今回の遠征で、出羽を完全に勢力圏に組み込む決意をしていた。今なら、圧倒的な鉄砲数と硝石生産力で、東北諸国を制圧可能と判断したからだ。だが同時に、冬将軍には勝ち目がない事も自覚している。よって今回は、出羽の弱小大名と国衆を調略して、近衛府武士団として組み込む事にした。

佐渡から越後に上陸して北上する途中で、揚北衆の留守居役の挨拶を受けた。さらに北上して、出羽庄内の大宝寺義増と、後見人の土佐林禅棟の挨拶を受けた。

この時同時に、大宝寺義増からの独立や、鷹司家(武田)との直結を望む、大宝寺一族や家臣団とも繋がりを持った。

俺としても、家臣団の中に圧倒的な力を持つ者を作りたくはない、甲斐の穴山や小山田のような勢力ができては、鷹司近衛府武士団に禍根を残してしまう。

さらに海岸線を騎馬のみで急いで北上して、由利本荘に入り、由利十二頭(ゆりじゅうにとう)と言われる国衆の挨拶を受けた。

十二神将に準(なぞら)えているだけで、本当に12家なのではない。由利の主な国衆は、矢島家・仁賀保家・赤尾津家・潟保氏家・打越家・子吉家・下村家・玉米家・鮎川家・石沢家・滝沢家・岩屋家・羽川家・芹田家・沓沢家などだ。

由利十二頭の挨拶を受けた後、また騎馬のみで急いで北上して、湊城に入った。湊安東家と檜山安東家を、分割させ切り崩すために、威圧を掛けたのだ。

だが湊城に向かう道中も何もしなかった訳ではなく、左近衛大将として、出羽と陸奥の大名と国衆に、私戦を禁止する使者を送った。

これは国衆の領地争いを禁止するのもので、係争地は左近衛大将として調停すると言うものだ。

だが事前に係争地を申請すれば、その係争地を検地した上で、双方に同価値の扶持を与えるので、近衛府に出仕せよと言う、とても勝手な使者を送ったのだ。それでも私戦を起こした場合は、係争地は近衛府が取り上げると言う厳しい通達だ。

だがこの使者を送る事で、後々出羽と陸奥の大名と国衆に、戦を仕掛ける大義名分を得られる。領地的には損をするが、取り上げた係争地を近衛府直轄領にして、近衛軍を駐屯させる事もできる。

ここで問題となるのは、出羽と奥羽で最大勢力と言える伊達家だろう。だが今の伊達は、天文の乱と言われる、6年間にも及んだ内乱で、著しく勢力を落としている。

天文の乱とは、伊達家の第15代当主である伊達晴宗と、先代の伊達稙宗が、奥羽諸侯を撒き込んだ内乱を起こしたものだ。この内乱の影響で、伊達本家は一門や家臣団への統制力が著しく低下させている。内乱で敵味方に分かれた、一族や家臣団も憎しみ合っている。

結局天文17年(1548年)9月に、将軍の足利義輝が仲裁をした。稙宗が家督を晴宗に譲り、丸森城に隠居する事で、何とか内乱は終決した。

だが天文の乱で家族を殺された一門や家臣団は、伊達家内にあっても憎しみ合っているだろう。この辺を刺激すれば、伊達家の一族や家臣を調略する事も、内乱を引き起こさせる事も可能だろう。

次いで最上家なのだが、ここは伊達稙宗の時代に伊達家に攻められて、家督継承に口出しされている。伊達家の属国にされていたが、天文の乱で晴宗に味方して、今では独立勢力として基盤を固めている。

出羽最上郡には、伊達家に抵抗していた国衆連合があり、最上八盾(もがみやつだて)と言われている。最上八楯は天童家を盟主に、最上家及び天童家の分族で構成されているのだが、天文の乱までは伊達家の勢力に組み込まれていた。

「最上八盾」
天童家:盟主。天童城を本拠とし勢力を持っている。
延沢家:延沢銀山(銀山温泉)で著名な延沢城を本拠とする、八盾でも有力家。
飯田家:村山市に本拠を置く。
尾花沢家:尾花沢城を本拠とする。
楯岡家: 楯岡城を本拠とする、最上氏庶流。
長瀞家:長瀞城を本拠とする、八盾でも有力家。
六田家:山形市から上山市、東村山郡に本拠を置いている。
成生家・天童市周辺。
「八盾以外の有力構成家」
佛向寺:天童の有力な寺で、僧兵を持っている。
細川直元:小国城を本拠とする、足利氏の名門三管領細川氏の一門・奥州細川氏。
東根家:天童家の分家。
上山家:上山城主で出羽里見家、最上家の縁戚。

