転生武田義信
第60話佐渡制圧・部隊改称・秋田侵攻
4月20日佐渡須加城:第3者視点
鷹司義信の本陣に先行して佐渡に上陸侵攻した、猿渡飛影指揮下の越後衆と越中衆は、順調に城取を行っていた。
佐渡の大半の城は、砦に毛が生えた程度の城で、8000兵による全方位一斉攻撃を行えば、簡単に攻め落とすことができる。だが羽茂城でそれを行えば、さすがに損害が大きくなる。そこで後続を待つ間に、降伏して来た佐渡勢を再編成して、1番損害がでる先陣とすることになった。
第3陣として小木湊に到着したのは、越中に駐屯していた、飛騨と木曽と諏訪の国衆や地侍2200兵だった。彼らを第2陣とする編制を行い、今まで先陣を務めていた越後衆と越中衆は、第3陣と第4陣になった。
だが支援弓射を行う者たちは、集中運用しなければいけないので、第2第3第4陣から引き抜いて、先陣の後ろに置かれた。
史実で天正17年(1589年)に行われた上杉軍の佐渡攻略では、内通した沢根本間家の沢根城が、真野湾の沿岸部にあるので、上杉軍はその近くに上陸した。
この上杉軍に佐渡攻略に対して、本間一族は共同して反撃しようとした。だがこの時に河原田本間家が迎撃に出せた兵力は、わずか500兵だったと読んだ事がある。
その後上杉軍が行った羽茂城攻略戦でも、わずか1日で羽茂城を落城させたと書いてあった。まあ佐渡の石高は1万7000石だから、無理な動員しても、農民兵で800兵が限界だろう。
だが領民を撒き込んだ籠城戦になれば、話は変わってくる。老若男女の全領民が城に逃げ込んだら、佐渡の全島民を相手にすることになる。
そこで鷹司義信は、羽茂本間家の支配域でも最先端の、岬に近い小木湊に上陸させたのだ。これによって河原田本間家以下の佐渡勢力が、直ぐに羽茂本間家の援軍に駆けつけられないように、飛影に前もって戦略戦術を指示していたのだ。
飛影の情報では、佐渡国に守護は入国していなかった。守護代である本間家が、代々統治していた。だが今の佐渡は、22人の国衆が分割支配している。内訳は本間13家、渋谷4家、藍原家、土屋家、名古屋家、足立家、石花家だと言う。
その中で鷹司義信が手に入れたい鉱山を支配してるのは。
西三川金山:羽茂本間家
新穂金山 :久知本間家・潟上本間家
鶴子銀山 :河原田本間家・沢根本間家
だがまだ今は、佐渡最大の金山となる、相川金山が発見される前だ。1戦して必敗を悟らせ、佐渡国衆が得ている石高収入の倍、4万石程度の扶持銭を支給する条件で降伏交渉する様に、鷹司義信は飛影に指示してあった。
この条件で飛影が使者を送ると、その効果は絶大で、全ての国衆地侍が降伏臣従してきた。何と言っても鷹司義信は、官位官職が正二位と高いのだ。佐渡でこの官位と五摂家の当主と言うは、大きな影響力があった。
その鷹司義信が左近衛大将として、知行地の倍の扶持を支給するから、近衛府に府生・番長・近衛として出仕せよと言うのだ。降伏臣従したとしても、十分に武士の面目がたったのだ。
そしてその降伏臣従の動きは、大将の鷹司実信が足軽3500兵と共に上陸したことで、加速度的に進んだ。
何と言っても鷹司家の次期当主で、左近衛権中将の鷹司実信から、直接に近衛府への出仕を命じられるのだ。特に金山を支配していた羽茂・久知・潟上・河原田・沢根の5本間家と、本家の雑太本間家には、従七位下・将曹の官位官職を、鉱山を取り上げる代償に与えのだ。
実際に全軍を指揮していた、陣代の猿渡飛影が、最初の数城を損害を考慮しない我攻めを行い、佐渡の国衆地侍に恐怖を与えたこと。その後は無理な攻撃を控え、鷹司実信の佐渡到着を待ったことが大きかった。
4月20日信濃諏訪城:義信視点
4月15日に九条が見事に男児を産んでくれた!
