魔法武士・種子島時堯

克全

第264話出雲国有力国衆敵味方表

『尼子家と最後まで忠誠を尽し月山富田城に籠城する国衆』
「尼子家」
尼子経久(1458~1541)
居城:能義郡月山富田城
父親:尼子清定
官途:伊予守
通称:又四郎
正室:吉川経基の娘
1478年、尼子家の家督を相続し出雲国守護代職を務めた。
1484年、社地押領等の罪により罷免されて追放処分を受けた。
1486年、「月山富田城の戦い」では、守護代職の塩冶掃部介を討取り月山富田城を奪回した。
1488年、三沢為忠、赤穴久清、三刀屋頼扶らの出雲国人衆を帰属させた。
1524年、「大永の五月崩れ」では、伯耆国に侵攻して倉吉打吹城主山名澄之、羽衣石城主南条宗勝らを駆逐して次男の尼子国久を羽衣石城主にを任じた。
1518年、「磨石城の戦い」では、桜井宗的勢と戦いで継嗣の尼子政久が討死した。
1532年、「佐陀城の戦い」で謀叛を起こした塩冶興久を討取った。
1537年、孫の尼子晴久に尼子家の家督を譲り後見役を務めた。

尼子久幸(15??~1541)
父親:尼子清定の次男
官途:下野守
沈毅にして勇猛の名将
兄の尼子経久は継嗣尼子政久の討死後、尼子久幸に家督を譲ろうとしたがこれを固辞した。
1540年、「第一次吉田郡山城の戦い」では、兄尼子経久とともに出兵に反対したが、最終的には新宮党を率いて参陣した。
1541年、大内義隆勢の反撃を受け撤退戦で討死した。

尼子政久(1488~1518)
父親:尼子経久の嫡男
官途:民部少輔
通称:又四郎
正室:山名兵庫頭の娘
別名:花実相応の大将
勇武に優れた武将。
1518年、「磨石城の戦い」では、謀反を起こした桜井宗的を討伐するため出陣した。長陣に疲れる兵士を労わるため、夜陰に紛れて笛を奏でていたが、桜井宗的勢に射殺された。尼子国久は磨石城を強襲させて城兵を虐殺させた。

尼子国久(1492~1554)
父親:尼子経久の次男
官途:紀伊守
通称:孫四郎
子供:誠久・豊久・敬久・又四郎・与四郎・女(尼子晴久正室)・女(大河原貞尚室)
女(宍道経慶室)・女(湯原信綱室)・数久(天粧寿心大和尚)
新宮党の目頭
1524年、「羽衣石城の戦い」後、羽衣石城は尼子国久が守備した。
1540年、「第一次吉田郡山城の戦い」に尼子国久が出撃した隙をついて南条宗勝は奪還に動いたが撃退した。
1544年、備後国布野に侵攻して毛利元就勢の福原貞俊、児玉就忠を撃破した。
1544年、美作国に侵攻して医王山城などを攻落した。
1546年、「橋津川の戦い」では、嫡男尼子豊久を喪うものの山名澄之勢を撃破、武田常信を討取り、南条宗勝を追うなどの戦功を挙げた。尼子晴久とは意見の対立をさせた。

尼子興久(1497~1534)
父親:尼子経久の三男
官途:宮内大輔
通称:彦四郎
勇武に優れ、父尼子経久とともに出雲各地を転戦した。
出雲国塩冶に9,000石を領した。
1534年、亀井秀綱を介して父尼子経久へ700貫の所領増加を申し出るが断られ、亀井秀綱及び尼子経久に対して謀叛を起こしたが敗北、備後国甲山城主山内直通を頼って落延びる途中で自刃した。

尼子晴久(1514~1560)
父親:尼子政久
通称:三郎四郎
官途:修理大夫
正室:尼子国久の娘
1537年、「磨石城の戦い」で父尼子政久が討死したため、祖父尼子経久の後見を受け尼子家の家督を相続した。
1537年、「播磨置塩城の戦い」では、赤松晴政を播磨三木城に追い落した。
1539年、「播磨英賀城の戦い」で三木通明を降伏に追い込んだ。
1541年、「吉田郡山城の戦い」では、大内義隆勢の反撃を受け、湯原宗綱、三沢為幸、尼子久幸らが討死して大敗した。
1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢を撃退して大内義房を討取る戦功を挙げた。
1548年、隠岐国、出雲国、伯耆国、因幡国、美作国、備前国、備中国、備後国の八ヶ国の守護職に任ぜられた。


