魔法武士・種子島時堯

克全

第266話石見国有力国衆敵味方表

『大内義隆の味方として月山富田城攻めに参戦し、義隆が敗戦した後も籠城して尼子軍に抵抗していた』
上杉五郎丸(15??~1554)
居城:鹿足郡五郎丸城

岡本大蔵大夫(15??~15??)
石見国豪族衆
主君:大内義隆

岡本正長(15??~15??)
居城:三ッ子山城
主君:福屋家

「岡本家臣団」
古城主:石川九郎

「大内義隆家臣」
久利清太兵衛(15??~15??)
石見国豪族衆
主君:大内義隆

久利左馬介(15??~15??)
石見国豪族衆
主君:大内義隆

山田氏助(15??~15??)
居城:見島福戸城
官途:長門守
萩の見島地頭、元々見島を収めていた長富氏を滅ぼし地頭となる。
異国との貿易の中間地点として島は潤った。

都治兼行(15??~1521?)
居城:今井城
主君:大内義隆
官途:駿河守
1521年、尼子経久勢の攻撃を受け、都治兼行と嫡男都治興行は籠城した。下都治の拠点である今井城には、都治兼行と嫡男都治興行以下の兄弟が守っていた。尼子経久の襲来に備えて福屋正兼の家臣も派遣された。都治兼行は自刃し、都治隆行は福屋正兼のもとに逃れた。後に尼子経久と福屋正兼の和睦が結ばれた結果、自刃に追い込まれ、都治家は断絶した。

都治興行(15??~1521?)

都治隆行(15??~15??)
父親:都治興行
官途:三河守

都野経良(15??~15??)
主君:大内義隆
通称:刑部少輔
二宮多鳩神社社家

都野家頼(15??~1597)
父親:都野経良

都野保通(15??~15??)
居城:大和田城
通称:将監。

都野就勝(15??~1592)
居城:那賀郡都野城
1592年「文禄の役」に参陣し討死した。

出羽祐盛(15??~15??)
居城:邑智郡二ッ山城
官途:民部大輔
石見国人衆
出羽450貫を隣接する高橋盛光に横領されていた。
1529年、毛利元就によって高橋盛光が滅ぼされ、所領を還付されたのを期に毛利元就に属した。

出羽元祐(15??~15??)
父親:出羽祐盛
官途:民部大輔

羽根弾正忠(15??~15??)
石見国豪族衆
主君:大内義隆

羽根泰次(15??~15??)
居城:羽根館
官途:遠江守

周布武兼(15??~15??)
居城:周布鳶巣城
大内家に属して朝鮮交易で富をなした国人衆周布家。
1524年、益田系豪族衆を纏めて仲裁するなど外交力に目を見張るものがあった。
1540年、尼子晴久が周布井野村へ攻めて来た時は石見豪族を一致団結させ自身は周布の地を案内し撃退した。

周布元兼(15??~1578)
父親:周布武兼
官途:左近将監
正室:冷泉隆豊の娘

周布晴氏(15??~1570)
父親:周布武兼の次男

「周布元兼家臣」
羽原道兼(15??~15??)
主君:周布元兼

三宅俊行(15??~15??)
居城:三宅城
主君:周布家
官途:備中守

三隅興兼(15??~1587)
居城:那賀郡三隅高城
父親:三隅興信
1524年、福屋正兼と戦った。
1526年、尼子経久が石見国侵攻を本格化させると、尼子家の威嚇に絶えきれず尼子家の麾下に治まる。
1538年、益田尹兼と戦った。
1539年、石見国へ侵略して来た尼子晴久と同盟して戦うが大敗した。

三隅隆兼(1510~1562)
父親:三隅興兼
1540年、尼子晴久が周布武兼を攻めたときは、三隅隆兼は大内方へ組し、西石見の豪族は一致団結しこの尼子勢を撃退した。三隅隆兼の家臣三浦兼実は尼子勢へ切り込み苅紬口において快勝し尼子勢の士気を大きく削ぎ三隅勢の武勇を轟かした。