男児を得るために俺が取り入れた男女産み分け法は、食事療法と膣内のペーハーコントロールだった。
まあ食事療法の方は、人体のホメオスターシスを考えれば、男女産み分け方としては眉唾の方法だろう。だがそれでも、この時代にやれる事は全部取り入れるしかない
男女産み分け法の本命は、膣内ペーハー管理だ。その条件を満たすために、九条とは膣内がアルカリ性になる、排卵日前後しか性交渉を行わなかった。
その上で、性交時に膣内をアルカリ性を保つ努力が大切なのだが、今の俺にできるのは、探し回って発見した、アルカリ温泉水で膣内を洗浄することくらいだった。
しかしこれを俺が自分でやるのは、ちょっと躊躇(ためら)われる。そこで茜ちゃんたちに、男児を得るための秘法として、九条に指導してもらっていた。
母子ともに無事な出産を確かめた俺は、騎馬隊を率いて佐渡に向かった。
5月5日佐渡川原田城:義信視点
佐渡に渡った俺は、川原田城を佐渡の臨時本拠地と定めた。川原田城において、佐渡衆との主従の誓いを交わした。すでに飛影と鷹司実信が、万全の準備を整えてくれていたので、何の問題も起こらなかった。
降伏臣従してくれた佐渡の国衆と地侍の面目を保つため、彼らの配属される扶持武士団を、近衛武士団と改称することにした。
実質は佐渡勢の敗北による降伏臣従なのだが、建前上は近衛府に出仕すると言う事になっている。
扶持武士団の呼称では体裁が整わず、武士の面目にかかわるかもしれない。だからこそ、近衛武士団と改称しなければならない。
だがずっと忠義を尽してくれている、河原者や山窩で編制された、足軽兵団にも報いてやりたい。そこで足軽兵団も、近衛足軽団と改称することにした。
「鷹司卿、叔母上様の入内と、内親王殿下降嫁の御話なのですが?」
飛影が確認して来た。
「うん? 今上帝が御認めになられたのが不思議か?」
「はい、今上帝は清廉潔白な御方なので、いかに公家衆が説得されようとも、御認めにならないと思っておりました」
「今上帝は、『今年の天下大疫で万民が多く死亡した。朕は民の父母として徳が十分でなかったことに甚だ心が痛む。ひそかに般若心経を金字に写し、これを供養させる。これが疫病の妙薬となることを願う』と全国の一宮に収められたほどの御方だからこそ、苦渋の決断で御認めになられたのだと思う」
「それはどう言う意味でございますか?」
「今もし今上帝に何かあれば、皇統を引き継げるのは方仁親王と伏見宮邦輔親王しかおられぬからだ。南北朝の動乱と応仁の乱以後の困窮で、皇室は皇子を内親王として宮家を立てることが御出来になれなかった。先代の後柏原天皇や先々代の後土御門天皇の皇子方も、入道親王や法親王となられて、皇統を継ぐべき子孫を残されず、すでに亡くなられておられる。伏見宮家の王子方も、入道親王や法親王となられて、建前上は皇位を継げない状態だ」
「左様でございましたな! 恐れ多い事なれど、京で流行病が起きれば、取り返しのつかない事になるやもしれませんな!」
