転生武田義信

克全

第56話会津侵攻

7月2日信濃諏訪城の北二之郭:義信視点

さっそく九条の義父上に、上皇下向の相談をしたが、大反対されてしまった。皇室も公家も、南北朝時代の騒乱を忘れていなかった。これは俺が迂闊(うかつ)すぎた、俺の前世では南朝時代はなかったことになっていた。

少なくとも俺の学生時代には、南北朝時代に深く触れた授業を受けなかった。今上帝を京に残して、上皇を伊那にお迎えする。皇室の権威が2つに分かれて争うことは、皇室・公家にとっては悪夢でしかなかったのだ。

俺には悪意や野望はなかったと、九条の義父上に平謝りに謝って、上皇下向の話は撤回した。危ないところだった!

義父上に先に相談しておいて、本当によかった。営々と築いてきた今上帝の信頼を、一瞬で失ってしまうところだった。ここは九条の義父上の心証をよくするために、御所の修理費用を増額しておこう。いや、いっそ長年途絶えている、伊勢神宮の式年遷宮費用を献納するか?

俺の心理的な詫びだが、これも義父上に相談だな。

「桔梗ちゃん、今夜も渡ると九条簾中に伝えておいて」

「は~い若様、でも若様、桔梗たちの所には何時渡ってくれるの?」

「そうだね、九条との間に3人は男の子が生まれてからかな」

「でも、桔梗たちとの間に男の子が産まれなきゃいいんでしょう?」

「うんそうだよ、それがどうしたの?」

「食養で九条簾中様には男の子が生まれるようにしてるし、桔梗たちは女の子が生まれるようにしてるよね?」

「うん、でも絶対じゃないんだよ」

「子供が生まれないやり方も、ずっと若様とやってきたよね?」

「そうだね、でも桔梗ちゃんは俺に腹上死させたいの?」

「それは嫌だけど、九条簾中様に若様を独り占めされるのも嫌だな」

「桔梗ちゃん。桔梗ちゃんたちが奥の守りを固めてくれてるから、俺は安心して眠れるんだよ。誰が正妻や側室として輿入れしてこようと、奥女中衆を桔梗ちゃん、茜ちゃん、楓ちゃんが束ねてくれているから、安心していられるんだよ」

「う~ん、わかった。でもたまにはこっそり渡ってきてね。みんなで待ってるから!」

「でも半数はちゃんと警護に専念してね、全員懸かりなしだよ」

「わかった、でも狼たちがちゃんと番(ばん)してくれるけど、でもわかった半数ね!」

子供の頃から、将来輿入してくる女には警戒していた。伊達政宗の母、義姫などが代表的な閨閥(けいばつ)の争いだが、それに伴う当主暗殺や世継ぎ暗殺応酬は、俺にとっても恐怖でしかない!

だから俺は、幼い頃から愛人候補を育成してきたのだ。幼少の頃から、本質的に性格がよい子で、容姿も俺好みに育ちそうな子を、一緒に学びながら英才教育してきたのだ。まるで御姫様育成ゲームを実地でやっているようだが、俺と俺の子供たちの命が懸かっているのだ、決して趣味(しゅみ)や遊びじゃない!

そして俺は、衆道には決して手を出さなかった!

戦国時代は、織田信長の森蘭丸や前田利家に代表される、ホモダチは大切なものだったようだが、俺の趣味ではなかった。ホモダチは、君臣(くんしん)の絆(きずな)を結ぶ、大切な行いだと言う説があるのは理解している。

だが同時に、ホモダチの恋の鞘当(さやあ)てや嫉妬(しっと)で、刺殺された殿様がいるのも知っている。そんな諸刃(もろは)の剣を、趣味(しゅみ)でもないのに無理やり始めるつもりはない。折角(せっかく)ハーレムが作れるのだ、一滴たりとも無駄撃ちする気はない!