三隅隆繁(15??~15??)
父親:三隅隆兼の次男

三隅隆信(15??~15??)
父親:三隅隆兼の三男
正室:室は益田尹兼の娘
三隅隆繁、三隅国定が益田家へ悪意を抱いていたが三隅隆信は益田藤兼と義兄弟にあるので、父三隅隆兼と共に益田家へ友好的に接した。父三隅隆兼が亡くなると、三隅家中に反益田家の勢力が強くなり三隅高城から逐電した。

三隅国定(15??~1570)
父親:三隅隆兼の四男
通称:悪五郎
父・三隅興兼と対立して、諸国を放浪し尼子勝久や大内輝弘などと手を組み暗躍した。福屋隆兼に謀叛後の斡旋を進めた。周布元兼の従兄周布晴氏に謀叛の手筈を整えさせるなど智将ぶりを発揮した。

「三隅家臣」
当木四郎左衛門(15??~15??)
居城:風呂の木砦
主君:三隅家

岡田則彰(15??~1551)
居城:西山水来城
主君:三隅興兼
官途:右京亮

小野盛吉(15??~15??)
主君:三隅隆繁

小野行則(15??~15??)
主君:三隅隆繁

須懸忠朝(15??~15??)
居城:四ッ山城
主君:三隅家
1538年、須懸忠朝は、益田家と三隅家との紛争調停を大内義隆が行った際、四ッ山城を三隅家の領有とし、城主として須懸忠朝が入城した。

寺井信之(15??~15??)
居城:三隅茶臼山城
主君:三隅隆繁

寺井重義(15??~15??)
主君:寺井信之

野田兼誠(15??~15??)
主君:三隅興信
1505年、三浦兼春と共に益田方の宇治城に猛攻を加え攻略した。

肥塚忠久(15??~15??)
主君:三隅興信
1515年、益田領から撤退する三隅勢の殿を務める、負傷しながらもどうにか撤退した。
1515年、古和城を守っていたが益田尹兼勢の草野鎮正に攻められ落城し敗北を喫する。

肥塚正久(15??~15??)
主君:三隅興信
1499年、益田尹兼勢を三子山で撃退した。

三浦兼実(15??~15??)
主君:三隅兼隆
1540年「第一次井野村の戦い」で活躍した。

三浦兼寧(15??~15??)
主君:三隅兼隆
1555年「第二次井野村の戦い」に攻めてきた毛利元就勢に一番槍として切り込み、益田藤兼から感状を貰った。

三浦兼春(15??~15??)
主君:三隅興信
父親:三浦兼貞
1505年、益田方の宇治城に猛攻を加え攻め落とした。

三浦兼実(15??~15??)
主君:三隅隆兼
1540年「第一次井野村の戦い」では、尼子晴久の攻撃を受けたがこの時は大内家方へ組した為、西石豪族衆は一致団結しこの尼子晴久勢を撃退した。三隅隆兼家臣三浦兼実は尼子晴久勢へ切り込み苅紬口において快勝し、尼子晴久勢の士気を大きく削ぎ三隅家の武勇を轟かした。

斎藤信貞(15??~1546)
居城:登代板井川城
主君:三隅興信
三隅興信に武勇を称えられ邑智20町歩を領した。

斎藤信周(15??~1571)
父親:斎藤信貞

斎藤信城(15??~1581)
父親:斎藤信周
父斎藤信周の病没後は益田家に属した。

吉見頼興(1460~1532)
居城:鹿足郡津和野三本松城
官途:式部少輔
通称:彦三郎
正室:内藤弘矩の娘
氏族:清和源氏範頼流石見吉見氏
1482年「大内山口事件」で兄吉見信頼が陶弘護を謀殺して自らも内藤弘矩によって謀殺されたため、吉見家の家督を相続した。本来ならば吉見家は改易されてもおかしくなかったが、大内政弘が「応仁の乱」で動揺する領国の安定を最優先したため、吉見家は所領の減封を受けただけで済んだ。吉見頼興は大内家の信頼回復のため、大内義興に属して山陰地方の各地を転戦した。
1511年、大内義興が足利義稙を擁して上洛した際も「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。吉見頼興は、嫡男吉見頼隆の室に大内義興の娘を娶ることを許され、さらに没収されていた吉賀郷などの所領を取り戻した。