尼子義久(1541~1610)
父親:尼子晴久
官途:右衛門督
通称:三郎四郎

尼子倫久15??~1623)
父親:尼子晴久の次男
通称:九郎四郎

尼子秀久(15??~1609)
父親:尼子晴久の三男

尼子誠久(15??~1554)
父親:尼子国久
官途:式部大輔
通称:孫四郎
正室:室は多賀宗隆の娘
新宮党を率いて山陰地方各地を転戦した。

尼子敬久(15??~1554)
父親:尼子国久の次男
官途:左衛門太夫
新宮党
父尼子国久とともに山陰地方各地を転戦し、尼子経久の勢力拡大に貢献した。

尼子豊久(15??~1546)
父親:尼子国久の三男
官途:兵部太夫
新宮党
父尼子国久とともに山陰地方各地を転戦し、尼子経久の勢力拡大に貢献した。
1546年、「橋津川の戦い」で山名澄之勢と戦い討死した。

尼子氏久(15??~1554)
父親:尼子誠久
官途:刑部少輔

尼子吉久(15??~1554)
父親:尼子誠久の次男
通称:神四郎

尼子常久(15??~1554)
父親:尼子誠久の三男
通称:善四郎

尼子勝久(1553~1578)
父親:尼子誠久の五男
通称:孫四郎

尼子通久(15??~1578)
父親:尼子誠久の六男

「尼子経久家臣」
朝山利綱(15??~15??)】
主君:尼子経久
養父:朝山重綱の養子
居城:八束郡佐太城

朝山綱忠(15??~15??)
父親:朝山利綱
官途:越前守
父・朝山利綱の跡を継ぎ出雲太神社の宮司職を務めた。

朝山貞綱(15??~1562)
父親:朝山綱忠

宇山久秀(15??~15??)
居城:邑智郡宇山城
官途:飛騨守
尼子家筆頭家老職を務めた。
『尼子分限帳』では、石見国内で187,700石を領した。

宇山久兼(15??~1566)
父親:宇山久秀
官途:飛騨守

宇山弥四郎(15??~1566)
父親:宇山久兼

宇山久信(15??~15??)
父親:宇山久兼の次男

亀井秀綱(15??~1566)
主君:尼子経久
父親:亀井安綱
官途:能登守
寺社奉行を務めた。

河副久盛(15??~1569)
主君:尼子経久
居城:英田郡林野城代
官途:美作守
吉川興経、大内義隆らの取次役を務めた。

熊谷新右衛門(15??~15??)
父親:永井新蔵
山中幸盛、立原久綱と並んで尼子三傑と呼ばれる剛勇。
尼子経久に仕え出雲国熊谷郷を領した。

黒正甚兵衛(15??~15??)
主君:尼子経久

佐世幸勝(15??~15??)
主君:尼子経久
居城:大原郡佐世城
備後国旗頭
『尼子分限帳』では、備後国120,000石を領した。

佐世清宗(15??~15??)
父親:佐世幸勝
官途:伊豆守
宇山久兼、牛尾幸清らとともに家老衆を務めた。

佐世正勝(15??~15??)
父親:佐世清宗
官途:伊豆守

末次讃岐守(15??~15??)
主君:尼子経久
尼子晴久の右筆。
高い鼻をしていたが、尼子誠久に言い掛かりをつけられ鼻の骨を砕かれた。

大西高範(15??~15??)
主君:尼子経久
居城:郡大西鞍掛城
『尼子氏分限帳』では、備中国内30,000石を領して中老職を務めた。

大西高由(15??~1588)
父親:大西高範
通称:十兵衛

大西久範(15??~15??)
父親:大西高由

立原幸綱(15??~15??)
居城:大原郡加茂立原城
「尼子氏分限帳』では、中老衆を務め美作国内で23,000石を領した。

立原幸隆(15??~15??)
父親:立原幸綱
官途:備前守