7月5日甲斐躑躅城の信玄私室:義信視点

「どう思う?」

「氏綱殿に通達したうえで、受け入れられてもいいのではないでしょうか?」

「義信の侵攻計画には支障をきたさんのだな?」

「上野口は全部、御屋形様の譜代衆が受け持っております。私が口出しすれば、譜代衆の機嫌を損ねるかもしれません。譜代衆にも手柄を立て、領地を得る機会を与えたほうがよいでしょう」

「そうだな、だが戦にならんに越したことはない。関東管領から武田に寝返りたい者だけ受け入れよう」

「小沢城の小沢氏をはじめとする南牧六人衆と、国峯城主の小幡憲重や、長野街道沿いの国衆でしたね」

「後は中山道の碓氷峠を越えた、愛宕山城や坂本城の国衆もだ。どの国衆も、百姓や地侍の突き上げに抗しきれなかったようだ」

「突き上げでございますか?」

「甲斐信濃の富裕が羨ましいそうだ」

「ああ、飢饉対策作物と凶作時の黒鍬雇用保証でございますか?」

「それもあるがな、養蚕が特に羨ましそうだ」

「そうですね、養蚕は銭になりますね」

「山岳地帯で田畑に限りのある領民には、果樹の山になった甲斐信濃の山々が、宝の山に見えるそうだ」

「果樹の植林も順調に育っていますね」

「では、北条と緊張状態になっても、上野と武蔵の国衆の寝返りを受け入れる」

「え? 武蔵もですか?」

「秩父一帯だからな、武蔵の国衆も一部含まれる」

「鉱山が目当てですね、御屋形様」

「まあ利益は御前と折半だが、儂も少しは自分で鉱山を確保せんとな。木曽、飛騨、越中、越後と、御前だけが武功を挙げては、当主としての面目(めんもく)にかかわるからな」

「承りました、ただ長野業正(ながのなりまさ)は名将です、業正と争うと兵と時間を無駄にしてしまいます。業正は北条に押し付けて、御屋形様は他に当たられて下さい」

「そうだな、だが御前には子作りに励んでもらわねばならんし、いっそ暫くおまえが躑躅城で睨みを利かして、儂が侵攻を担当するか?」

「それは難しいと思います。御屋形様の甲斐譜代衆と、私の譜代衆を一緒にするのは、内紛の元になります。私の近習となっている、譜代衆の世継ぎが当主になるまでは、無理は止めておきましょう」

「その方がいいか、ならば越後の時のように、参戦を希望する甲斐譜代衆だけは、佐渡侵攻軍に加えさせてやれ」

「承りました。」

困ったな、想像以上にバタフライ効果が大きくなってる。近隣諸国の農民や地侍が国衆を突き上げて、武田方に付けと要求するとは思わなかった。そうだよな、飢饉の時に大量の難民が押し寄せたけど、要するに全部近隣国衆の領民なんだよな。

しかし国衆も馬鹿だ!

甲斐信濃の好景気で、多少の差はあっても、国境の国衆は関料で儲けたはずだ。それを拡大再生産に投入すればいいものを、全部軍備費用に使うからこういう事になる。まずいよな、国衆の帰属争いで、北条と開戦なんてしたくないんだけどな。

関東管領の上杉も、謙信が負けて逃げるところがないよな、どうするんだろうか?

佐竹か里見当たりに逃げ込むしかないだろうが、関東管領の上杉家には、もう少し粘ってくれると有難いんだけどな。

北条は甲斐との交易で、軍資金が史実より多いから、地震からの立ち直りが早かった。余剰金を生産力拡大に投入した上に、税制改正で4公6民を導入してるから、民の信頼も厚いんだよな。甲斐の譜代衆が愚かな行動をして、北条を怒らさなきゃいいんだけどな。

1番の問題は、今川がとんでもなく裕福になってる事だ。俺の生産拠点である伊那との、最短距離にある湊を押さえているから、莫大な湊使用料と関料収入がある。湊と伊那までの陸路に領地を持つ国衆や、今川家の商人も豊かになってる。

だから今川家は、軍事費に投入できる余剰金に困っていないんだよな。伊那に侵攻するほど愚かではないと思うけど、今川家の家臣たちが欲に目がくらんで、義元を突き上げないとも限らない。家臣の突き上げを逸らすために、今川家の上洛が早まるかもしれない。

