転生武田義信

克全

第22話天文16年(1547年)9歳:伝書鳩

天文16年(1547年)9歳:伝書鳩

信玄は正月の宴で、家臣団の統制と治安の規定を盛り込んだ、甲州法度を発布(はっぷ)した。国衆や地侍は、領内の荒地を開墾されて、勢力内にライバルが入り込む可能性があることを恐れたようだ。必死で荒地開墾をしたのだが、中には財力や人力の問題で、自力で開墾できない国衆・地侍もいる。彼らは隣地の国衆・地侍に開墾されるくらいなら、守護である武田本家、特に殺戮を好まないと思われている俺に、荒地開墾依頼をするようになっていった。

それはそうと、正月の宴は俺が差配することになった。当然のように費用は俺の負担になったが、費用を惜しまず、飛びっきり酒精の強い焼酎と、用意できる限りの料理を提供した。だがその宴は、下戸の俺には耐えがたい狂気の宴会だった。だがそのお陰で、ハレの日は焼酎の原酒で祝うと言う習慣が、武田家家臣団の中に育(はぐく)まれた。

正月の宴以降、定期的に国衆の当主もしくは当主に準ずる者が、俺の元に来て焼酎原酒を購入していくようになった。酒好き、特にアル中は、俺に従うか俺を殺して蔵元ごと奪う以外に、原酒を手に入れる方法はない。これからは一層身辺に気を付けよう。

俺が気にしている各地勢力の動きが活発だ!

2月20日に三好長慶軍は摂津の原田城を落城させた。

3月22日に三好長慶軍は摂津の三宅城を落城させた。

3月29日には先代将軍足利義晴が、京都郊外北東の勝軍地蔵山城に入って、細川氏綱・遊佐連合軍を支援したが、大勢(たいせい)には影響なかった。

4月に近江守護・六角定頼からも援軍を得た細川晴元伯父上・三好方が、圧倒的に有利な勢力を築き上げた。

俺は、毎月初に御機嫌伺(ごきげんうかがい)の品を、天皇(すめらみこと)、三条公頼お爺様、細川晴元伯父上、曽祖父の勧修寺尚顕殿、大伯父の勧修寺尹豊殿、足利義藤将軍に送っている。

送る品は焼酎が1升、干椎茸と蜂蜜がそれぞれ1合、白絹1反に漢方薬などを組み合わせて送った。予算は1家に1カ月で10貫文程度に抑えているが、遠く甲斐から毎月送り届ける行為に感謝、いや、感動すら覚えているようだ。こんな戦乱の時代だし、無数の関所越えて届けられるのだから。ま、俺は全ての関所を無視してるけどね。

届ける荷役が背負うのは、献上品1つ、例えば焼酎1升と、自分の歩合も含む売り物の漢方薬100貫文分と、遠距離連絡用の伝書鳩(でんしょばと)だ。京に着いたら、京の動静を書き記した紙縒(こよ)りを、伝書鳩の足に付けた竹製の筒に入れて送る。通信連絡速度を上げるために導入した伝書鳩は、ようやく軌道にのった。

荷役は山中を隠れて移動するのだが、山中には猟師・木地師・炭焼き・漆取りなどの拠点が無数に点在している。その全てが俺の味方の拠点だ。荷役毎(にやくごと)に決められた拠点に寄りながら目的地に行くのだが、伝書鳩はその練度によって定められた距離から放たれる。

最も訓練が行き届いた伝書鳩は、京の三条屋敷と新たに堺に設けた商家から、躑躅ヶ崎館にまで戻れるようになった。今後も大量の伝書鳩を育成訓練していくことにしたが、同時に敵の伝書鳩対策として、鷹匠の大量採用と育成訓練を行った。

話が逸(そ)れてしまったが、俺は御機嫌伺先(ごきげぬかがいさき)に、戦乱を憂い天皇(すめらみこと)と朝廷の衰微(すいび)を憂える文面を書き記し、何時でも細川家の管領争いの仲介の労をとると伝えた。9歳児の俺がそのような文を送るなど噴飯物(ふんぱんもの)だが、相手は信玄の意向だと勝手に推測してくれる。さて、何時頃に停戦協定が結ばれるか?

6月25日に、細川晴元伯父上方の三好軍は芥川山城と池田城を無血開城させ、摂津国内における勢力を巻き返された。

7月に三好軍は、丹波から山城の畑に入って一帯を焼き払ってしまった。民が苦しまなければいいのだが、そうはいかないだろう。戦乱は民に塗炭(とたん)の苦しみを与えるから、戦に成る前に自然と降伏させるくらいの、圧倒的な戦力を整える様に努力しよう。

7月19日に前将軍足利義晴は、自分の城を焼いて近江坂本にまで逃走したしようだ。細川晴元伯父上は、ついに京を回復されたようだ。伯母上はご無事であろうか?