吉見隆頼(15??~1540)
父親:吉見頼興
正室:大内義興娘・大宮姫
別名:頼隆
1532年、父吉見頼興の死を受けて家督を相続した。

東光院周信(15??~15??)
父親:吉見頼興の四男
1540年、吉見隆頼が家督を相続のした際は、一部重臣に推される有能な人物であった。
吉見正頼が津和野不在時は吉見正頼に変わり外交や内政を指示した。
津和野鷲原八幡宮別当及び、東光院住職となる。

吉見正頼(1513~1588)
主君:大内義興→義隆
父親:吉見頼興の五男
官途:出羽守
通称:式部四郎
正室:大内義興の娘(大宮姫)
1540年、津和野興源寺の僧となって周鷹と称していたが、兄吉見頼隆の病没により還俗して吉見家の家督を相続した。
兄の後家・大内義興の娘(大宮姫)を正室に迎える

吉見範弘(15??~1553)
吉見家枝連衆
官途:備前守
1553年、陶晴賢勢が石見国に侵攻した際、波多野滋信、波多野秀信親子と共に長門国嘉年城に籠城して、陶晴賢勢を迎撃するも、討死した。

「吉見家枝連」
中屋雅楽頭(15??~15??)
居城:青原尾中山城
官途:雅楽頭
中屋家は豪族衆あったが、吉見家の勢力が日原青原に進出すると、吉見家と婚姻関係を結び枝連族として益田家との境界線を守った。

「吉見頼興家臣」
安部家貞(15??~15??)
主君:吉見頼興
1532年、萩常念寺を建立した。

安部元貞(15??~15??)
父親:安部家貞
吉見正頼の信任厚く、萩指月要害の守護を命じられた。

「吉見正頼家臣」
横田頼助(15??~15??)
居城:吉賀郡柿木能美山城
官途:越後守
別名:吉見越後守

横田頼綱(15??~15??)
父親:横田頼助
通称:与四郎

横田壱岐守(15??~15??)
居城:鹿足郡政国城
横田家枝連衆。

安氏稔(1505~1581)
主君:吉見正頼
官途:下総守

安吉金(15??~15??)
主君:吉見家
通称:新左衛門尉

伊藤実信(15??~1569)
主君:吉見家
官途:左近亮

大庭景治(15??~15??)
居城:鹿足郡中山城
主君:吉見家臣
官途:将監

小野政福(15??~15??)
主君:吉見家
官途:内蔵助
小野鉱山を再開発し吉見家の財政に多大な貢献をした。

上領頼兼(1485~1591)
主君:吉見頼興
官途:淡路守
吉見家に属して、安芸国、出雲国で戦功を挙げる。

上領頼規(15??~15??)
父親:上領頼兼
通称:九郎左衛門
正室:室は吉見正頼の娘。

上領頼長(15??~15??)
父親:上領頼兼の次男
官途:筑前守

上領頼平(15??~15??)
父親:上領頼兼の三男
官途:治部少輔

上領頼武(1553~1569)
父親:上領頼規

上領頼定(15??~15??)
父親:上領頼規の次男

上領頼康(15??~15??)
主君:吉見家
父親:上領頼規の三男
官途:肥後守

上領直之(15??~15??)
主君:吉見家
父親:上領頼規の四男
通称:清右衛門尉

上領頼綱(15??~15??)
主君:吉見家
父親:下瀬頼郷の次男
養父:上領頼明の養子
官途:玄蕃頭

下瀬頼郷(1496~1585)
居城:日原下瀬山城
主君:吉見正頼
官途:丹後守
通称:弥六左衛門
別名:脇本弥六左衛門
数々の謀略を用いて益田兼任勢を翻弄した策士。

