転生武田義信

克全

第53話戦略構想・朝廷工作

12月1日信濃花岡城の義信私室:義信視点

今年は長年の戦略構想が崩壊してしまった年だった。史実を知る俺は、武田信玄・織田信長・上杉謙信に恐怖していた。信玄の猜疑心(さいぎしん)からの粛清(しゅくせい)に、細心(さいしん)の注意を払いながら実力を蓄えて来た。硬軟を使い分けて、決して信玄の逆鱗(げきりん)に触れないようにしてきた。

織田信長に対しては、今川氏真を活用する予定だった。武田・今川・北条の三国同盟を堅持しつつ、桶狭間後の今川軍を、信虎爺ちゃんと信顕叔父さんを陣代に使ってコントロールする。その上で美濃に出た俺と、遠江の今川軍で、信長を挟み撃ちにする心算だった。そのために、美濃の土岐頼芸を支援していたのだ。

問題は上杉謙信だった。此奴(こやつ)が一番扱い辛いだろうと考えていた。だから史実通りに川中島合戦を誘発させ、誘き寄せた謙信を鉄砲一斉射撃で撃ち取る心算だった。その上で越後を手に入れ海に出て、北回り航路で蝦夷(えぞ)と明国の中継貿易を行い、佐渡を手に入れ金山開発する心算だった。

だが想定外に越中が易々と手に入り、その過程で鉄砲一斉射撃を披露してしまった。謙信も意外と弱く、越後統一に苦戦している。だから信濃制圧も前倒しして達成した。

ここまで初期構想とズレが出てしまうと、大幅な戦略変換をしなければならない。囲碁や将棋と一緒で、相手のある事だから、思い通りにはいかないだろう。まして相手は1人ではなく、周辺諸国の全ての大名や国衆だ。

何手先まで読むかは、俺の能力次第だ。だが基本戦略だけは、今から決め直さなければいけない。今川と北条が攻めてこない限りは、三国同盟は堅持したい。

越後を盗り、佐渡を取る。佐渡金山の確保と開発は絶対条件だ!

そして中継貿易で、明から穀物を輸入して蝦夷(えぞ)の産物を輸出する。食料の絶対量を増やして、民を餓えさせない!

これが最初からの俺の基本理念だ。これを崩すのは、己の命が危険に曝された時だけだ。それに自前のジャンク船で、日本海を3往復できれば、日本各地で違う、精銭・永楽銭・鐚銭の交換比率を活用できる。銭の交換差益で、莫大な利益を生むことができるのだ。

次に考えられる戦略は、周辺諸国の動向次第で変化する可能性も高いが、美濃に出て斎藤を攻め滅ぼすことだ。そして尾張に侵攻して、織田信長と雌雄を決する事。

織田信長に勝つことができたなら、今川家も必要がなくなる。その時には、関東管領の実力と北条の実力を天秤に掛けて、関東を切り取るのが1つの方法だろう。

他にあり得るのが、越中の一向宗を懐柔してから、越中一向宗と敵対している加賀の一向宗に攻め掛かり、加賀を手に入れる事だ。

越前に手を出すかどうかは、朝倉家の陣代で事実上の当主である、朝倉宗滴の寿命次第だ。宗滴存命中に、越前に攻め入るほど俺は馬鹿じゃない。今から内紛を起こす工作をして、宗滴が亡くなった数年後に攻め込ばいい。

問題は、加賀に攻め入ったら、本願寺と泥沼の宗教戦争になる事だ。だが一向宗内でも、内部で権力争いを誘発させて、切り崩しを行えば対応可能だろう。今までも準備して来たが、今年からはもっと銭と人材を投入しよう。

後は上野・陸奥・出羽方面だが、この辺りの史実を俺は知らない。飛影に調べさせたことを、近習たちと検討しなければならない。だがもし侵攻するなら、北条殿と話し合いながら、境界線を確定していかねばならない。

だが今はまだ、日本海沿岸を支配している大名とは争いたくない。圧倒的な海軍を設立するまでは、交易での軍資金確保を優先すべきだろう。攻め込むべき国は、他にいくらでもあるのだから。蘆名盛氏あたりが1番適当だろうか?

今年の内政で困ったのは、6月の大雨で富士山北側山麓に洪水が発生したことだ。しかも続けざまに、7月8月にも大雨洪水が発生した。特に8月3日には、甲府でも洪水が発生してしまった!