「まあそうなれば、覚恕様か伏見宮家の法親王の何方かに、還俗して頂く事になるだろう。だがそれが原因で後継争いになれば、南北朝の再来になってしまう。それに伏見宮家では、今上帝から血統が遠くなる。どうせなら最初から覚恕様に還俗して頂いておいて、王子を設けて頂いておけば、万が一にはその王子に皇位を継いでもらえる。そうなれば建前も問題なくなる。まあ、方仁親王殿下の御子が男児なれば、それが1番なのだが」
「しかし恐れ多い事なれど、子供の半数は元服を迎えられません」
「だからこそ今上帝は、叔母上の入内を御認めになられたのだと思う。方仁親王殿下に男児が生まれる機会を、増やそうとなされたのだ。公卿衆の生活は安定したものの、俺の機嫌1つで困窮に逆戻りするのは、十分に御分りになられておられる。武田家を差し置いて、新たに入内させようと言う公卿衆はおらん。それに宮家創設のための費用も維持費も、武田家なしでは有り得ないだろう」
「されば降嫁を御認めになられたのは、何故でございます?」
「内親王殿下の母方御実家が、内親王殿下の事を思い、嫁入りさせたいのが1番の理由だろう。今上帝も、内親王殿下を僧籍に入れるのは、不憫と思われたのだろう。それに鷹司実信と三条公之は、建前上は公家であって武家ではないからな」
「なるほど、武家であろうと公家であろうと、建前を整えて差し上げるのが大切なのでございますね?」
「人は皆、矜持(きょうじ)も意地もあるだろう。それを守るために、命すらかける者もいる。俺もそのような漢(おとこ)は大好きだが、死なずに済むならそれに越したことはない。そのための労力は惜しまず、全力で取り組むさ!」
佐渡には守備兵として、足軽兵団3000兵を駐屯させた。内乱に対しての兵数としては、明らかに多すぎる。だが元難民の生産部隊が佐渡に移住し、安心して籠城戦を任せられるようになるまでは、他国や海賊の襲撃を警戒すべきだろう。金銀の鉱山を奪われる事だけは、絶対にあってはならない!
それに金堀衆が到着するまでに、できれば相川金鉱山を発見しておきたい。そこで佐渡の代官は、飛影に影衆から推薦させた。
6月5日出羽湊城:義信視点
俺は佐渡の国衆と地侍を近衛武士団に取り込み、鷹司実信と一緒に諏訪城に行かせた。俺自身は騎馬鉄砲隊6000騎を率いて、鷹司と武田が支配下に置いた、全ての領内を威圧巡回した。
佐渡からジャンク船に乗って、越後新潟湊に上陸してから北上し、越後の揚北、出羽の庄内、由利、秋田を巡った。先年亡くなった、湊安東家の第9代当主で、湊城主の安東堯季の弔問と言って、第10代当主の安東茂季と会談した。
史実では、弟の安東茂季を傀儡にしたと言われる安東愛季ともども、しっかりきっちり脅し付けた。そして左近衛大将として、安東愛季と安東茂季の兄弟に、臣従を誓わせた。
史実の安東愛季は、婚姻関係と養子縁組で、檜山安東家が湊安東家を盗り込み安東家を統一している。だが今はまだ、安東家が分裂した状態なので、安東諸家を各個に近衛武士団(武田家家臣)に取り込み、安東家が統一されないようにする!
