徳川慶勝、黒船を討つ

克全

第33話

一八四七年も徳川慶恕の差配する交易は順調だった。
前年の純利益は千四百八十五万両にもなっていた。
その内の五百万両は、前年同様将軍家に内緒で福山城や尾張城に蓄えられており、今までの利益と併せれば、千五百万両もの軍資金が蓄えられている。
一方幕府も、大法馬金百個五百十九万両分を再鋳造できたうえに、五百万両分の銀を備蓄する事に成功していた。

一方南蛮帆船の建造にも成功していた。
排水量五十トンの快速丸と排水量百トンの迅速丸を、安定して建造できるようになった尾張派諸藩は、次に蒸気船と大型南蛮帆船の建造に挑戦していた。
九ポンド砲を二十四門搭載し排水量五百トン前後の六等艦フリゲートと、三十二ポンド砲を三十八門搭載した、排水量千トン前後の五等フリゲートの建造に、果敢に挑戦していた。
いやそれどころか、排水量百五十トンの蒸気船試作建造まで行っていた。

試作される蒸気船は外輪船とクリュー・プロペラの二種類だった。
蘭国を通じて頻繁に情報収集をしていた徳川慶恕は、一八四五年三月に英国海軍が行ったスクリュープロペラと外輪の性能比較を知っていたのだ。
だが、同時に、今の自分達には外輪船の建造もクリュー・プロペラ船の建造も難しいので、とりあえず両方の試作建造に挑戦した。
だがそもそもの蒸気機関の能力が低すぎた。

だが蘭国の技師の力を借りることで、大砲の鋳造に大成功を収めていた。
長砲身の砲と共に、短砲身のカロネード砲も完成させていた。
沿岸防衛に砲台に配備する六十八ポンドは、千八百メートルの射程距離を誇る長砲身砲を配備した。

一方艦艇に配備する砲は、射程距離が三百六十メートルしかないものの、砲身が短く肉薄で、重量が抑えられるカロネード砲とされていた。
三十二ポンド砲の比較では、長砲身砲の自重が二・五トンあるのに対して、カロネード砲の自重は〇・八トンで、積載重量の限られる船上ではとても重要だった。
砲身長は長砲身砲が三メートルなのに対して、カロネード砲は一・二メートルで、狭い船上で使うのには取り回しが便利だった。

そして喜ばしい事に、松平義建に八男の銈之助が誕生したのだ。
会津松平家に養嗣子に入った七男の銈之允より十一歳も年の離れた弟だった。
長男の徳川慶恕のからは、二十七歳も年下の弟であり、新たに生まれた四男を含めれば、四人の甥たちよりも年下だった。

だが問題も徐々に露呈していた。
水戸徳川家との対立が激しくなっていた。
将軍徳川家慶と幕閣が、讃岐国高松藩の養嗣子に徳川慶恕の庶長子・源太郎を強く推薦したが、水戸藩徳川家第九代藩主・徳川斉昭の頑強な反対があって、成し遂げられなかった。
同じ水戸系の血が流れてはいても、尊王よりも将軍を優先する徳川慶恕を、徳川斉昭は忌み嫌っていた。

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