7月21日に三好長慶が、細川氏綱・遊佐長教らに舎利寺の戦いで勝利したようだ。天下の帰趨(きすう)を決める一大決戦、舎利寺の戦いの戦況は以下の様であったそうだ。

三好軍は一時の劣勢を挽回して、畿内をほぼ制圧した。残る勢力は、河内高屋城に拠(よ)る細川氏綱・遊佐連合軍だけであった。

7月21日、三好軍は河内十七箇所の榎並城に集結し、各隊が高屋城を攻撃をするため南下していった。この行動を察知した細川氏綱・遊佐連合軍は、戦闘準備を整えて高屋城を出立すると、正覚寺城を経由して北上した。そしてついに舎利寺周辺で両軍が遭遇激突した!

応仁の乱以降、鉄砲伝来するまでの間では畿内最大といわれる、舎利寺の戦いがとうとう開始されたのだ!

矢戦から始まって総懸かりに移り、三好方の畠山尚誠と松浦興信の手勢が一番手として進み、数時間にも及ぶ槍合わせは、近年にない大合戦であったそうだ。

結果としては、遊佐軍が精兵400人の討ち死を出して敗走した。ただ三好方も、50兵以上が討ち取られたそうだ。この日の大合戦で活躍したのは、松浦勢と畠山尚誠勢であったそうだ。

この大合戦の状況を考えると、京では最低でも2万の兵を整えないと勝利は得られない。誰を味方にし、誰を敵にするのかで兵数配備は変わるが、甲斐信濃の本国を完全に留守にするわけにはいかない。そんなことをすれば、近隣国に攻め込まれてしまう。万が一周辺勢力が連合した場合でも、互角に戦える兵力を甲斐信濃に残さなければならない。

しかも京を制圧する事ができたら、これまで味方であったはずの同盟者も、嫉妬(しっと)と欲に駆られて甲斐信濃に攻め込んでくる可能性が高い。史実の浅井の裏切りや、我が武田の今川攻め、何よりも本能寺の変を考えれば、一瞬のすきも許されない。

領内で守備兵力を素早く移動させ、敵の侵攻を迎撃できるように、急いで連絡網と軍用道を整備しなければならない。まずは成功した連絡用伝書鳩の育成訓練だが、霞網(かすみあみ)で大量の鳩を捕獲しよう。明日にでも山狩りだ。

後は軍用道整備なのだが、この時代の戦国大名は攻め込まれることを恐れ、街道の整備を行わなかったらしい。信玄を説得できるだろうか?

信玄を説得するには、四方に強敵に囲まれている状況を改善しなければならない。甲駿相三国同盟を余りに早く締結すると、歴史が変わり過ぎるか?

そうだ、俺の領地から木曽に向かう攻撃路だけ整備願を出すか?

飯田から街道整備して、妻籠城・三留野東山城・三留野愛宕山城・須原城を何時でも攻め取れるようにする手だが?

いずれ裏切る木曾義昌の親父・木曾義康が当主だよな?

どうにも好きになれない、殺すか?

高遠から街道を整備して、素早く上之段城・小丸山城・火燃山狼煙台・木曾福島城を攻め取れるようにする手。どちらにしても、木曽の国衆の動静を探らなければならないな。

結局信玄に相談することにした、独断専行は絶対駄目だ!

そんな事をすれば、切腹街道を歩む事になりかねない。わずかでも信玄に疑念を抱かれないようにする事が、生き残るための最優先事項だ!

信玄の判断は時期尚早であった。理由は以下の4点だった

1:伊奈を完全に制圧していない事。
2:伊那を制圧していないから、三河口から今川軍を引き入れる国衆が現れる可能性がある事。
3:木曽飛騨を制圧すには、俺独自の兵が少ない事。
4:直近に信玄が軍事行動を予定している事。

そこで相談の結果、天竜川を下り領地を拡大する策をとった。

1つ目の目標は、 叛意を隠している国衆や地侍を掃討戦だ。
高遠城から鈴岡城の間の、今宮城・飯田城・愛宕城・切石城・桜山城・虚空蔵山城・知久平城などを持つ国衆を討滅もしくは完全臣従させる。要は城と領地を明け渡させて、信濃攻略の拠点である、南熊井城・北熊井城・赤木南城・赤木北城・横山城・八間長者城の守備兵とすることだ。

2つ目の目標は、未だ臣従しない茶臼山城・西平城・小野郷城・久米ヶ城・駒場城・伊豆木城・甲賀館・吉岡城・根羽砦を攻略することだ。この場合も攻略後は城と領地を明け渡させて、南熊井城・北熊井城・赤木南城・赤木北城・横山城・八間長者城の守備兵とする。

3つ目の目標は、今川との国境線を確定することだ。
今川との国境線に、青崩城・熊伏山城・袴越城・観音山城・天ケ森城などの城砦群を築城し、今川の侵攻を未然に防ぐ。国境城砦群の築城は、信玄が今川義元に事前交渉してくれる事になった。

今の俺は、南熊井城・北熊井城・赤木南城・赤木北城・横山城・八間長者城に守備兵として駐屯している兵が使えない。だから新たに臣従してくれた、伊奈郡の国衆と地侍を動員する準備をした。同時に秘蔵の小人少年兵を動員する準備も行った。

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