転生武田義信

克全

第16話甲駿相三国同盟の萌芽

躑躅ヶ崎館:善信私室

母上様の心情を慮(おもんばか)って、三条家への二郎と三郎の養子を提案したが、よくよく話を聞くと、母上の姉が管領細川晴元に嫁いでいる!

俺の提案て不味(まず)くない?

不味(まず)いよね、何で簡単に賛成するんだよ、母ちゃん父ちゃん!

何だ、子供は女の子ばかりなのか?

去年に三条のお爺様に産まれた三女も女の子か、年下の叔母(おば)ね!

やっぱり爺ちゃんも跡継ぎは欲しいよな、精力剤送るか!

1番の問題は、前世で俺の大叔父(おおおじ)が近衛騎兵隊の出身で、子供の頃に皇室アルバムを正座して見せられていたことだ。尊敬する大叔父から受け継いだ帝への敬慕(けいぼ)、帝に万が一の事があってはならない!

三条家を帝のためにどう活用するかが大切で、経済力がついた今の俺なら、帝のためにやれることがあるはずだ!

そう考えると、やはり三条家は支配下に置くべきだ。多少(たしょう)阿漕(あこぎ)な手を使ってでも、三条家乗っ取りはやり遂げて見せる。

「若殿、木綿の種が手に入りました」

飛影が報告に来てくれた、配下が三河で木綿の種を手に入れたそうだ。

「でかした、種を増やすために時期を見て蒔(まこ)こう。だが本格的な栽培は、武田家が海を手に入れてからだ」

「なぜでございますか? なぜ今から本格的に栽培されないのですか?」

「木綿栽培には多くの肥料が必要なんだ。今の甲斐で木綿を栽培すれば、それでなくても不足している食料不足に拍車がかかり、毎年飢饉に成ってしまう。のちのちのため、種を増やすための栽培は、食料生産量を考慮しながら行う。だが本作的な商業作物としての栽培は、武田家が海を手に入れてからだ。海が手に入れば、鰯(いわし)を木綿の肥料にできる」

「承りました、浅慮(せんりょ)なことを申してしまいました、お許しください」

「気にするな、何でも言ってくれなければ、我の思い込みや間違いを正すことができない。これからも何でも言ってくれ、それが我のためであり、何よりも民のためだ」

「承りました、肝に銘じます」





躑躅ヶ崎館:信玄私室

「将軍家への工作は、はかどっておりますか?」

「上手くいきそうだ、敵対している細川晴元の義弟である俺が、献金を打診したのが嬉しいようだ」

今日もまた、俺の料理を美味そうに貪(むさぼ)りながら返事をしてくれた。

ちなみに今日の料理は。

1:手長海老(てながえび)の唐揚(からあ)げ
手長海老・小麦粉・塩

2:独活(うど)の酢味噌和(すみそあ)え
独活・酢・豆味噌

3:豆腐田楽(とうふでんがく)
金気の唐辛子味噌
木気の梅肉
火気の蓬(よもぎ)味噌
豆腐・唐辛子・米味噌・梅肉・蓬

4:鯰(なまず)味噌汁
鯰・麦味噌・葱

5:鹿肉の塩焼き
鹿もも肉・塩

6:玄米飯

7:糠漬け大根の唐煎(からい)り

8:林檎餡(りんごあん)の粟餅(あわもち)
干林檎を水飴で煮たタレを粟餅に掛けたもの

木気:梅肉・酢
火気:蓬・独活(うど)
土気:玄米・手長海老・粟
金気:大根・唐辛子
水気:味噌・塩

「ありがとうございます。晴元伯父上は怒っておられませんか?」

「合従連衡(がっしょうれんこう)は戦国の常じゃ、気にすることはない」

「念のため、合戦続きの晴元伯父上は、刀傷用の油薬を贈ります」

俺は新しい薬を考えたのだ。薬効の検証はできていないが、馬油と熊油に蓬(よもぎ)や千振(せんぶり)や南天(なんてん)の葉などの成分を含ませ、刀傷用の薬として試作した。油脂は貴重な食用で、石鹸作りなどには使わないようしてきたが、命のかかる刀傷用の油薬に使うなら仕方がない。食料生産も順調なので、銭儲けために生産販売することを決断した。

そうそう、この時代は蚤(のみ)や虱(しらみ)に噛まれるのは当たり前で、躑躅ヶ崎館にも当たり前に蚤(のみ)と虱(しらみ)が沸(わ)いていた。だが俺には我慢ならなかったので、千振液(せんぶりえき)をそこら中に撒(ま)いて殺虫した。もちろん洗髪にも千振液(せんぶりえき)を使用したし、肌着も千振液で染めて蚤や虱が近寄らないように予防している。

肝心の三条公頼お爺様は、越前守護の朝倉孝景を頼って越前国に下向していたが、7月には京都に戻っていたようだ。越前下向中の6月には右大臣を辞退しているが、早く左大臣・太政大臣に成ってもらわないと困る。





