魔法武士・種子島時堯

克全

第125話暗殺者

1540年5月20日『京・種子島屋敷』種子島大弐時堯・12歳

「誰に頼まれた?」

「・・・・・」

「正直の言わねば死ぬより苦しい拷問にかけるぞ」

「・・・・・」

これで暗殺を仕掛けて来た者は8人目だから、既に誰が依頼者かは分かっている。前に暗殺を仕掛けて来た7人には、散々拷問を加えて自白させている。だが証言者は多いほうがいいし、どれだけ凄まじい拷問が加えられるかと言う噂が立てば、俺への暗殺を引き受ける者が減るだろう。もちろん舌を噛み切って自害が出来ないように、口には適当な太さの竹を咥えさせている。

これもみな、端午の節句に御所を襲った細川晴元主従を捕えて処罰した事に始まる。この事件が畿内の勢力図を一気に書き換えてしまったのだ。

主人とその側近を失った木沢長政は、両畠山家を上手く操りつつ細川氏綱とも接触を量り、当主を失い後継者も定まらない細川京兆家の当主に細川氏綱を担ぎ上げ、自分は管領代の地位を確保して、河内と大和の守護職を手に入れようとしていた。

だが畠山家内で木沢長政と勢力を二分する遊佐長教は、木沢長政を追い落とす好機ととらえて足利義晴将軍・六角定頼と連絡を密にしていた。細川氏綱を討ち取り細川京兆家自体を滅ぼし、六角定頼を管領もしくは管領代に就任させ、自分は河内と大和の守護に就任しようとした。

細川晴元を斬首とし、3千の将兵を捕えて九州に10年強制労働刑として送り、銭に糸目をつけずに流民を雇い御所内の将兵の数を大増員した。そのため足利義晴将軍と六角定頼も、細川晴元軍が霧散した後であっても、迂闊に京に戻ることも軍勢を進める事も出来ない状況となっていた。

そこで足利義晴将軍と六角定頼は俺を暗殺することを考えたのだろう。六角定頼はその支配領域に甲賀を抱え伊賀とも関係が深い。甲賀五十三家の一つ三雲定持が重臣として仕えており、今回の暗殺の直接指揮を執っていたようだ。

当然報復はすべきなのだが、今この時点で足利義晴将軍を殺してしまうと応仁の乱のような大混乱が起こる可能性がある。それは六角定頼を殺してしまっても同じで、足利義晴将軍の戦力は六角軍そのものであり、六角定頼を殺す事は出来ない。

だからと言って拉致追放する訳にもいかないので、十分な脅しにもなって日本を戦乱に巻き込まない報復相手として、三雲定持とその家族一門を拉致することにした。もちろん8人の暗殺未遂実行犯家族一門も報復対象で、1日の内の数百人を拉致して九州の筑豊炭鉱で働かせる事にした。

この報復劇は十二分な脅しになったようで、これ以降暗殺者が現れることはなかったし、俺や父上様の守護職を剥奪すると言う話もなかった。もちろん将軍家の奉行衆や六角家の将兵が山城に入ってくる事もなかった。それだけでなく、今まで京で乱暴狼藉の限りを尽くしてきた、比叡山延暦寺の僧兵や大和興福寺の僧兵、更には摂津石山本願寺の僧兵も山城には一歩も近づかなくなった。

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