この洪水のせいで、田畑が荒れ果てた上に、家と食料を失った民が大量に出てしまった。俺と信玄は、餓死者を出さないために、困窮する民を黒鍬衆として雇用した。俺と信玄は雇用した黒鍬衆を使って、軍用道兼用の堤防を構築した。黒鍬衆を軍用道の整備と、荒廃した田畑の再開墾に投入したのだ。

黒鍬衆への報酬は、雑穀1日5合の現物支給にした。現物支給にした理由は、洪水による食料不足で、食物相場が高騰していたからだ。銭の支給では、さらなる価格高騰を呼び起こしかねなかった。

支給した雑穀は、備蓄していた兵糧を放出する事で対応した。目減りした兵糧は、秋の収穫後に食料相場が安定してから、他国から輸入した。少しでも安価に兵糧を手に入れるためだが、俺は豊富な軍資金を使い、信玄は俺が上納している軍資金を活用したようだ。

今までの武田家では、他国に侵攻して略奪に走らねばならなかった。だが今の武田家には、軍資金に余裕があり、今回は軍資金を使うことにしたのだ。それに将来の統治の事を考えて、信濃攻略に伴う略奪は厳禁としていたので、ここで評判を落とす訳にはいかなかった。

しかしここまで気をつけていても、武田領内での物価高騰を抑えきることはできなかった。歩合収入のある荷役を筆頭とした、武田領内の裕福な者たちが、食料不足の不安から、物資の買い占めを始めたからだ。

その結果、物価高騰に商機を見出した商人が、利益のために周辺諸国で食料を買い占めて、武田領に持ち込んだ。これによって、徐々に武田領内の物価高騰は下落傾向になったが、今度は周辺諸国で食料価格が高騰し、餓える者が出始めた。

餓えた者たちは、俺が難民を保護していることを知っている、周辺諸国の貧民だ。その結果、大量の難民が武田領に逃げ込んで来る事になった。

俺と信玄は相談して、全ての難民を受け入れる事にした。足軽・黒鍬・小人・鉱山夫など、難民の技能によって配置先は様々だが、全ての難民を、武田家の軍事力と国力に役立つようにした。

鉄砲一斉射撃を披露し、海を手に入れた以上、もはや手加減をする必要がなくなった。全力で日本制圧に邁進(まいしん)する!

だがこれで、日本海貿易の必要性を痛いほど再確認できた。明や朝鮮の食料不足は考慮しない、手に入れることができる限界まで、外国から食料を輸入する。手持ちの淡水真珠を全て放出することになっても、民を餓えさせないように、穀物を手に入れて見せる。





12月1日京の鷹司屋敷:九条卿視点

新築・修築・増改築と、銭に糸目を付けない工事が続く。だがそんな最中でも、客間でこうして寛(くつろ)いでいると、帝との拝謁が思い出される。清廉潔白(せいれんけっぱく)な帝を説得するため、包み隠さず全ての謀(はかりごと)を御話申し上げたが、やはり帝には御許しに成れる事ではなかったようだ。

だが血縁から、武田義信の鷹司家継承は御認め頂けた。官位も、遡(さかのぼ)って任官したことに書類を改竄した。まあこれは何時ものことだ、古(いにしえ)より上洛して来た東胡(あずまえびす)の強要に対する、朝廷の対処法だ。

三条公頼卿が鷹司家を継承した時には、すでに義信殿も鷹司家の養嗣子であった事にして、その時に従三位の位階を得ていた事にした。そして今は鷹司家当主で、正三位・左近衛権中将に改竄されている。来春には従二位と言うことになるだろう。

問題は秋に内親王宣下を御受けになられた、普光内親王と永高内親王の降嫁だ。これだけは何と申し上げても、御認め頂けなかった。

三条邸で施療院を開かれる義信殿の事は、帝もよい心証は持っておられた。銭ではなく、日々必要な生活必需品を、毎日献納する奥ゆかしい尊皇の心も、御認めになられていた。

だが義信殿が、「鷹司当主の立場より武田の次期棟梁を優先するだろう」と仰(おっしゃ)られたことに、御返しする言葉は浮かばなかった。

だが義信殿の養嗣子として、三条実信殿を鷹司実信に改める事は御認めに頂けた。それに伴い三条公之殿を、三条家の当主にする事も御認め頂けた。

位階の方も、鷹司実信殿が従四位上・左近衛権少将で、三条公之殿が従四位下・右近衛権少将に成っている。来春には義信殿の昇叙任官に合わせて、2人が同時に昇叙任官する事も御認め頂けた。

