転生武田義信

克全

第44話天文18年(1549年)11歳 畿内・佐久騒乱

1月29日躑躅城義信郭の義信私室:義信視点

伝書鳩が届けて来た畿内の情勢が最悪だ!

池田信正切腹に始まる、細川晴元伯父上と三好長慶の対立が、ついに合戦に発展してしまった。あれほど長慶を取り込んでくださいと、細川晴元伯父上に文を送っておいたのに、全く生かされていない!

三好長慶は昨年の内に、晴元伯父さんに敵対する、細川氏綱陣営に鞍替えしてしまった。最大の戦力である、三好一族の当主を敵に走らせてしまったのだ!

長慶には、岳父である河内守護代・遊佐長教や細川氏綱、和泉の松浦興信・丹波守護代内藤国貞・大和の筒井順昭が味方に付いた。何よりも池田長正を始めとする、摂津国衆の大半が味方に付いた。

摂津国衆は、三好政長が池田信正を切腹させた上に家政を牛耳り、池田家の家財を横領したことに激怒していたのだ。

晴元伯父上の下には、三好長慶の行動を謀反と断じて、近江の六角定頼(晴元の岳父)殿が味方に参じてくれた。後は佞臣(ねいしん)三好政長と、茨木長隆・伊丹親興など少数の摂津国衆と、周辺の大名が与力してくれそうだ。

だが歴史を知る俺には、圧倒的に不利に見える。そもそもの原因は、三好政長の悪行なのだ。

だがその悪行を、晴元伯父上が裏で糸を引いていたとしたら、長慶との関係修復は難しいだろう。伯母さんだけでも、甲斐にお迎えできないだろうか?

10月28日に三好長慶は摂津越水城を出陣し、三好政長の拠点である河内十七箇所へ進軍した。三好政長の子・正勝は、十七箇所の拠点、摂津欠郡の榎並城に籠城していたが、長慶は榎並城を包囲してしまう。

河内十七箇所は足利幕府のご領所なのだが、もともとは長慶の父・三好元長が代官を務めていたのだ。だがそれを三好元長の自害後に、三好政長が代官に任命されてしまったのだ。

長慶は自分に代官職を返してくれるように、繰り返し主君の細川晴元伯父さんや足利幕府に願い出るも、全く聞き届けられなかった。ついには長慶と政長の合戦にまで発展した、三好一族にとって因縁の場所だ。

長慶にとっては、長年の悲願であった、河内十七箇所奪還の好機でもあったのだ!

年が明けても、長慶の榎並城を包囲は続いていた。三好政長は息子の正勝を助けたいだろうが、摂津国衆の大半を敵に回してしまったため、山城から摂津への侵攻ができない。

しかたなくうかいして、丹波を通り桑田郡から摂津北部へ侵功し、猪名川流域を南下して川辺郡の塩川城(一庫城、山下城)で兵を集めた。

1月24日に南の池田城を攻撃した上で、伊丹親興の援軍を得て、河内十七箇所へ迫っていると報告が入っている。





2月1日躑躅城義信郭の義信私室:義信視点

困った事が起こった!

麦焼酎の価格崩壊が始まってしまった!

当初は高アルコール濃度で一般的な濁酒(どぶろく)に比べ澄んでいる事や、今上帝や将軍・管領が愛飲しているブランド価値など、もろもろの要因で超高級品だった。濁酒の平均価格1合7文に比べて、驚くべき高価格で売れていた。

だがここにきて、高価格で商売になると踏んだ博多商人が、明から黄酒(紹興酒)を輸入しだしたのだ!

さらにこちらにも原因があるのだが、食料の生産量と輸入量が大幅に増えたので、焼酎の生産量の大幅に増やしたのだ。

これにもともと、大消費地である畿内への長距離輸送が困難であった所に、晴元伯父上と長慶の合戦が始まり、畿内への輸送がさらに厳しくなった。

だが価格維持と販売量の増大、どちらを優先するかと言えば、販売量の増大だ!

今の甲斐と伊奈の繁栄は、商人を筆頭とする人の往来量が支えている。彼らは少しでも無駄を省くべく、甲斐伊那で売る商品を運んで来て、麦焼酎・椎茸・生糸・白絹・生薬・漢方薬を買って帰る。このサイクルが、甲斐伊那に住む民の生活水準を上げ、俺への信頼と忠誠心育成の一助となっている。

だからと言って、価格維持を完全放棄したわけではない。この時代は古酒が尊ばれ、高価格要因になる。だから無理な安売りはせず、酒を寝かせる事にした。

同時に永田徳本先生と開発した各種薬酒、特に養生酒を天皇・公卿に送り、ブランド維持を図る。

当然こうなると甕の回転率が悪くなるし、管理する杜氏や配下の増員も必要に成る。まあこれで甕作りなどの関連産業も増えるし、難民に与える仕事が増えるので、悪いことばかりじゃない。俺が設定した卸売下限設定価格は1合22文、これは堅持したい!





2月7日躑躅城の大広間:義信視点

甲斐に大雪が降った!

とてもとても寒い!

ここは味噌おでんの出番である。まずは、干椎茸・スルメ・干蛸・鹿スジ・猪スジで出汁を取る。塩分多めの赤味噌を入れ、豆腐・厚揚げ・がんもどき・大根・鴨肉・人参・里芋など入れた。大鍋を幾つも大広間に持ち込み、城にいる家族皆で鍋を囲んだ。

信玄父ちゃん・三条母ちゃん・二郎改め三条実信・三郎だけでなく、諏訪御寮人や根津御寮人などの側室衆、四郎を始めとする庶弟たち、姉小路信綱などの城に残る叔父さんたち、千代宮丸などの従兄弟(いとこ)たち。

できる限り同じ釜の飯を喰い、家族一門の結束を固めて、敵に乗ずるすきを与えないようにする!