通称:次郎左衛門

立原久綱(1531~1613)
父親:立原幸綱の次男
通称:源太兵衛
山中幸盛の母は立原久綱の姉。

「立原久綱家臣」
石原久右衛門尉(15??~15??)
主君:立原久綱

「立原久綱家臣」
鉢屋加茂弥三郎(15??~15??)
主君:立原久綱
因幡国、伯耆国、出雲国、石見国の鉢屋衆を束ねた。

中井平蔵兵衛(15??~15??)
主君:尼子経久

鯰江長言(15??~15??)
主君:尼子経久
通称:与十郎

松田満久(14??~15??)
居城:島根郡白鹿城
出雲十旗の筆頭
正室:尼子経久の娘。

松田誠保(15??~15??)
父親:松田満久
官途:兵部少輔
毛利元就の勢力が拡大するとこれに降ったが、本城常光が毛利元就に謀殺されると再び尼子晴久勢に属した。

三沢為幸(1503~1541)
父親:三沢為忠の次男
官途:備前守
1508年、大内義興の上洛戦に参陣した。
1522年、「西条鏡山城の戦い」に参陣した。
1536年、兄三沢為国が尼子経久に謀殺されたため、三沢家の家督を相続した。三沢為幸は尼子経久、尼子晴久に従って各地を転戦した。
1541年、「吉田郡山の戦い」では、尼子晴久を守って討死した。

三沢為清(1536~1588)
父親:三沢為幸
官途:下野守
通称:三郎衛門
尼子晴久とともに各地で転戦した。

三沢為虎(15??~15??)
父親:三沢為清
官途:摂津守
通称:少輔八郎

本田家吉(15??~15??)
主君:尼子経久
官途:豊前守
通称:四郎左衛門
『尼子氏分限帳』では、中老衆を務め、出雲国内で5,000石を領した。

森脇久貞(15??~15??)
主君:尼子経久
居城:能義郡布部山城

森脇久仍(1533~1616)
父親:森脇久貞
官途:東市正
正室:宇山久兼の娘
『尼子氏分限帳』では、中老衆を務め美作国内で28,785石を領した。

山中満重(15??~15??)
父親:山中幸満の次男
通称:甚十郎。

山中満幸(1520~1546)
父親:山中勝重
官途:三河守
別名:尼子久幸
正室:立原綱重の娘(なみ姫)
父山中勝重の隠居により山中家の家督と相続して4,000貫を領した。
1544年、父山中勝重に先んじて病没した。

山中幸高(15??~15??)
父親:山中満幸
通称:甚太郎
別名:山中久盛

山中幸盛(1545~1578)
父親:山中満幸の次男
通称:鹿之介
正室:亀井秀綱の娘
兄山中幸高の病没により山中家の家督を相続した。

湯泰敏(15??~15??)
主君:尼子経久
居城:湯泉津城

湯惟宗(15??~15??)
父親:湯泰敏
官途:信濃守
1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久に従って参陣した。

湯家綱(15??~1551)
主君:尼子経久
居城:玉造城

湯永綱(15??~15??)
主君:尼子晴久
居城:出雲国八束郡湯之館
正室:多胡辰敬の娘。

横道正光(15??~1570)
主君:尼子晴久
父親:横道清高
官途:兵庫介
尼子十勇士

横道高光(15??~15??)
父親:横道清高の次男
通称:源助

横道久宗(15??~15??)
主君:尼子義久
官途:石見守
通称:三郎左衛門尉

若林伯耆守(15??~1532)
主君:尼子経久
居城:末次城
1532年、「塩冶興久の乱」では、尼子経久勢に属した。
1532年、「末次城の戦い」で塩冶興久勢の攻撃を受け討死した。