下瀬頼定(1531~1614)
父親:下瀬頼郷
官途:加賀守
通称:弥六左衛門
弓の名手

水津清家(15??~15??)
主君:吉見正頼

水津頼勝(15??~16??)
主君:吉見家
通称:半右衛門

竹内弘時(15??~1554)
教条:吉賀郡萩尾城
主君:吉見正頼
官途:豊後守
吉見家五家老のひとり

竹内頼継(15??~15??)
主君:吉見隆頼
1540年、吉見隆頼が陶光長と刺し違えると、友倉長元と共に急ぎ津和野に戻り、この事を伝えた。

友倉長元(15??~15??)
主君:吉見隆頼
官途:因幡守
吉見隆頼が山口で死去した時、その知らせを津和野にもって帰った。

中津江重美(15??~15??)
主君:吉見家

長野竜頼(15??~15??)
居城:長野御嶽城
官途:下野守

長野頼勝(15??~15??)
主君:吉見家
通称:右近大夫
1583年、長門阿武郡の上徳佐八幡宮を再建した。

長野頼幸(15??~15??)
主君:吉見家
通称:惣右衛門
正室:上領頼規の娘。

永久元祐(15??~15??)
主君:吉見家
父親:近藤清友の次男
永久家の養子に入った。毛利隆元の娘が吉見広頼の元へ嫁ぐ時、これに従い、吉見家に仕えた。

長嶺政信(15??~15??)
主君:吉見家
官途:河内守
吉見家改易後、松岡頼利、後藤行友らと共に毛利輝元に仕えた。

野村就好(15??~15??)
主君:吉見家
吉見家没落後は毛利輝元に仕え、社務代を勤めた。

野村之次(15??~15??)
主君:吉見家
通称:又左衛門
馬廻衆のひとり。防長移封の際に禄を離れた。

野村頼春(15??~15??)
主君:吉見家

羽隅壱岐守(15??~15??)
居城:鹿足郡木部谷城
主君:吉見隆頼
吉見家五家老に次ぐ地位の武将で吉見隆頼亡き後も活躍した。

広田重秀(15??~15??)
主君:吉見家

松岡頼利(15??~15??)
主君:吉見家
通称:三郎兵衛

村上長喜(1596~1666)
主君:吉見家
通称:安右衛門尉

阿武政直(15??~15??)
主君:吉見正頼
通称:右衛門尉

後藤行友(15??~15??)
主君:吉見家
通称:七左衛門

横山正重(15??~16??)
主君:吉見家

吉賀興光(15??~15??)
居城:吉賀郡陣賀城
主君:吉見家
官途:掃部助

吉賀元貞(15??~15??)
主君:吉見家

吉賀頼貞(15??~15??)
主君:吉見家
通称:惣左衛門

矢部頼次(15??~16??)
主君:吉見広頼
吉見広頼、吉見元頼、吉見広長の三代に仕えた。

山県長茂(15??~16??)
主君:石見吉川家

福屋正兼(15??~15??)
居城:那賀郡本明乙明城
1522年、尼子経久が本明城を攻撃、福屋正兼は本明城を落ち延びて細腰城に籠城した。
1524年、福屋正兼は三隅兼隆と永年抗争を続けていたが、大内義興と益田尹兼の仲介で和睦した。
1542年、大内義隆が尼子晴久の月山富田城を攻撃した際は、大内義隆方に参陣した。