だがここで諦めるわけにはいかなかった。伊那にいる公家衆のためにも、京に残っている公家衆のためにも、武田の武と富を朝廷に取り込まなくてはならない。

そこで鷹司実信殿と三条公之殿なら、武家の棟梁ではないとお話した。2人には、公家の立場を優先すると誓った、熊野権現の誓紙を出させるとも申し上げた。その上で、2人に普光内親王と永高内親王の降嫁をお認めくださるように、誠心誠意説得申し上げた。

この時には、土佐の一条家と伊予の西園寺家、伊勢の北畠家と飛騨の姉小路家を例に出し、公家が大名家になり得ると説得申し上げた。

帝は最後まで難色を示されたが、武田の次期棟梁でもないので、条件を達成すれば認めると申された。その条件は。
1:最低1国の守護である事。
2:公家としての立場を武家より優先する誓紙を出す事。
3:守護地の御禁裏領・荘園・家職銭を保証する事。
4:子息が産まれ成人したら、早々に当主を交代する事。
5:前当主・現当主・次期当主は、守護国と京を交互に行き交い、朝廷の仕事を疎かにしない事。
以上であった、中々に難しい条件ではあるが、武田なら認めるだろうと思い、間に立って交渉する事にした。今頃は武田の忍びが甲斐に走っている事だろう。

実はこの方が九条家には都合がよい!

我が愛しい娘を、義信殿の正妻に迎えてもらう事ができる。我が娘が産んだ子が、いずれは武田の棟梁となる!

これほど喜ばしいことはない!

沢山の子が産まれれば、次男に九条家を継承してもらう事もできるし、娘を入代させて帝の中宮とする事も夢ではない。武田の武と富を後ろ盾にできれば、九条家は安泰だ。

晴信殿も義信殿も、我が娘との婚儀に反対はすまい。明日にも帝の許可を頂き、武田の忍びに連絡を届けてもらおう。来年には孫を抱けるかもしれないな。さて、伊那からついて来てくれた山窩に、飯綱の法を伝授してもらおうかの。





12月31日甲斐躑躅城の大広間:義信視点

雪が降り他国の侵攻の心配がなくなり、俺は安心して花岡城から躑躅城に移動した。犬狼部隊の充実と、馬橇(ばそり)・犬狼橇(けんろうそり)の開発で、冬季の移動も便利になった。

今日も一門揃って、新年を迎える食事会だ。信玄父ちゃんに鷹司母上、二郎・三郎・四郎・五郎をはじめとする弟妹たち、諏訪御寮人をはじめとする父ちゃんの側室たち、信龍殿をはじめとする城に残っている叔父叔母たち、千代宮丸をはじめとする従兄弟たち。

今日は色とりどりの料理が並ぶが、特に女衆に喜ばれているのは、南瓜(かぼちゃ)のシチューだった。牛乳に適量の小麦粉と南瓜を加えて煮詰め、さらに蒸かした南瓜を磨り潰して溶かし込み、蕪(かぶ)・金時人参(きんときにんじん)・岩魚(いわな)の燻製で作った。鍋によっては猪や鹿の燻製を主材にしている物もある。

最近は戦と内政で忙しく、新メニューを考えていなかったが。だが凶作対策で、じゃが芋・薩摩芋・南瓜を使った料理を、冬季に普及させる事にした。

じゃが芋・薩摩芋・南瓜の大量栽培が可能な、広大な直轄領を今年の合戦で手に入れた。それがあったからこその、凶作時の代用食の普及だ。

料理の中には、じゃが芋を鯣(するめ)とたまり醤油で煮た物もある。夏季ならば、活け蛸と南瓜・薩摩芋・里芋などと煮た物を出すのだが、今回は民が真似しやすいように、鯣(するめ)とじゃが芋だけで試作してみた。

後は菓子代わりの石焼薩摩芋や焼栗も女衆に喜ばれている。

『現在の3兄弟の官位官職』

鷹司義信:正三位・左近衛権中将
:足利幕府・国持衆・越中守護
鷹司実信:従四位上・左近衛権少将
三条公之:従四位下・右近衛権少将

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