転生武田義信

克全

第45話飛騨信濃侵食

躑躅城:第3者視点

信玄は、村上義清の略奪対策に乗り出した。まずは被害を受けた村々に対して、日々の食料を貸し付けた。この政策により、領民が次の収穫時期まで生きて行けるようにした。

飢え死にすることを恐れて、領民に村ごと逃散されては、来年から年貢が入らなくなる。ただ信玄らしいのは、施しではなく貸し付ける事だった。これで信玄は、利息分儲かることになる。

次に生活は不便になるが、周辺の城砦に領民を匿うことにした。再度の襲撃を防ぎ、信玄への信頼と忠誠心を維持するためだ。自分がやっているように、武田の領民がさらわれ奴隷として売られたら、武田の国力が落ちると考えたのだろう。

最後に村上義清の馬廻り衆対策に、武田の騎馬武者だけで部隊を編成した。そしてその騎馬武者部隊を、迎撃部隊として最前線の城砦に配備した。武田騎馬軍団の始まりである。





4月25日犬甘城:第3者視点

犬甘政徳と息子の時定、政信、久知は、決断を迫られていた。もともと犬甘城の防御力は、普通の丘城でしかない。4500兵の大軍で籠城しているから、義信軍も攻めて来ないだけだ。だがその分、多くの兵糧が必要に成る。

その兵糧も年貢が激減しているため、神田将監が略奪して来てくれる食料に頼っていた。だが武田の包囲が厳重になり、徐々に兵糧を城内に運び込めなくなっている。犬甘城に持ち込めなかった兵糧は、平瀬城と中塔城に運び入れ、引き続き籠城ができる体制を整えている。

だが本拠地である犬甘城は、秋の収穫まで持ちこたえられるかどうか分からない!





5月1日桜洞城:武田義信

俺は飛騨制圧のために出陣した。率いる軍勢は、騎馬隊3500兵・工夫兵4000兵・足軽槍隊1000兵で、飛騨を平定するには十二分と言っていい兵力だった。昔から受け入れていた難民が、徐々に戦力として投入できるようになってきたのだ。

形式的には、飛騨守護である武田義信と、飛騨守護代兼飛騨国司の姉小路信綱が御国入りする形だ。小笠原の抑えは、扶持武士団と足軽弓組に任せた。

最初に花岡城を出陣して伊奈郡に入り、天竜川を下り松尾城に入って地域の政務をこなす。次いで木曽路を通り、妻籠城に入り政務をこなした。その後飛騨に向かい、昨年落とした桜洞城に入った。桜洞城では臣従を誓った国衆や地侍と交流し、兵農分離のために扶持武士団に組み入れた。

その後飛騨川沿いを上り、牛伏山城に入った。牛伏山城には、三木直頼の家老だった三仏城主の平野右衛門尉と、息子で鍋山城主の平野安室をはじめとする、飛騨の国衆と地侍が臣従を誓うためにやって来ていた。

俺たちが飛騨に入国した時点で、臣従してきた国衆地侍の城砦が56もある!

3万石程度の飛騨国半分でこの城砦数だ!

1城平均1000石未満、軍役でいえば30兵程度だろう。籠城時は、老若男女の領民全てで城を守る。これでは扶持武士化するだけ損だ。族滅させた三木一族の領地だけ直轄化だな。

後これに、姉小路信綱叔父さんの直轄城砦が小鷹利城(黒川城)・百足城(垣内山城) 本堂山城・城見寺城・池之山城・向小島城(信包城)・野口城の吉川左衛門尉・ 岡前館・小島城・姉小路氏・下北城・落岩城・古川城(蛤城・高野城 )古川二郎・岩田城を扶持武士化する。

これに今回は討伐対象外だった、江馬一族と内ヶ島一族がいる。

江馬一族と内ヶ島一族に圧力を加える意味もあり、姉小路信綱叔父さんの居城となる小鷹利城(黒川城)に入った。すると白川郷を支配下に置いている、帰雲城の内ヶ島氏理の使いがやって来た。俺が信濃と違って、飛騨では本領安堵政策をしていると聞き、討滅に政策変換する前に、いち早く降伏する気になったのだろう。

しかしこの内ヶ島一族って、天正大地震で城も村も土砂崩れの下敷きに成って、族滅していないか?