もし今川軍が伊那に侵攻して来たら、俺も遠江侵攻の踏ん切りがつく。今川から手を出してくれたら、北条も納得してくれるだろうから、駿河・遠江・三河の切り取りに踏み切れる。

その方が日本統一が楽になるんだけど、武田から攻撃すると大義名分が立たないし、北条との開戦も覚悟しないといけない。その場合は、関東管領との同盟も視野に入れることになる。俺としては、北条に関東管領を滅ぼしてもらってから、その悪行を名目にして、北条を滅ぼすほうが大義名分(たいぎめいぶん)が立つ。

悪辣な手段としては、今川軍に偽装した部隊に穴山を攻撃させて、偽装部隊に穴山を滅ぼさせる。その上で俺が軍を率いて反撃し、駿河に侵攻して今川義元を討ち取るのが簡単なんだよね。でもそんな戦前の関東軍みたいな謀略は、俺の好みじゃないんだ。いっそ上洛を早めさせるように、義元を煽(おだ)て上げるか?

今なら織田信秀(おだのぶひで)が死んでしまって、織田弾正家は弱っている。今の織田家では、今川の侵攻に結束して立ち向かえないだろう。それとも危機に際して、兄弟の跡目争いの愚を悟り、兄弟手を取り合って今川を迎え討つかな?

ここは判断に苦しむところだな。仕方ない、下手に工作して、藪をつついて蛇を出す事になるのも嫌だ、自然に任せよう。





7月10日信濃諏訪城の義信私室:義信視点

九条の義父上は、伊勢神宮の式年遷宮費用献金に大賛成してくれた。さっそく伊那に下向中の公家を選抜して、京と伊勢神宮に使者を送ってくれた。同時に俺からも伊勢に勢力がある公家大名の、伊勢国司北畠家の第7代当主、北畠晴具にも使者を送り、織田信長と合戦になった場合の布石を打っておこう。

俺は色々考えたが、結局越後の巡回に向かうことにした。機動力と打撃力を兼ね備えた、騎馬隊5000騎を率いて、長尾政景の坂戸城に入った。長尾家を完全に支配下に置くために、越後守護代長尾家に臣従していた国衆と、新たな主従関係を結び直さなければならない。

今現在俺に臣従している越後の国衆には、飛影を通じて動員をかけていた。そして彼らを率いて、会津侵攻を開始した。新参の越後の国衆や地侍も、古参の甲斐や信濃の国衆や地侍と、肩を並べて戦う事で、戦友意識が芽生えてくれればいいのだが。

会津地方の蘆名盛氏は、中通りを制圧すべく、三春城主の田村隆顕に攻撃をかけていた。だが田村隆顕は、常陸の佐竹義昭の支援を受けることで、蘆名盛氏の攻撃を凌いでいた。しかも蘆名盛氏は、会津四家の1つ山之内家に、天文12年(1543)に攻め込んで敗れてもいた。

この山之内家が大切で、もともと強国に挟まれた境目の豪族の哀しさで、蘆名家と越後守護代長尾家に両属するような形で家を保っていた。だから名将の山之内俊清は、蘆名盛氏を撃退した後で隠居して、横田中山城主を嫡男の山之内舜通に譲り、自分は玉縄城主を築いて末子の俊甫と移り住んでいた。

この山之内七騎党を取り込んでしまい、会津侵攻、蘆名討伐の足掛かりとする。事前の調略で山之内俊清は、武田家に臣従することに喜んで同意していた。先の読める山之内俊清は、1度攻め込んで来た蘆名盛氏を信じていなかった。それに飛騨・越中・信濃・越後を切り取った、武田と戦って勝てるとも思っていなかったのだろう。

そこで一門一族を説得して、武田に味方することにしたようだ。ここで1番重要なのは、岩谷城を確保できたことだ。これで会津若松と伊北郷横田を結ぶ、伊北街道の要衝の地を確保できた。

俺は越後衆を2000兵選抜して、岩谷城の守備に残し、素早く越後に戻ることにした。

「支配下に入った主な城砦」
水久保城・宮崎館・玉縄城・横田中山城・布沢城・岩谷城・丸山城・鳥海館・丸山城

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