福屋隆兼(15??~15??)
父親:福屋正兼
正室:吉川国経の娘。

福屋彦太郎 (15??~15??)
父親:福屋隆兼

福屋隆任(15??~1561)
父親:福屋隆兼の次男
通称:次郎

福屋宮丸(15??~15??)
父親:福屋隆兼の三男

福屋兼通(15??~15??)
居城:丸原城
通称:民部大輔。

「福屋隆兼家臣」
桑原光共(15??~15??)
主君:福屋隆兼
官途:伊賀守

中村康之(15??~15??)
居城:邑智郡源太ヶ城
主君:福屋隆兼

重富兼雄(15??~15??)
居城:重富城
主君:福屋隆兼

「重富兼雄家臣」
杭ヶ打彦右衛門(15??~1561)
居城:邑智郡杭ヶ打城
主君:重富兼雄
杭ヶ打彦右衛門は、福屋隆兼の家老重富兼雄の家臣。

杭ヶ打家臣団
土床城主:土床庄右衛門。

井下朝兼(15??~15??)
主君:福屋隆兼
通称:新兵衛尉




『大内義隆の配下、毛利元就の家臣として尼子に対して籠城していた』
口羽通良(1512~1582)
居城:邑智郡琵琶甲城
官途:下野守
父親:志道元良の次男
兄弟:志道広良
正室:福原広俊の娘
子供:広通、春良、元可、宗立
井原元良室、宍戸元続継室
毛利家四天王のひとり
家系は大江姓毛利家の庶家にあたる坂家枝連衆志道家の傍流。
石見国邑智郡口羽を本拠に定め、琵琶甲城を居城として、在名を取り口羽と称した。毛利元就に古くから仕えて、主に山陰地方の制圧やその統治、吉川元春の補佐などを任された。毛利元就の病没後は行政手腕に優れていたため毛利輝元を補佐して、吉川元春や小早川隆景、福原貞俊と共に毛利家四人衆と称された。

口羽春良(15??~15??)
父親:口羽通良

杉森氏久(15??~1571)
居城:美濃郡馬高嶽城

「杉森氏久家臣」
永見新左衛門(15??~1571)
主君:杉森氏久

松永左衛門(15??~1571)
主君:杉森氏久





『尼子経久に忠誠を誓い、月山富田城攻めの後で大内義隆に味方した石見国衆の城を攻める。種子島家が侵攻して来て籠城をするも、守り切れずに降伏』
多胡忠重(15??~15??)
居城:邑智郡余勢城
主君:尼子経久
1508年、多胡忠重は、尼子経久が願主となって出雲大社の造営に着手したとき、普請奉行となった。
1520年、出雲大社が落成した。
1540年、毛利元就の吉田郡山城攻めに尼子晴久に属して参陣した。
娘は尼子国久の室で、尼子誠久の母。

多胡辰敬(1494~1562)
父親:多胡忠重
通称:左衛門
1540年「吉田郡山の戦い」に参陣した。

多胡正国(15??~15??)
父親:多胡忠重の次男

「多胡正国家臣」
小林房辰(15??~15??)
居城:邑智郡牛之市城
主君:多胡正国

別所宗晴(15??~15??)
主君:多胡正国
通称:小三郎





『大内義隆が月山富田城の戦いに敗北したため、尼子家に寝返ったが、種子島家の侵攻により抵抗する事無く開城、城地を没収された』
吉田興種(15??~1569)
主君:大内義隆
官途:若狭守
通称:左兵衛尉
1533年、大森銀山奉行に任じられた。
1537年、尼子晴久の攻撃を受け大森銀山を奪われた。
1539年、再奪取した。
1540年、尼子家方の小笠原長隆が再奪還した。

益田宗兼(15??~1544)
居城:美濃郡益田七尾城
父親:益田貞兼
官途:治部少輔
通称:孫次郎
正室:益田貞兼の娘
氏族:藤姓道兼流御神本氏族益田氏
1483年、父益田貞兼の隠居により益田家の家督を相続した。石見国西部の領土を巡って吉見頼興や三隅興兼と争った。
1497年、大内義興に属して「少弐政資討伐」に参陣した。
1508年、大内義興が足利義稙を擁立して上洛すると嫡男益田尹兼と共に上洛、在京して外様の有力国人となった。
1511年「船岡山の戦い」にも参陣して戦功を挙げた。
1518年、大内義興の帰国に伴い石見国へ帰還、崇観寺塔頭医光寺を建立した。