だがそれだけではなく、行き場がない貧民や地侍の子弟を、近衛府で雇うと触れ回らせた。早い話が扶持支給を条件に、近衛武士団・近衛足軽団・近衛黒鍬荷駄団の兵力獲得だ。これが俺の想像以上に人気があった。
俺が考えていた、将来を閉ざされた者たちだけでなく、京の官位官職に憧れる嫡男が、一時的な修行として出仕したがったのだ。京の実態が分からない、遠国の国衆や地侍ほど、京に憧れを抱いているようだ。
まあ、京に連れて行けば幻滅するだろうが、諏訪や伊那に連れて行けば感激するだろう。何より国衆や地侍から、喜んで人質に志願してくれるのだ、こんな有り難い事はない。
まあ反抗的な国衆がいなかったわけではないが、そこは配下になったばかりの出羽勢を、鉄砲の面制圧一斉射撃の援護下で突撃させて、完膚(かんぷ)なきまで粉砕した。
後続の飛騨衆と木曽衆と諏訪衆の2200兵を、新たに奪った城の守備兵にして、於曾信安に指揮させた。
鷹司義信の本陣に先行して佐渡に上陸侵攻した、猿渡飛影指揮下の越後衆と越中衆は、順調に城取を行っていた。
佐渡の大半の城は、砦に毛が生えた程度の城で、8000兵による全方位一斉攻撃を行えば、簡単に攻め落とすことができる。だが羽茂城でそれを行えば、さすがに損害が大きくなる。そこで後続を待つ間に、降伏して来た佐渡勢を再編成して、1番損害がでる先陣とすることになった。
第3陣として小木湊に到着したのは、越中に駐屯していた、飛騨と木曽と諏訪の国衆や地侍2200兵だった。彼らを第2陣とする編制を行い、今まで先陣を務めていた越後衆と越中衆は、第3陣と第4陣になった。
だが支援弓射を行う者たちは、集中運用しなければいけないので、第2第3第4陣から引き抜いて、先陣の後ろに置かれた。
史実で天正17年(1589年)に行われた上杉軍の佐渡攻略では、内通した沢根本間家の沢根城が、真野湾の沿岸部にあるので、上杉軍はその近くに上陸した。
この上杉軍に佐渡攻略に対して、本間一族は共同して反撃しようとした。だがこの時に河原田本間家が迎撃に出せた兵力は、わずか500兵だったと読んだ事がある。
その後上杉軍が行った羽茂城攻略戦でも、わずか1日で羽茂城を落城させたと書いてあった。まあ佐渡の石高は1万7000石だから、無理な動員しても、農民兵で800兵が限界だろう。
だが領民を撒き込んだ籠城戦になれば、話は変わってくる。老若男女の全領民が城に逃げ込んだら、佐渡の全島民を相手にすることになる。
そこで鷹司義信は、羽茂本間家の支配域でも最先端の、岬に近い小木湊に上陸させたのだ。これによって河原田本間家以下の佐渡勢力が、直ぐに羽茂本間家の援軍に駆けつけられないように、飛影に前もって戦略戦術を指示していたのだ。
飛影の情報では、佐渡国に守護は入国していなかった。守護代である本間家が、代々統治していた。だが今の佐渡は、22人の国衆が分割支配している。内訳は本間13家、渋谷4家、藍原家、土屋家、名古屋家、足立家、石花家だと言う。
その中で鷹司義信が手に入れたい鉱山を支配してるのは。
西三川金山:羽茂本間家
新穂金山 :久知本間家・潟上本間家
鶴子銀山 :河原田本間家・沢根本間家
だがまだ今は、佐渡最大の金山となる、相川金山が発見される前だ。1戦して必敗を悟らせ、佐渡国衆が得ている石高収入の倍、4万石程度の扶持銭を支給する条件で降伏交渉する様に、鷹司義信は飛影に指示してあった。
この条件で飛影が使者を送ると、その効果は絶大で、全ての国衆地侍が降伏臣従してきた。何と言っても鷹司義信は、官位官職が正二位と高いのだ。佐渡でこの官位と五摂家の当主と言うは、大きな影響力があった。
その鷹司義信が左近衛大将として、知行地の倍の扶持を支給するから、近衛府に府生・番長・近衛として出仕せよと言うのだ。降伏臣従したとしても、十分に武士の面目がたったのだ。
そしてその降伏臣従の動きは、大将の鷹司実信が足軽3500兵と共に上陸したことで、加速度的に進んだ。
何と言っても鷹司家の次期当主で、左近衛権中将の鷹司実信から、直接に近衛府への出仕を命じられるのだ。特に金山を支配していた羽茂・久知・潟上・河原田・沢根の5本間家と、本家の雑太本間家には、従七位下・将曹の官位官職を、鉱山を取り上げる代償に与えのだ。
実際に全軍を指揮していた、陣代の猿渡飛影が、最初の数城を損害を考慮しない我攻めを行い、佐渡の国衆地侍に恐怖を与えたこと。その後は無理な攻撃を控え、鷹司実信の佐渡到着を待ったことが大きかった。
4月20日信濃諏訪城:義信視点
4月15日に九条が見事に男児を産んでくれた!
