転生武田義信

克全

第21話河原者の諜報力の秘密

躑躅ヶ崎館の小人郭・修学館(しゅうがっかん):善信視点

「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん、いんしがし・・・・・」

「ねがいましては、1なり3なり9なり・・・・・」

難民から小人に取り立てた子供たちが、机を並べて一心に勉強している。中庭では、武芸組が槍術刀術の修練(しゅうれん)に励(はげ)んでいる。5年後10年後には、産まれながらの武士以上の武士に成ってくれるとありがたい。

そんな修学館で、俺は小机に向かって戦略書を書いていた。前世の記憶が消えないように、重要と思えることは繰り返し思い出し、今後の戦略とその戦略を予定した根拠を書き示している。万が一前世の記憶が消えてしまった場合にも、いま書き残している戦略書を、荒唐無稽(こうとうむけい)と無視することのないように、できる限りの説明を加えている。

俺の最大の力は、山窩(さんか)・河原者(かわらもの)の力、彼らの信頼と言うか忠誠心だ。彼らは主に、素破兼荷役として働いてくれている。その諜報力と商売力なくして今の俺はないし、今後の戦略も成立しない。

ではなぜ彼ら諜報能力が、他の忍びより桁外(けたはず)れに突出しているのか。それは、道々の者同士の横の繋がりがあるからで、俺が必要としている情報が、ほぼ無制限に手に入るからだ。俺と争っている国衆や守護、いや寺社や公家に繋がっている道々の者ですら、俺のためなら情報を流してくれる。

戦国の国衆や守護、兵力を持つ寺社にとって、武具甲冑を作る材料の皮革は必要不可欠なものなのだ。だが皮を鞣(なめ)す技術は河原者の独占技術であり、鞣(なめ)しに必要の大量な水は河原に住まなければ手に入らない。全ての皮革職人は、戦力を持つ武力集団との交流があり、城砦への出入りは頻繁(ひんぱん)に行われているのだ。だから彼らを味方につければ、全ての武力集団の情報が手に入るのだ。

この時代であっても、牛馬に関しては極力食べないようにしていた。他の獣は食料不足で食べる事に成っても、農業に役立つ牛馬は先ずは売って銭に換え、その銭で食料を購入していた。では、寿命や事故で死んだ牛馬の遺骸(いがい)は、どのようにして処分するのか?

俺の知っている江戸時代の史実では、徳川幕府領の農民が、死んだ農耕用牛馬を捨てる場所が決められてた。その後で、その近くに住む河原者が、埋葬(まいそう)した牛馬を掘り出し皮革製品を作っていた。

実際にあった江戸時代の訴訟の中には、牛馬を捨てた農民が、埋葬(まいそう)した牛馬を河原者が掘り起こしたことを、幕府に訴えたものがある。だが江戸幕府は、埋葬した牛馬の掘り起こしは、河原者の権利と農民の訴えを却下している。その影響か俺の前世でも、全国津々浦々ぜんこくつつうらうらに、等間隔で河原者の里がある。

江戸時代は鎖国政策だったから、海外から皮革製品の輸入が限られたため、有限な皮を全て活用するための政策だったのだろう。

俺はこの政策が、徳川幕府の独自の案ではないと考えていた。昔からあった習慣を、江戸幕府が法制化したものだと考えていたが、やはりその通りであった。全国津々浦々の河原に住む皮革職人が牛馬を買い取り、革製品を作り武力集団に売って暮らしていた。だからこそ、彼らを味方につければ、全国津々浦々の武力集団の情報が手に入るのだ。

もう一つは、穢(けが)れと祟(たたり)りの思想だ。俺の知る史実では、平安時代の貴族や僧侶は、遺体に触れると穢(けが)れると考え、埋葬(まいそう)などの全てを出入りの河原者にさせていた。僧侶の癖(くせ)に、ご遺体に触ると穢(けが)れると考えていたとは、性根が腐ってやがる!

ある貴族などは、伊勢行幸の随行が決まっていたため、病の家人女房を布団ごと河原者に河原に運ばせ、そこで死ぬまで放置したそうだ。屋敷内で死人が出れば穢(けが)れたことになり、伊勢随行ができなくなるからだそうだ。嫌な思想だよ!

戦国の世だから、当たり前に人が人を殺し、飢饉(ききん)の時には人肉さえ食べられている。戦って討ち取った敵将の首を対面したり、物頭や諸奉行クラスの騎馬武者の首を検分する場合も、討ち取った側の武士婦女子が、首の血や泥を洗い、髪を整え、死に化粧を施(ほどこ)していた。

武家や庶民階級では、穢(けが)れ思想も払拭(ふっしょく)されかけているが、高位で由緒ある所はまだ残っているようだし、河原者の出入りも続いている。だから河原者たちを味方につければ、由緒正しい場所の情報も手に入るのだ。

ではなぜ彼らは俺を支持し忠誠を示してくれるのか、それは俺が偶然彼らを助けたからだ。祖母の教えと不完全な良心回路を持つ俺は、飢え死にする民を見殺しする事ができず、差別意識を持たずに河原者たちと接し、共に狩猟漁労を行った事が端緒(たんしょ)だった。

続々と集まる難民を全て受け入れ、先頭に立って食料集めを行った事で、河原者たちの信頼が厚くなっていった。さらには難民たちが開墾した土地を彼らの物にするため、信玄と命懸の交渉を行い土地を勝ち取った事で信頼が増した。