3つめの家は、鎮守大将軍北畠顕家の末裔を自称している浪岡家だ。浪岡家は中将職を得ていて、居城の浪岡城を「浪岡御所」と呼んでいる。

浪岡家の第8代当主である浪岡具永は、朝廷が中将職と言う高位を与えているので、俺も無下(むげ)には出来ない。だが左近衛大将の俺から見れば、中将職は部下のようなものだ。

今はまだ陸奥(青森県)の大名や国衆に、直接戦争を仕掛ける気がないから、交流だけにとどめておく。鷹司家と浪岡家の、格の違いと戦力差を、浪岡具永に自覚させられればいいだろう。

4つ目は南部家なのだが、すでに南部晴政が南部一族を統一している。ここは他家と違って、内紛を終わらせているので、迂闊(うかつ)に手出しできない。

下手に手を出して負けてしまっては、今は大人しくしている、越中以北の国衆や地侍が、一斉に反乱を起こすかもしれない。南部家との境目の城の兵を置いて、南下する気があるか様子を見よう。





6月15日出羽檜山城:義信視点

俺はこれ以上北上した場合に、安東愛季が攻撃を仕掛けて来るかもしれないと考えた。史実の安東愛季は、実兄である湊安東家の第10代当主、安東茂季を傀儡にしている。

安東愛季が安東茂季を操り、安東家を統合して戦を仕掛けて来たら、越後との間を遮断される危険がある。そこで檜山安東家の居城である檜山城に入って、俺の巡回に安東愛季と安東茂季の2人を、無理矢理同行させた。

その巡回中に、能代や山本の国衆と地侍の切り崩しを行った。最初に檜山城に入った時におこなった、安東家の一門や家臣の切り崩しを進め、彼らの近衛府直臣化を断行した。





6月20日出羽独鈷城:義信視点

そうして武力威圧巡回を続けて、比内に一大勢力を築いていた、武田家庶流浅利家の独鈷城に入った。

浅利家とは、我が甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷にいる、浅利信種の一門になるそうだ。

俺から見れば遠い祖先の分家でしかないのだが、戦国の世ではそんな関係であっても、降伏臣従の体裁を整えるのには役にたつ。

浅利信種は信玄の譜代家老の1人で、浅利家はその分家も分家、末流と言っていい家だから、武田家に降伏臣従しても面目が立つ。

それに先代の浅利則頼は優秀で、南部家や檜山安東家と争って勝ち残り、比内郡に大きな勢力を築いていた。

だが浅利則頼が死んで2年、影衆の調べでは、後継者争いが起こっているようだ。当主となった、正室の子である浅利則勝を追い落とそうと、側室の子で庶兄の浅利頼治と浅利則祐が、いろいろと画策しているようだ。

先代が独鈷城を本拠地として、現在の二ツ井町荷上場館平城から上津野までを席巻し、各地の国人を併合したのだ。

独鈷城・笹館城・花岡城・扇田長岡城を拠点として、西の守りには娘婿の浅利牛欄を八木橋城に配置して、比内郡の守りを固めていたのだ。ここで愚かな内紛を起こさせるわけにはいかない。

そんなことになれば、南部家だけでなく、今は俺に頭を下げている周辺の国衆と地侍にまで、反乱の機会を与えてしまう。

そこで何時でも俺が介入できるように、当主の浅利則祐に、武田家の姫を嫁に送り込むことにした。露骨な手段だが、比内浅利家を、武田家に盗り込まねばならない。

そして内乱の芽になる庶兄の浅利頼治と浅利則祐は、近衛府の番長に任命して、無理矢理諏訪に連れて行こう。

独鈷城で比内浅利家の立て直しを図っていると、陸奥浪岡家の浪岡具統が挨拶にやって来た。浪岡具統は、陸奥浪岡家の第8代当主である、浪岡具永の嫡男だ。

浪岡具統の話を聞くと、どうも叔父の浪岡具信が家督を狙っているそうで、俺の後ろ盾が欲しいらしい。

これは棚から牡丹餅だ!

今回は陸奥まで勢力を伸ばす気はなかったが、向こうから鴨が葱を背負って来てくれた。

その一方で、南部晴政は病気と偽り、弟の石川高信を寄越すにとどめている。

鷹司家当主である俺が、ここまで下向しているのだから、挨拶に来るのが当然なのだが、騙し討ちを警戒しているのだろう、戦国を生きる武士ならば、当然の行動だろう。

俺は挨拶に集まった全ての国衆と地侍を伴い、鹿角に入った。鹿角四頭と言われた、成田家とその一族の奈良家・安保家・秋元家の末裔、さらには鹿角四十二館と言われる村落単位の国衆を威圧して巡った。