益田尹兼(15??~1565)
父親:益田宗兼
官途:越中守
通称:又次郎
1508年、大内義興の上洛ではに父益田宗兼と共に上洛して在京した。
1511年「船岡山の戦い」に参陣して戦功を挙げた。
1516年、三隅興兼が石見国西部への攻撃を開始した為、父益田宗兼に先立って帰国した。
1526年、出雲から攻めてきた尼子経久を迎え撃った。
1527年、安芸国鳥子城を毛利元就、天野興定と共に攻撃した。
1530年、吉見頼興と高津川の支流匹見川の水域に関する協定を結んだ。
1544年、嫡男益田藤兼に益田家の家督を譲り、それを後見した。

益田藤兼(1529~1597)
主君:大内義隆
父親:益田尹兼
官途:治部大輔
通称:次郎
正室:杉興重の娘
継室:石津経頼の娘(礼仏)
側室:内藤隆春女

匹見益田兼任(15??~15??)
居城:小松尾城
父親:益田宗兼の次男
官途:三河守

赤雁益田兼綱(15??~15??)
居城:赤雁日向山城
父親:益田兼治

赤雁益田兼順(15??~1559)
父親:益田兼綱
官途:伊豆守
1511年、赤雁益田家の家督を相続した。
1530年、益田家の奉公を務め、三隅家との合戦で度々、先陣を務めた。
1548年2月28日には木部東伝寺を建設、開祖となった。

益田兼勝(15??~15??)
父親:益田貞兼の四男
兄・益田宗兼の軍師
1518年の三隅胴明寺周辺の合戦で大活躍、三隅信興の戦力をほぼ壊滅寸前まで追い込むも状況判断を円滑に行ない戦場から離脱した。

須佐益田兼貴(15??~15??)
居城:長門国須佐磯城
父親:益田兼勝
通称:刑部大輔
益田藤兼、益田元祥の二代につかえた軍師。

神護院全忠(15??~15??)
父親:神護院徳陽

神護院祐陽(15??~15??)
父親:益田宗兼の三男
養父:神護院全忠の養子
益田藤兼の祐筆、様々な手紙や策書を書いた。益田藤兼の命令で吉見正頼に偽文書を偽造した。

「益田元祥家臣」
益田大谷章道(15??~15??)
居城:大谷城ヶ辻城
主君:益田宗兼
1511年、益田宗兼に属して「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。

「益田藤兼家臣」
乙吉刑部丞(15??~15??)
主君:益田藤兼
益田藤兼の外交を支えた。

勝達貞経(15??~15??)
滝蔵山勝達寺の僧
主君:益田藤兼の祐筆
勝達寺の炎上の折、益田藤兼に再建して貰い信服した。

黒谷宗秀(15??~15??)
居城:黒周原城
主君:益田宗兼
1511年「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。

黒谷満善(15??~15??)
父親:黒谷宗秀の次男
次男ながら兄喜島宗勝の思惑で黒谷家の家督を相続した。
1556年、吉見正頼の侵攻で兄喜島宗勝は防衛したが、黒谷満善は吉見正頼へ降ったと言う、そこで苦肉の策として兄は益田藤兼に仕えた。黒谷満善は吉見正頼に仕える事で両者の衝突を意図的に防いだ。
1586年、中山八幡宮を建てた。

喜島宗勝(15??~15??)
居城:美濃郡下黒谷城
父親:黒谷宗秀
官途:備後守
主君:益田元祥
父・黒谷宗秀から家督相続を協議した結果、黒谷氏を弟・満善に譲り、自分は独立し難攻不落の桂平横山城に移った
1540年8月に尼子晴久の軍を周布の高櫓坂で撃退した事で名を轟かす