次に河原者や難民全員を小人に取り立て、彼らの身分を確立した。技術のある者・手柄を立てた者を、他の領地では考えられない大抜擢(だいばってき)で、武士にさえ取り立てたのだ。そしてついには、攻め落として手に入れた城の城代に修験者を取り立て、河原者たちだけが住む城を創りだした。

河原者たちが土地を持ち、城を預(あず)かり、城内が自分たちの里になったのだ。形の上では、城代であり預かっただけだ。だが俺の敵に味方して叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)せば、自分たちの城地として奪える可能性もある。俺がその危険性を知ったうえで、それでも彼らを信頼して城を預けたことで、信頼が絶対的忠誠心になったのだろう。

俺はその後も増え続ける難民のために、手に入れた城や放棄された城を修築して、河原者たちだけの城、故郷を創りだした。これが決定打だったのだろう、最初は甲斐近隣だけの情報しか集まらなかったが、今では全国津々浦々の情報が簡単に手に入る。武田と敵対する勢力と長年繋がりがあり、敵対勢力に義理がある河原者も、武田家ではなく俺になら、極秘情報を流してくれるようになった。

俺は手柄を立てた河原者たちを取り立て、差別せず公平に立身出世させる。そんな俺への純粋な好意もあるのだろうが、実利としても、俺の勢力下に入れば河原ではなく城内に住めるのだ。能力があれば、例え河原者出身でも、土地を持ち城代に成りあがる事も可能なのだ。しかも城代の中には、武士としての手柄ではなく、職人としての能力で選ばれた者もいる。実際焼酎の杜氏などは、全員が郭の主に成ってる。

彼らの忠誠心をこれからも維持するための戦略を、記憶が消えた場合に備えて書き記しておこう。





要害山城の焼酎郭:善信視点

俺は、杜氏とその一族に加え、弟子やその家族にも、城の一角に独立した郭を与えた。そこはすぐに、焼酎郭と呼ばれるようになった。杜氏たちに与えた郭は、城内でも最重要な場所の一つで、一番水利の良い郭だ。そのため、焼酎郭から移動させられた者たちの中には、不満を抱く者もいたようだが、ハレの日に完成した焼酎が下されたことで、その不満は解消された。焼酎郭には、杜氏屋敷・酒蔵・家人屋敷・弟子屋敷が建ち並んでいる。

「茂作、焼酎造りは順調か?」

「これは若殿さま、わざわざ来られるなど、何のご用でございますか?」

「焼酎造りを見たかったのと、分家を立てられる一門がいるのか聞きたくてな」

「申し訳ありません、まだ独り立ちして杜氏を務められる者は居りません」

「一人前の者が現れたら言ってくれ、武将格に取り立てて別の城に郭を与えよう」

「有り難いお言葉、1日でも早く独り立ちできる者を育てます」

「それと、焼酎造りには水が大切と聞く、我や御屋形様の直領ならどこでも構わん。良き水のある所を言ってくれれば、そこに新たな城を建て、お前たちに郭を与えよう」

「有り難き幸せ、今暇を見ては探しておりますので、見つかり次第お知らせに上がります。それと焼酎を水増しした偽物が、近隣諸国に出回っておると噂で聞きましたが?」

「気にするな、茂作が造った焼酎の酒精が強く、水増ししても売れるからだ」

「焼酎の評判が落ちませんでしょうか?」

「確かにその恐れはあるが、そうなればなったで、原酒を手に入れようと思えば甲斐に赴(おもむ)いて直接買うか、我に使者を出して送ってくれと頭を下げねば買えなくなる。それはそれで儂の力に成る」

「愚かなことを申しました、お忘れください」

「気にするな、これからも美味い焼酎を造ってくれ」

「は、お任せ下さい」

さて、史実でも江戸時代には、日本酒の水増しは当たり前に行われていたと読んだ事がある。灘(なだ)を出た酒は、江戸っ子が飲むまでに3倍にまで薄められたそうだ。各流通段階で、少しずつ水増ししたと読んだ事がある。でなければ幾ら江戸っ子が大酒飲みとは言っても、斗酒も飲めるはずがない。俺の知る時代の日本酒アルコール濃度は15度位だが、江戸時代に庶民が飲んでいた日本酒は5度位だったようだ。それを考慮すれば、焼酎は4倍に水増しして半値売っても倍儲かる、やらない訳がない





躑躅ヶ崎館の善信私室:善信視点

さて、徐々に入って来た戦況を整理すると。

細川晴元伯父上の元に援軍として四国から来た三好勢は、安宅冬康・三好実休・十河一存などが率いる軍船500船、兵2万の大軍であったそうだ。

河越夜戦で勝利した北条氏康の元には、次々と臣従する者が現れているようだ。

滝山城の大石定久は、主君上杉憲政を見限って北条氏康に臣従したそうだ。その後、氏康の三男・氏照(7歳)を娘・比佐の婿養子として迎え入れ、滝山城と武蔵守護代の座を氏照に譲り、入道して心月斎道俊と号し戸倉城に隠居したと知らせが入った。

天神山城を守っていた藤田重利も、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となったと知らせが入った。藤田重利も氏康の四男・乙千代丸(氏邦)に娘(大福御前)を娶らせ、藤田氏の家督を譲るそうだ。そして自らは用土城に居城を移し、苗字を用土に改めると噂もある。

はてさて、俺はどう動くべきか?

乾坤一擲の転換点は決めているが、下手に動いたら史実通りの動きが無くなってしまうかもしれない。まだ今のところは、歴史に大きな違いは出ていないようだが・・・・・

コメント

コメントを書く

「歴史」の人気作品

書籍化作品