彼らは軍事力に優れた南部家に取り込まれそうになっていたが、近衛府の武士団として、俺の直臣になる事を誓った。

ここまで北の奥地に来ると、鷹司家当主の名前と近衛大将の官職は、圧倒的な威力があるようだ。「浪岡御所」の次期当主まで、馳せ参じて臣従の挨拶をしている現実を見て、我遅れじと臣従を誓いにきた。





7月1日陸奥浪岡城(浪岡御所):義信視点

俺は浪岡具統を支援するために、予定外だが「浪岡御所」に遠征することにした。

俺に挨拶に来てくれた国衆と地侍の内、当主や嫡男と騎馬武者だけを引き連れて、速力重視で矢立峠を越え、陸奥の「浪岡御所」に移動した。

「浪岡御所」に入った俺は、左近衛大将として左近衛権中将の浪岡具永の挨拶を受け、同行した国衆や地侍に格の違いを見せつけた。

その上で跡目を狙う浪岡具信を威圧し、大浦為則などの青森県に地盤を持つ、南部家の家臣たちの挨拶も受けた。南部晴政が病気と偽っている間に、圧倒的な武力と格の違いを見せつけて、南部家家臣団の切り崩しを行ったのだ。

俺が浪岡具統の後ろ盾になった事を、陸奥の国衆や地侍に印象付けた。これによって浪岡具統と言う、浪岡家次期当主に対する影響力を手に入れた。同時に浪岡家に家臣はもちろん、浪岡家が影響力を持つ国衆や地侍にも、間接的な影響力を手に入れた。

俺は予定外に行動で失った日数を取り戻すべく、付き従うと申し出た騎馬の国衆と騎馬隊を引き連れて、速力重視で再度矢立峠を越えた。

そして比内浅利家の独鈷城に入り、檜山城や湊城などを経由して、角館に向かった。





7月15日出羽角館城:義信視点

角館城の戸沢道盛は、若くして父親の戸沢秀盛を亡くし、享禄2年(1529年)にわずか6歳で家督を相続することになった。

だが叔父の戸沢忠盛が反乱を起こし、母と共に一時角館城を追放されていた。

だが重臣たちが道盛を支持して、天文元年(1532年)に忠盛に反乱おこし、忠盛を淀川城に追放してくれた。そこでようやく、無事に角館城に復帰することができていた。

天文14年(1545年)4月14日に戸沢忠盛が死去した時には、淀川城は湊安東家の攻撃を受ける。淀川城は一度湊安東家に奪われたものの、戸沢道盛が奮戦して奪い返している。この一帯も先代湊安東家当主の安東堯季や、横手城の小野寺景道との係争地となっていた。

俺は徒歩で後を追ってくれていた、佐渡侵攻軍の歩兵部隊と、角館城近郊で合流した。彼らは佐渡から庄内にジャンク船で渡り、徐々に北上して来たのだ。

3万を超える大軍勢となった実戦力と、左近衛大将と言う官職の位で、領地争いを禁止すると、戸沢道盛にきつく言い渡した。

その上で角館城に入城して、戸沢道盛に臣従を誓わせた。まあ俺が信濃に戻ったら、約束を忘れて領地争いを再開するだろうが、そうなったら討伐の名目を手に入れる事ができる。





7月20日出羽横手城:義信視点

俺は先年に圧力を掛けて臣従を誓わせた、横手城の小野寺景道に再度圧力を掛けるため、3万を超える軍勢で横手城を包囲して、再度小野寺景道に臣従を誓わせた。

その上で領地争いがあった土地を、近衛府(鷹司家)の直轄領として没収し、軍勢をつけて目付を残した。

また小野寺家の一族や家臣で、近衛府に出仕して鷹司家(武田家)と直接主従関係を結びたい者を取り立てて、小野寺家の勢力を削ぐようにした。

俺は小野寺家を切り崩すためにも、小野寺一門と家臣の城に宿泊しながら南下、3万を超える軍勢を各城砦に分宿させながら、湯沢城・小野城・乃位館・高堂館・岩花城と移動して行った。





7月20日出羽岩花城(岩鼻館):義信視点

岩花城(岩鼻館)には、小野寺家の客将である佐々木貞綱が派遣されていた。だが俺は、佐々木貞綱を含めた、周辺の大小城砦郡の国衆と地侍を、直臣にする事にした。

大宝寺家・小野寺家・最上家を監視して、奥羽に無駄な戦いを起こさせないためには、現代の秋田県と山形県を分ける雄勝峠を、確保する必要があると判断したからだ。

佐々木貞綱を含めた、雄勝峠周辺の国衆と地侍を、鷹司家の直臣に取り立てて、近衛府出仕の近衛武士とした。佐々木貞綱を、地方在住の近衛騎士団の頭に取り立てて、国衆と地侍を寄騎と同心とした

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