草野鎮正(1479~1526)
主君:益田家
通称:新五郎
仙道郷の神主
1515年「古和城の戦い」では、三隅興信勢を散々に蹴散し古和城を攻略する戦功を挙げた。

佐田兼為(15??~15??)
主君:益田元祥
1586年「九州征伐」で戦功を挙げた。

品川員永(1514~15??)
居城:久城普月城
父親:品川信定
主君:益田藤兼
1517年、父品川信定は安芸武田元繁の家臣で、毛利元就勢と戦い討死した。

城一正賀(1498~1570)
父親:城一兼正

城一正久(1520~1603)
父親:城一正賀
通称:二良左衛門
病弱の為に家督を一城正熙に譲った。

城一正熙
父親:城一正賀の次男

澄川秀成(15??~15??)
主君:益田宗兼
那賀郡匹見澄川土居に住む土豪衆。
1499年、吉見領の須川村へ侵略して敵対している三谷一統の三名を弓で射殺した。

澄川助賢(15??~15??)
澄川秀成の枝連衆
匹見澄川に住む豪族衆

寺戸資清(15??~1569)
居城:那賀郡澄川叶松城
主君:益田藤兼
官途:和泉守
澄川叶松城2,500石を領した。
陶晴賢に加担して吉見家の津和野城攻撃に参陣した。
益田藤兼に属して数々の合戦に参陣して戦功を挙げた。
その後、毛利元就に属して対尼子家戦で戦功を挙げた。
益田藤兼から200貫の領地を澄川に与えられた。

寺戸兼勝(15??~15??)
父親:益田藤兼
通称:大学介
匹見寺戸家の枝連衆
居城:長門国須佐水海懸城

寺戸左近(15??~15??)
主君:須佐益田兼貴

遠田兼相(15??~15??)
居城:遠田嶽城
官途:治部丞
1493年、益田貞兼に属して大内義興勢に入り戦功を挙げた。

豊原貞秋(15??~15??)
主君:益田藤兼
益田家の別動隊を率い、三隅の仙人丘に陣を張った。

豊田宗勝(15??~15??)
居城:豊田二本松城
父親:豊田宗堯
官途:常陸介
父豊田宗堯は益田貞兼に攻められ討死した。
1528年、豊田宗勝は益田家に完全服従し城を明け渡した。

永安兼政(15??~1559)
居城:永安矢掛城
官途:大和守
益田家の氏族三隅家の庶家
益田惣領家をはじめ、支族である三隅、福屋、周布、永安を含めた枝連族は「石見四家」の源流をなすようになった。益田藤兼から離反繰り返す庶家が多い中、永安兼政は益田藤兼に対し恭順の態度を取り続けた。

永安兼徳(15??~15??)
主君:永安兼政
通称:式部少輔
「井野村の戦い」で、毛利家勢と戦い狩倉新右衛門を討取った。永安兼徳は益田藤兼の信頼の厚い武士であった。

渡辺左内(15??~15??)
居城:城ヶ浦城
主君:益田元祥
益田家の命を受け憎んでいた大谷主水を江の川の渡船場へ誘い出し謀殺した。

渡辺宗入(15??~1561)
居城:烏帽子山砦城
主君:益田兼順
通称:隼人

渡辺小三郎(15??~15??)
主君:益田尹兼
1515年、三隅興信との戦いで戦功を挙げた。三隅家勢の大賀与四郎を討取った。

領家基恒(15??~1550)
居城:虫追大嶽城
父親:領家基行
主君:益田家に属して軍師を務めた。

領家恒定(15??~15??)
父親:領家基恒

原屋盛実(15??~1608)
主君:益田藤兼
通称:神左衛門

原新右衛門(15??~15??)
主君:須佐益田兼貴

藤井宗貞(1524~1570)
主君:益田藤兼
父親:藤井宗友
1570年、益田藤兼勢に従って「三隅壊滅戦」に参陣したが討死した。

安田清茂(15??~1570)
主君:益田藤兼
益田家の別働隊を率い三隅国定と一騎打ちを行ない討取られた。

黒谷宗秀(15??~15??)
居城:黒周原城
主君:益田宗兼
1511年「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。