男児を得るために俺が取り入れた男女産み分け法は、食事療法と膣内のペーハーコントロールだった。
まあ食事療法の方は、人体のホメオスターシスを考えれば、男女産み分け方としては眉唾の方法だろう。だがそれでも、この時代にやれる事は全部取り入れるしかない
男女産み分け法の本命は、膣内ペーハー管理だ。その条件を満たすために、九条とは膣内がアルカリ性になる、排卵日前後しか性交渉を行わなかった。
その上で、性交時に膣内をアルカリ性を保つ努力が大切なのだが、今の俺にできるのは、探し回って発見した、アルカリ温泉水で膣内を洗浄することくらいだった。
しかしこれを俺が自分でやるのは、ちょっと躊躇(ためら)われる。そこで茜ちゃんたちに、男児を得るための秘法として、九条に指導してもらっていた。
母子ともに無事な出産を確かめた俺は、騎馬隊を率いて佐渡に向かった。
5月5日佐渡川原田城:義信視点
佐渡に渡った俺は、川原田城を佐渡の臨時本拠地と定めた。川原田城において、佐渡衆との主従の誓いを交わした。すでに飛影と鷹司実信が、万全の準備を整えてくれていたので、何の問題も起こらなかった。
降伏臣従してくれた佐渡の国衆と地侍の面目を保つため、彼らの配属される扶持武士団を、近衛武士団と改称することにした。
実質は佐渡勢の敗北による降伏臣従なのだが、建前上は近衛府に出仕すると言う事になっている。
扶持武士団の呼称では体裁が整わず、武士の面目にかかわるかもしれない。だからこそ、近衛武士団と改称しなければならない。
だがずっと忠義を尽してくれている、河原者や山窩で編制された、足軽兵団にも報いてやりたい。そこで足軽兵団も、近衛足軽団と改称することにした。
「鷹司卿、叔母上様の入内と、内親王殿下降嫁の御話なのですが?」
飛影が確認して来た。
「うん? 今上帝が御認めになられたのが不思議か?」
「はい、今上帝は清廉潔白な御方なので、いかに公家衆が説得されようとも、御認めにならないと思っておりました」
「今上帝は、『今年の天下大疫で万民が多く死亡した。朕は民の父母として徳が十分でなかったことに甚だ心が痛む。ひそかに般若心経を金字に写し、これを供養させる。これが疫病の妙薬となることを願う』と全国の一宮に収められたほどの御方だからこそ、苦渋の決断で御認めになられたのだと思う」
「それはどう言う意味でございますか?」
「今もし今上帝に何かあれば、皇統を引き継げるのは方仁親王と伏見宮邦輔親王しかおられぬからだ。南北朝の動乱と応仁の乱以後の困窮で、皇室は皇子を内親王として宮家を立てることが御出来になれなかった。先代の後柏原天皇や先々代の後土御門天皇の皇子方も、入道親王や法親王となられて、皇統を継ぐべき子孫を残されず、すでに亡くなられておられる。伏見宮家の王子方も、入道親王や法親王となられて、建前上は皇位を継げない状態だ」
「左様でございましたな! 恐れ多い事なれど、京で流行病が起きれば、取り返しのつかない事になるやもしれませんな!」
「まあそうなれば、覚恕様か伏見宮家の法親王の何方かに、還俗して頂く事になるだろう。だがそれが原因で後継争いになれば、南北朝の再来になってしまう。それに伏見宮家では、今上帝から血統が遠くなる。どうせなら最初から覚恕様に還俗して頂いておいて、王子を設けて頂いておけば、万が一にはその王子に皇位を継いでもらえる。そうなれば建前も問題なくなる。まあ、方仁親王殿下の御子が男児なれば、それが1番なのだが」
「しかし恐れ多い事なれど、子供の半数は元服を迎えられません」