「尼子晴久家臣」
池田新三郎(15??~15??)
主君:尼子晴久

加藤政貞(15??~1578)
主君:尼子勝久
父親:加藤清久
通称:彦四郎
『尼子分限帳』では、足軽大将を務め美作国内で5,217石を領した。

熊野久家(15??~1562)
居城:八束郡熊野城
主君:尼子晴久
別名:西阿

熊野久忠(15??~15??)
父親:熊野久家
官途:兵庫介

相良与一左衛門(15??~15??)
主君:尼子晴久

田中三郎左衛門(15??~15??)
主君:尼子晴久
尼子晴久に仕えて弓頭を務めた。

津森幸俊(15??~15??)
主君:尼子晴久
官途:越後守
通称:惣兵衛

中井久包(15??~15??)
主君:尼子晴久
官途:駿河守
通称:助右衛門尉
別名:中井綱家
『尼子氏分限帳』では筆頭家老職を務め美作国内で87,000石を領した。
1540年、「吉田郡山城の合戦」では、尼子晴久に従って継嗣の中井久家とともに参陣したが敗退した。

中井久家(15??~15??)
父親:中井久包

平野又右衛門(15??~15??)
主君:尼子晴久

平野久利(15??~1565)
主君:尼子晴久
通称:又右衛門
『尼子分限帳』では、御手廻衆として出雲国内で18,000石を領した。

本田豊前守(15??~1554)
主君:尼子晴久

松尾遠江守(15??~15??)
主君:尼子晴久
居城:十神山城

目賀田幸宣(15??~1569)
主君:尼子晴久
通称:新兵衛

屋葺幸保(15??~15??)
主君:尼子晴久
官途:右兵衛尉
通称:七郎兵衛

吉田義辰(15??~1561)
主君:尼子晴久
官途:左京亮
1524年、尼子経久から伯耆八橋城主に任じられた。尼子晴久に従って備中国侵攻で戦功を重ねた。庄高資が毛利元就から離反すると、援軍を率いて松山城に赴いたが庄高資を松山城から追放して松山城の在番を務めた。

吉田源四郎(15??~15??)
主君:吉田義辰

「尼子秀久家臣」
目黒惣兵衛(15??~15??)】
主君:尼子秀久


「尼子義久家臣」
大塚与三衛門(15??~15??)
主君:尼子義久

本田家吉(15??~15??)
主君:尼子義久
官途:豊前守
通称:四郎左衛門尉
奉行職を務めた。

牛尾幸清(15??~15??)
居城:大原郡牛尾城
主君:尼子経久
官途:遠江守
「尼子分限帳」では備前国内で100,000石を領した。
1511年、「山城舟岡山の戦い」では、尼子経久に従って参陣した。
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、窮地にあった安芸国武田信実の擁護に赴いた。

牛尾久信(15??~1586)
父親:牛尾幸清
官途:信濃守
通称:太郎左衛門
『尼子分限帳』では、伯耆国内に17,000石を領した。

牛尾幸信(15??~1570)
父親:牛尾幸清の次男
官途:弾正忠

牛尾久清(15??~15??)
居城:鰐走城


馬田慶信(15??~15??)
居城:大原郡大東馬田城
官途:尾張守
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。

馬田慶篤(15??~1570)
居城:大原郡童山城

神西久通(15??~15??)
居城:神西竹王城
『尼子分限帳』では、美作国内で4,660石を領した。
1535年、隠居した。

神西元通(15??~1578)
父親:神西久通
官途:越前守
通称:三郎左衛門
正室:森脇久仍の姉
1535年、父・神西久通の隠居により神西家の家督を相続した。

三刀屋宗忠(15??~1570)
主君:尼子晴久
通称:蔵人
『尼子氏分限帳』では、御手廻衆として備中国内で10,114石を領した。
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。





「月山富田の戦いで尼子家を裏切り、大内家に臣従した国衆」
赤穴久清(1471~1553)
居城:飯石郡赤穴瀬戸山城
主君:京極氏→尼子経久
父親:赤穴幸清
子供:光清、定清、清行、時清
官途:駿河守
通称:善太郎、安連、郡連、加賀法師
1515年、隠居して赤穴家の家督を継嗣の赤穴光清に譲った。

赤穴光清(1493~1542)
父親:赤穴久清
官途:備中守
通称:九郎太郎
1515年、父赤穴久清の隠居により赤穴家の家督を相続した。
1527年、大内義隆の家臣陶興房勢が江田侵攻すると、佐東銀山城の城番を務めた。

