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克全

第119話一八三三年、降嫁候補

俺は本当に愚かだったのだと、事が具体的に動いて思い知ることになる。
自分の巫覡としての影響力は、将軍家にだけ使っている心算だった。
どれくらいの効果があるのかは、直接将軍家の面々に会い話して確認していた。
だがそれが皇室にまで影響を及ぼしているとは、全く考えていなかった。
皇室には手を付けず、放置しておく心算だったのが悪かった。
誰かに利用されないように監視はさせていたが、その監視も祖父と父が俺に内緒で暴走しているとは思っていなかったので、全く報告されていなかったのだ。

問題が更に俺に不利に動いたのは、今上陛下の子供達が次々と夭折してしまい、後継者問題が起きてしまっていた事だ。
いや、それ以前に父として子供を失い続けることが苦しかったのだろう。
乳幼児を死なさない方法を導入している高須松平家に、奥女中や産婆を送るように命じていたなんて、松前松平家の当主になった俺は全く知らなかったのだ。

「今上陛下の妻子」
「贈皇后:鷹司繋子(新皇嘉門院) 鷹司政煕女」逝去
第一皇子:安仁親王(1820~1821)夭折
第一皇女:慈悲心院宮(1823)夭折
「女御:鷹司祺子(新朔平門院)(1811~) 鷹司政煕女、繋子妹
第四皇女:摩尼珠院宮(1829~)
「典侍:正親町雅子(新待賢門院)(1803~)  正親町実光女」
第二皇子:鎔宮(1825~1826)夭折
第四皇子:統仁親王(孝明天皇)(1831~)
第六皇子:節仁親王(第十代桂宮)(1833~)
「典侍:甘露寺妍子(1806~)甘露寺国長女
第二皇女:成宮(1825~1826)夭折
第三皇女:淑子内親王(第十一代桂宮)(1829~)
第三皇子:三宮(1830~)
第五皇女:総宮(1832~)
「典侍:中山績子(1795~)中山愛親女」
「掌侍:今城媋子(1809~) 今城定成女」
第五皇子:常寂光院宮(1832~)

本当に困った事に、史実では夭折していたはずの皇子皇女が、高須松平家から女武芸者・奥女中・産婆を送ってから一人も亡くなっていないのだ。
史実では既に死んでいるはずの第四皇女の摩尼珠院宮、第三皇子の三宮、第五皇女の総宮、第五皇子の常寂光院宮が生きておられる。
多分のこれからも亡くなられるはずだった皇子皇女が成人されて、歴史が大きく狂ってしまう。

最低でも、世襲宮家を継げない親王を受け入れる門跡寺院が必要になる。
降嫁できない内親王を受け入れる門跡寺院も必要になる。
玉突き状態になって、閑院宮家、伏見宮家、有栖川宮家の王子王女の受け入れ先がなくなってしまうかもしれない。
子だくさんの伏見宮貞敬親王から奥女中や産婆の派遣を依頼されたら、それこそ降嫁先や門跡入りする寺院を用意する必要がある。
ここは本気で王女を正室に迎えることを考えるべきか。

『降嫁候補の内親王と王女』
「今上陛下」
第三皇女:淑子内親王(第十一代桂宮)(1829~)
第五皇女:総宮(1832~)
「光格天皇」
第七皇女:蓁子内親王(欽宮、1824~)史実では宝鏡寺門跡
「閑院宮孝仁親王」
第三王女:昌宮 佳子女王(1822~)史実では田安家徳川慶頼室
「有栖川宮韶仁親王」
第四王女:韶子女王(1825年~)史実では 徳川家慶の養女で有馬頼咸正室
「伏見宮貞敬親王」
第三王女:日尊女王(1807~)瑞龍寺門跡
第四王女:英子女王(1808~)史実では徳川斉明室
第六王女:種子女王(1810~)史実では 錦織寺歓慈常厳室
第八王女:増子女王(1815~)史実では東本願寺光浄宝如室
第九王女:宗諄女王(1816~) 霊鑑寺門跡
第十王女:政子女王(1817~)史実では錦織寺宅慈養子、高田瑞泉寺室
第十一王女:隆子女王(1818~)
第十七王女:直子女王(1830~)史実では 徳川慶寿室

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