天文14年(1545年)7月、今川義元が武田信玄に援軍を求めてきた。義元が、北条氏に占拠されたままの河東を奪還すべく、軍事行動を開始したのだ。

義元は武田家による仲介以外にも、北条氏との和睦の道をいろいろ探っていた。京都より聖護院門跡道増の下向を請うて北条氏康との交渉を行ったのだが、このときは氏康が難色を示し不調に終わってしまった。

そのため義元は、引き続き武田家を仲介に和睦を模索(もさく)しつつも、道増の帰洛(きらく)後ただちに軍事行動を起こした。義元は、北関東において北条方と抗争していた山内上杉氏の上杉憲政に、北条氏の挟み撃ち作戦を持ちかけ同盟を結んだのだ。

7月25日、義元は富士川を越え、善得寺に布陣した。信玄は俺・信繁叔父・板垣信方に国内を任せて義元と対面、対北条の作戦を話し合った。

8月22日、信玄と義元が駿河から河東に侵攻した。氏康率いる北条軍は、駿河に急行してこれに応戦してきた。この状況を見て山内上杉・上杉憲政は、扇谷上杉・上杉朝定や古河公方・足利晴氏らと連合し、8万の大軍で河越城を包囲した。信玄と義元は、関東勢と同時に軍事行動に出たことで、北条軍の兵力を分断することに成功したのだ。前回の第1次河東の乱とは逆に、北条家を挟み撃ちする事に成功したのだ。

9月5日には、武田軍が今川軍に合流した。この連合軍の攻撃に押された北条軍は、吉原城を放棄(ほうき)し三島に退却した。

9月16日には、北条家に見捨てられた吉原城が開城した。そのままの勢いで今川軍は三島まで攻め入り、北条幻庵の守る長久保城を包囲したので、今井狐橋などで合戦となった。関東では、山内・扇谷連合の大軍に武蔵国河越城を包囲され、北条氏康は窮地(きゅうち)に陥(おちい)った。

進退窮(しんたいきわ)まった北条氏康は、信玄に仲介を頼んで来た。信玄は義元と氏康との交渉を仲介し、10月25日に河東の地を今川家に返還するという条件で和睦させた。

11月5日、今川家重臣・太原雪斎を交えて誓詞(せいし)を交し合った後、北条幻庵は長久保城を今川義元に明け渡した。挟撃の片方を治めた北条氏康は、河越城の戦いに打って出ることとなった。

ここで関東勢と最後まで協力して、北条家を滅ぼす手もあったのだが、それでは俺が考える最重要歴史転換合戦が起こらなくなる。だがらここは史実通りに成るよう、信玄には何の献策(けんさく)もせずに傍観(ぼうかん)していた。

いろいろと迷いはあったのだが、稼ぎに稼いだ銭で足軽を大量雇用する手は放棄(ほうき)した。これをやると、足軽が大量動員されている畿内動乱が、史実と違ってしまう可能性がある。1番の問題は尾張の織田信長だ、甲斐信濃で大量の足軽を雇えば、信長の兵農分離が破綻(はたん)するかもしれない。

無差別に足軽を雇うと、足軽の扶持相場が高騰するかもしれない。そんな事になると、信長は一族内の抗争に負けてしまう可能性がある。そんなことは断じてあってはならない!

その一方で、多少の武将は引き抜いても大丈夫と判断した。信長ほどの才能なら、引き抜かれた武将以外の有能な者を抜擢(ばってき)するだろう。そこで素破のネットワークを利用して、滝川一益を知行100石で召し抱えた。いろんな説があるが、上手くいけば一族の前田慶次が付いてくるかもしれない。

9月に三河では、松平広忠が三河安祥城を攻めるも敗(やぶ)れた。これによって、松平氏の弱体化は決定的なものとなった。

10月に越後では、黒田秀忠が守護代・長尾晴景の弟、景康・景房らを殺害して謀反を起こした。長尾為景の後を継いだ晴景が病弱で統率力がなかったため、それを好機ととらえ独立しようと画策したようだ。しかし、晴景のもう一人の弟・長尾景虎の命令を受けた村山与七郎が、黒田秀忠の居城黒滝城を攻め降伏させた。長尾景虎とは、後の上杉謙信のことだ。

細川晴元伯父さんは、山城国で細川高国派の上野元治・元全父子と、丹波国の内藤国貞らが挙兵したのを、三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧したようだ。三好長慶が内藤国貞の世木城を落としたそうだ。

あまり足利将軍家だけに献金するのは考え物だな。伯父上にも、もっと精力剤と傷薬を送っておこう。伯母上との間に嫡男が誕生すればいいのだ。そうなれば、第18代細川京兆家当主で足利幕府の管領が、俺の従弟(いとこ)となる。

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