赤穴詮清(15??~1544)
父親:赤穴光清

赤穴定清(15??~1542)
父親:赤穴光清の次男。

赤穴盛清(1528~1595)
父親:赤穴光清
官途:右京亮
通称:満五郎

赤穴幸清(15??~15??)
父親:赤穴光清の四男
兄赤穴盛清は嫡男に恵まれず、弟赤穴幸清が赤穴家の家督を相続した。

「赤穴光清家臣」
森田左衛門(15??~15??)
主君:赤穴光清
赤穴盛清が毛利元就に降伏すると、森田左衛門はあくまで毛利に降伏することに反対した。そのため、赤穴盛清の降伏後も森田は各地で一揆を起こして毛利勢をゲリラ的に苦しめた。これに激怒した毛利元就は赤穴盛清を叱責したが、赤穴盛清は「自分は主家を裏切って毛利家に従いました。ですが彼らは真の忠臣です」と述べ、毛利元就をうならせた。

宍道経慶(14??~15??)
主君:尼子経久
居城:意宇郡坂口館
正室:尼子国久の娘

宍道隆慶(15??~15??)
父親:宍道経慶
通称:八郎
官途:遠江守
1540年、「吉田郡山城の戦い」に尼子晴久に従って参陣した。

宍道政慶(15??~15??)
父親:宍道隆慶

多賀元龍(15??~1579)
居城:飯石郡羽倉山城
官途:左京朝山利綱

湯原春綱(15??~15??)
父親:湯原宗綱

米原綱広(15??~15??)
主君:尼子経久
居城:簸川郡高瀬城
尼子十旗で備中国など17,500石を領した。
1532年、「塩冶興久の乱」では、塩冶興久の救出を試みるが失敗した。

米原綱寛(15??~1613)
父親:米原綱広
通称:平内兵衛
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。

米原綱俊(15??~15??)
父親:米原綱寛




「尼子家を裏切り大内家の臣従するも、大内家が敗れた為再び尼子家に裏切る。しかし種子島家は破竹の勢いで侵攻して来ると、命惜しさに城地の召し上げに応じて降伏する」
秋上孝重(15??~15??)
主君:尼子経久
1523年、大庭大宮の神職を相続した。

秋上綱平(15??~15??)
主君:尼子経久
居城:森山城
通称:三郎左衛門
備後国内で10,000石を領した。
1523年、兄秋上孝重が大庭大宮の神職を相続したため、次男の秋上綱平が尼子経久に仕えた。
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。

秋上孝重(15??~15??)
父親:秋上綱平
叔父の秋上孝重と同名
秋上孝重の大庭大宮の神職を相続した。

秋上久家(15??~15??)
父親:秋上綱平の次男
通称:助次郎
別名:秋上宗信

「秋上久家家臣」
羽倉元陰(15??~15??)
主君:秋上久家
通称:孫兵衛


河本隆任(15??~15??)
主君:尼子経久
通称:弥兵衛

河本隆政(1521~15??)
主君:尼子久幸
通称:大八
1540年、「吉田郡山の戦い」では、尼子晴久に従って参陣したが、陶晴賢勢と戦って負傷した。以後月山富田城下の城安寺に住した。

古志吉信(15??~15??)
居城:神門郡栗栖山城
父親:古志宗信
『尼子分限帳』では、出雲国内で4,372石を領した。
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久の意向を受け、尼子国久勢に属して備後国大場城を攻落としたが、毛利元就勢の宍戸隆家らの反撃を受け撤退した。尼子晴久勢が大内義隆勢の反撃を受け大敗すると三沢為清、三刀屋久扶らとともに大内義隆勢に内応した。

古志豊信(15??~15??)
父親:古志宗信の次男

古志重信(15??~15??)
父親:古志吉信
官途:出雲守
通称:新十郎
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久に従って参陣した。

三刀屋頼扶(15??~15??)
居城:飯石郡三刀屋城
主君:尼子経久

三刀屋久扶(15??~1591)
父親:三刀屋頼扶
官途:弾正忠
通称:新四郎
別名:三刀屋久祐
1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久勢に属して参陣するが、三沢為幸が討死するなどして大敗した。

三刀屋孝扶(15??~16??)
父親:刀屋久扶三

「三刀屋頼扶家臣」
青木貞久(15??~15??)
主君:三刀屋頼扶


戦国武将録・ウィキベキ・世界帝王辞典・旧国石高表を参考参照

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