「だからこそ今上帝は、叔母上の入内を御認めになられたのだと思う。方仁親王殿下に男児が生まれる機会を、増やそうとなされたのだ。公卿衆の生活は安定したものの、俺の機嫌1つで困窮に逆戻りするのは、十分に御分りになられておられる。武田家を差し置いて、新たに入内させようと言う公卿衆はおらん。それに宮家創設のための費用も維持費も、武田家なしでは有り得ないだろう」
「されば降嫁を御認めになられたのは、何故でございます?」
「内親王殿下の母方御実家が、内親王殿下の事を思い、嫁入りさせたいのが1番の理由だろう。今上帝も、内親王殿下を僧籍に入れるのは、不憫と思われたのだろう。それに鷹司実信と三条公之は、建前上は公家であって武家ではないからな」
「なるほど、武家であろうと公家であろうと、建前を整えて差し上げるのが大切なのでございますね?」
「人は皆、矜持(きょうじ)も意地もあるだろう。それを守るために、命すらかける者もいる。俺もそのような漢(おとこ)は大好きだが、死なずに済むならそれに越したことはない。そのための労力は惜しまず、全力で取り組むさ!」
佐渡には守備兵として、足軽兵団3000兵を駐屯させた。内乱に対しての兵数としては、明らかに多すぎる。だが元難民の生産部隊が佐渡に移住し、安心して籠城戦を任せられるようになるまでは、他国や海賊の襲撃を警戒すべきだろう。金銀の鉱山を奪われる事だけは、絶対にあってはならない!
それに金堀衆が到着するまでに、できれば相川金鉱山を発見しておきたい。そこで佐渡の代官は、飛影に影衆から推薦させた。
6月5日出羽湊城:義信視点
俺は佐渡の国衆と地侍を近衛武士団に取り込み、鷹司実信と一緒に諏訪城に行かせた。俺自身は騎馬鉄砲隊6000騎を率いて、鷹司と武田が支配下に置いた、全ての領内を威圧巡回した。
佐渡からジャンク船に乗って、越後新潟湊に上陸してから北上し、越後の揚北、出羽の庄内、由利、秋田を巡った。先年亡くなった、湊安東家の第9代当主で、湊城主の安東堯季の弔問と言って、第10代当主の安東茂季と会談した。
史実では、弟の安東茂季を傀儡にしたと言われる安東愛季ともども、しっかりきっちり脅し付けた。そして左近衛大将として、安東愛季と安東茂季の兄弟に、臣従を誓わせた。
史実の安東愛季は、婚姻関係と養子縁組で、檜山安東家が湊安東家を盗り込み安東家を統一している。だが今はまだ、安東家が分裂した状態なので、安東諸家を各個に近衛武士団(武田家家臣)に取り込み、安東家が統一されないようにする!
だがそれだけではなく、行き場がない貧民や地侍の子弟を、近衛府で雇うと触れ回らせた。早い話が扶持支給を条件に、近衛武士団・近衛足軽団・近衛黒鍬荷駄団の兵力獲得だ。これが俺の想像以上に人気があった。
俺が考えていた、将来を閉ざされた者たちだけでなく、京の官位官職に憧れる嫡男が、一時的な修行として出仕したがったのだ。京の実態が分からない、遠国の国衆や地侍ほど、京に憧れを抱いているようだ。
まあ、京に連れて行けば幻滅するだろうが、諏訪や伊那に連れて行けば感激するだろう。何より国衆や地侍から、喜んで人質に志願してくれるのだ、こんな有り難い事はない。
まあ反抗的な国衆がいなかったわけではないが、そこは配下になったばかりの出羽勢を、鉄砲の面制圧一斉射撃の援護下で突撃させて、完膚(かんぷ)なきまで粉砕した。
後続の飛騨衆と木曽衆と諏訪衆の2200兵を、新たに奪った城の守備兵にして、於曾信安に指揮させた。
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