この時点で、飛騨は江馬一族以外を支配下に置いた。

「内ヶ島氏理の支配城砦」
帰雲城 :内ヶ島氏理
向牧戸城:川尻氏信
牧戸城 :川尾刑部・川尾右近・川尾氏倍
荻町城 :山下時慶・山下氏勝
日崎城 :尾上氏綱
芋井谷城:内ヶ島信氏・内ヶ島氏詮
赤谷城 :内ヶ島氏信・内ヶ島氏直
新渕城 :内ヶ島氏赦・内ヶ島氏輝

京から届く伝書鳩の知らせは、悪い物ばかりだった。

4月3日に細川晴元伯父上は、近江の六角定頼の所へ行って、欠郡への援軍を出してもらわれたようだ。晴元伯父上は三好政長と同じ道を通り、丹波から北摂津、猪名川へと進軍されたそうだ。

4月26日に塩川城に入城された。

4月28日に武庫郡に出陣され、西宮一帯を後方撹乱のために放火された。

4月29日には、伊丹城の三好政長と伊丹親興軍も城から出陣し、尼崎一帯を放火したそうだ。

5月1日には富松城も攻められたが、落城させることができずに退却された。

晴元伯父上の狙いは、越水城と中嶋城の三好長慶軍を分断し、榎並城にいる三好政勝を援護されることだろう。

5月2日に晴元伯父上は、味方の六角軍の来援に備えて、摂津北東にある、山城国と摂津国の国境付近に位置する、重要拠点である芥川山城を攻めろと、三宅城の香西元成に命じられた。

芥川山城主の芥川孫十郎が、三好長慶に味方していたため、晴元伯父上と三好政長はうかい行軍するしかなかったからだ。だが味方の香西元成の軍勢が、惣持寺の西川原で、敵の三好長逸の軍勢に阻止されてしまった。

そこで5月5日に、三好政長が伊丹城から三宅城へ入城した。

5月28日には、晴元伯父上が三好政長を支援するために、塩川城から三宅城に入られた。

晴元伯父上は、摂津の城を転々としながら戦場へ接近されているが、それは兵力が三好長慶軍より少なく、単独で対抗できないためだろう。ゲリラ戦で三好長慶軍を牽制しながら、六角定頼軍の援軍を待たれていたのだろう。

だが三好長慶軍は、晴元伯父上のゲリラ戦法を無視し、十七箇所近辺を平定しつつ、榎並城を包囲していた。だが榎並城が籠城準備を整えていたため、5月の時点でも落とすことができずにいた。晴元伯父上も長慶も決め手がなく、合戦は長期化していった。

6月11日に三好政長は、三宅城を出て要害堅固な江口城に入った。江口城は淀川と神崎川によって三方を囲まれ、北中島の東北端に位置する要害だ。江口城は中嶋城と柴島城の北東にあり、榎並城の北で三宅城の南でもある。つまり3つの城の中間地点にある、最重要拠点だ。

政長の戦略は、中嶋城と榎並城の中間にある江口城に入る事で、敵軍の妨害を図ること。さらには、味方の三宅城と榎並城の連絡交流を確保すること。その上で、近江の六角定頼の援軍を待つことだった。

しかし江口城には、致命的な弱点があった。北・東・南が川に囲まれた要害堅固な城であるが、逆に水路を封鎖されると、逃げ出せなくなるという地理的欠点があったのだ。

江口城の欠点を知る三好長慶は、城を包囲して糧道を断った。そして弟の安宅冬康と十河一存らの別隊に、江口城北側・神崎川の支流別府川河畔の別府村に布陣させた。

これによって、三宅城で江口城を支援していた晴元伯父上は、江口城との連絡を遮断されてしまわれた。つまり江口城の三好政長は、退路を断たれ孤立してしまったのだ。

6月12日に、三好長慶軍が攻勢を開始した。晴元伯父上に味方すべく、近江朝妻城から参陣してくれていた、新庄直昌が江口城を守って戦死してしまった。

晴元伯父上と三好政長は、近江の六角定頼の援軍を期待して守勢を通された。

六角定頼殿はさらなる増援を決定してくれ、子の義賢に近江軍1万を与えて援軍に送り出してくれた。

六角軍は6月24日に、江口城まで半日の距離にある、山崎に到着される見込みだったそうだ。

しかし三好長慶は、六角軍の到着日時を物見か忍びの報告で知っていたのだろう。六角軍が江口城に到着する前の24日に、三好長慶と弟・十河一存が東西から江口城を急襲してきた。