黒谷満善(15??~15??)
父親:黒谷宗秀の次男
次男ながら兄喜島宗勝の思惑で黒谷家の家督を相続した。

高津頼満(15??~15??)
居城:高津小城
主君:益田藤兼

本城常光(1513~1562)
主君:尼子経久→大内義隆→尼子晴久→尼子義久→毛利元就
居城:邑智郡山吹城
父親:高橋久光の三男
子供:隆光、春政、隆任、義重、春光、松田兵部少輔室
官途:越中守
1540年、尼子晴久が「吉田郡山城の戦い」で、毛利元就との戦いに敗れると、大内義隆に属した。

本城隆光(15??~1562)
父親:本城常光

本城春政(15??~15??)
父親:本城常光次男

佐波誠連(1474~1536)
居城:邑智郡青杉城
父親:佐波秀連
1517年、毛利元就が武田元繁と戦った「有田の戦い」、大森銀山をめぐる大内義興と尼子経久の戦いに参陣した。さらに毛利元就 の台頭と高橋久光の滅亡、文字通り目まぐるしく変転する乱世を生きていた。尼子経久の石見進出が繰り返されるようになると、 居城を滝原に移して、酒谷泉山城、片山登矢ヶ丸城などの支城を構えた。尼子経久は小笠原長徳と結び大森銀山に侵攻した。

佐波隆連(15??~1551)
父親:佐波誠連
1540年、佐波隆連は尼子晴久に属して、吉田郡山城主毛利元就を攻撃したが、その後は大内義隆に属した。

佐波興連(15??~15??)
居城:邑智郡八幡城
父親:佐波秀連
官途:越後守

佐波隆秀(1523~1592)
主君:大内義隆
父親:佐波興連
官途:常陸介

佐波広忠(15??~15??)
居城:唐樋城
官途:越後守
佐波隆連の枝連衆。

高畠遠言(15??~15??)
居城:邑智郡高畑城
主君:佐波家

「佐波家臣団」
笠松城主:吾郷武利
奥山城主:奥山
氏永城主:景山
浄土山城主:大草
高畑城主:高畠遠言

富永元保(15??~15??)
居城:要害山城
主君:尼子家から毛利家
官途:山城守。

大石治郎兵衛(15??~15??)
居城:大石城
1522年、大石治郎兵衛がこの地を領した。

大草永春(15??~1559)
居城:美濃郡出来円大草城

田川源八(15??~1570)
居城:四ッ山城

鳥井伊豆守(15??~15??)
居城:鹿足郡抜舞城

福富晴方(15??~15??)
居城:四ッ地蔵城
通称:七郎右衛門




『石見銀山を確保する時に、既に種子島家の侵攻され城地を失ったいた国衆』
石見小笠原長徳(15??~1547)
主君:大内義隆→尼子晴久
居城:邑智郡川本温湯城
父親:小笠原長隆
1542年 銀山を奪回した。石見小笠原家は清和源で阿波小笠原長房の男、小笠原長親が石見国邑智郡温湯城を領したことにはじまる。

刺賀長信(15??~1558)
居城:安濃郡刺賀城
小笠原長隆の四男
官途:治部少輔

石見小笠原長雄(1520~1569)
父親:石見小笠原長徳
官途:弾正少弼
通称:弥治郎
正室:吉川元経の娘

祖式友兼(15??~15??)
居城:邑智郡祖式城
父親:小笠原兼長の次男
官途:式部少輔
別名:祖式識見兼
小笠原兼長の次男であるが、祖式に居住して、祖式姓を称した。

「小笠原家臣」
寺本伊賀守(15??~15??)
居城:邑智郡金刀比羅山城
主君:小笠原家
1557年、井原の雲井城攻略に成功した吉川元春は、そのまま中野から日和侵攻を試みました。この時、日和城を守っていた寺本伊賀守は果敢に戦い、吉川元春勢の日和侵攻を食い止めたが後に降伏した。

戦国武将録・ウィキベキ・世界帝王辞典・旧国石高表を参考参照

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