だが何より心配なのは、大雪の雪解け水が水害を起こさないかだ!

このような一家団欒の場こそ、甲斐の危機を家族が共有する場所だ。信玄と俺が、雪解け水対策を食事をしながら皆の前で話し合う、何気ない日常の生活の中で、信玄と俺への信頼と尊敬を築いていく!





3月25日躑躅城義信郭の義信私室:義信視点

京の三条屋敷から、畿内の続報を伝える伝書鳩が戻った。それによると三好長慶は、三好正勝の籠る榎並城と、細川晴賢(細川政賢の孫)がいる堀城の連携を絶つため、中間に有る柴島城を猛攻したそうだ。救援に来た三好政長軍を討ち破り撃退、柴島城も落城させたそうだ。

だが榎並城は堅牢で、兵糧も豊富だったようで、今も籠城を続けている。だが俺の知る歴史では、三好長慶は畿内の覇者になっている。バタフライ効果で歴史がどう変化するかは読めないが、伯母さんを三条屋敷に匿うように手配しておこう。

いや、三条屋敷を放棄して、晴元伯父上や三条公頼お爺ちゃんと一緒に、甲斐か伊那に下向することも考慮してもらおう。





4月1日深夜信濃佐久郡根津領:神田将監視点

やるしかない、そのために御屋形様の元を離れて、村上義清殿に合力しているのだから。甲斐の鬼畜に尻尾を振る根津の民ならば、罪悪感も少なくなる。まずは根津の村々を襲い、食料を奪う!

犬甘城では兵糧も軍資金も尽き掛けている。境目の村々から徴発する、3割の年貢でぎりぎり維持しているが、雑兵の逃亡が後を絶たない。逃げて義信の下で足軽をする方が遥かに待遇がよく、死ぬ心配も少ないのだから。

3割の年貢を維持確保するために、犬甘城に残った騎馬隊が、連日夜襲を繰り返している。忠誠心溢れる赤沢経智親子が指揮してくれているから、安心して後を任せることができた。佐久や甲斐に殴り込んでの略奪が成功する様なら、彼らもこちらに呼ぼう。

村上義清殿も、甲斐の鬼畜の反撃を想定して、準備万端整えられておられる。信玄、覚悟しておれ!

「掛かれ!」

配下の騎馬隊は、50騎6隊に分かれて村々を素早く襲撃する。反撃の危険を少しでも減らすべく、焼き討ちや強姦は禁止して、食料と銭、値打のある物だけを奪わせた。

今日から連日連夜、俺の騎馬隊と村上義清の馬廻り衆が、信玄支配領域の村々を略奪するのだ!





4月10日砥石城外:第3者視点

信玄は連日連夜の略奪の知らせを受けて、譜代衆に動員を掛けた。

すぐに7000兵が集まり、信玄は村上義清討伐に出陣する。信玄は村上義清の出城・砥石城を攻撃しようとするも、砥石城は小城ながら東西は崖に囲まれ、攻め口は砥石のような南西の崖しかないという堅城であった。武田軍は最初に、蟻の這出る隙もない様に、砥石城を包囲した。

砥石城には、楽巌寺雅方・布下仁兵衛・矢沢頼綱以下500兵が籠城していた。城兵の半数は、信玄が悪行の限りを尽くした志賀城にいた兵だった。そのため武田への恨みが強く、調略がすこぶる困難で、我攻めをするしかない。





4月10日犬甘城外:義信視点

俺は信玄の命で深志城(松本城)に入り、兵馬を整えて出陣し、犬甘城を囲んだ。信玄の村上義清討伐を好機ととらえ、小笠原長時が犬甘城を討って出る事を防ぐためだ。だが歴史を知る俺は、心中複雑だった。

武田軍の敗戦は避けたいが、バタフライ効果と歴史改変は怖い。そもそも武田の信濃侵攻は、順調すぎるのではないか?

今の時期に村上義清と戦うのは、俺の知る歴史の流れに比べて、あまりにも早すぎるのではないか?





4月14日砥石城外:第3者視点

城攻めの最中に、大地震が起きてしまった!

武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が、無理をして砥石のような崖を登り、総攻撃をしている時に大地震が発生した!


この大地震の影響で、崖を登っていた部隊は全滅してしまった!

天の時にあらずと判断した信玄は、しかたなく撤退を開始した。だがタイミングが最悪で、全くの偶然なのだが、援軍に出て来た村上義清軍2000兵が、武田軍を追撃する形に成ってしまった。

武田軍は大損害を出したものの、上田原の戦いの撤退戦での教訓を生かした。武田信繁・武田信廉・工藤祐長(内藤昌秀)・馬場信房(信春)が、横槍を入れたり果敢に反撃するなど、反撃を繰り返しながら撤退する事で、何とか武田軍の崩壊を防いで逃げ切った。

この地震は甲斐信濃だけでなく、関東一帯に大損害を与えた。北条領内では壊滅する村もあり、村民全てが村を放棄して移住するところさえあった。北条はこの損害を立て直すため、関東管領・上杉憲政追討の手を緩めることになった。

神田将監の騎馬隊と村上義清の馬廻り衆は、武田方の国衆が支配する村々へ、連日連夜略奪襲撃を続けた。

これに対して信玄は、再度の出陣を決意した。損耗した軍を立て直すべく、義信から上納された永楽銭を湯水の様に投入した。しかし農繁期に入り、軍の再編には時間が掛かってしまった。

そのため、農耕に関係しない騎士で編成された、神田将監騎馬隊と村上義清馬廻り衆の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)は続いた。

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