すでに長陣で疲弊していた三好政長軍は、江口城を守り切ることができなかった。三好政長をはじめ、高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら、800兵ほどが討ち死にしてしまった。

晴元伯父上は、江口城の落城と三好政長戦死で、負けを悟られたようだ。

翌25日に三宅城を放棄され、戦わずして帰京されたが、三好長慶の追撃を恐れられたようだ。前将軍足利義晴様、13代将軍足利義藤様らと一緒に、六角定頼殿の領内である、近江の坂本まで避難されたそうだ。

付き従われたのは細川晴賢殿と細川元常殿だが、お二人の領国である和泉は、長慶の手中に落ちてしまったそうだ。

佞臣(ねいしん)三好政長の息子政勝は、榎並城を逃げ出し瓦林城まで撤退した。残った反長慶の伊丹親興は、居城の伊丹城を三好軍に包囲されている。もはや晴元伯父上に逆転の目はないだろう。

7月9日に三好長慶と細川氏綱は上洛し、事実上京都を手中に収めたようだ。晴元伯父上と足利義晴前将軍は、坂本と京都東山を根城とされ、長慶に抵抗されているようだ。

晴元伯父上は、合流してきた三好政勝と香西元成を軍に加えて、京都への出陣を繰り返しておられているとの事だ。だが三好長慶に迎撃され、思うような成果が出ておられないようだ。

さて俺はどうすべきか?

このまま三好長慶が覇者となる様に、俺は動かない方がよいのか、想定している歴史転換点が起こらないリスクを取ってでも、晴元伯父上を支援すべきか?

歴史通りなら、晴元伯父上が殺される事だけはない。殺される事がないのなら、今回は見過ごすべきだな。





8月1日桜洞城:武田義信視点

姉小路信綱叔父が小鷹利城(黒川城)に残り、俺は小八賀川沿いを上り安房峠を越え、櫛置一族が城代を務める、波多山城・櫛木城・淡路城方面に出た。

これは同時に北条城の西牧信道を、何時でも高所から攻められることを意味した。圧倒的な不利を悟った西牧一族の大半が、戦う事なく降伏して来た。だがここまで抵抗した以上、稲作の収穫が見込める信濃で本領安堵は認められない、全員扶持武士団に組み込んだ。

「西牧信道の支配城砦」
城日影砦・鞠子山砦・長坂上砦・中村館・田屋城の滋野貞兼・荒海渡砦・柳坂上砦・亀山城・北条城・桜坂上砦・於田屋館・西林砦・伊藤坂上砦・城の上砦の14城砦

次いで大妻・岩岡・長尾・飯田・成相・吉野・熊倉・堀金・細萱・熊倉・等々力などの、諸勢力が雪崩を打って降伏して来た。

だが全ての者が降伏した訳ではなかった。真々部盛幸と岩岡石見の様に、犬甘城に合流する者。二木重信の様に、自分の城を死守する者。真々部真光・堀金広盛・等々力定厚の様に、しばらく抵抗したものの、諦めて城砦を明け渡す者に分かれた。

俺が飛騨方面から侵攻した事で、梓川と犀川手前の城砦群が降伏したのだった。





8月5日犬甘城:第3者視点

「御屋形様、いかにいたしましょう?」

犬甘政徳が小笠原長時に問いかける。

「政徳殿、三方を武田に囲まれた。もはやこれまでだ、平瀬城に拠点を移そう」

「承りました」

犬甘政徳は息子の時定・政信・久知と共に、小笠原長時を奉じて犬甘城を逃げ出した。付き従うは3500兵とその家族、兵力が減っているのは、1500の雑兵が籠城中に逃亡してしまったからだ。この1500兵は、義信の軍に加わっている。平瀬城主の平瀬義兼は、暖かく小笠原主従を迎えた。

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