転生 徳川慶勝 日露開戦 日米開戦

克全

第114話一八三三年、帆布

長い目で見れば艦船に使用する帆布の役割は低下する。
だが今はまだ丈夫で長持ちする帆布は必要不可欠だった。
しかし、蝦夷樺太では綿花栽培が厳しく、他藩から購入するしかなかった。
本来ならば天保の飢饉にそなえて食糧の増産を一番に考えたかったが、国防上帆布を輸入に頼りきるわけにもいかなかった。
どうせ飢饉対応と蒸留酒造りのために穀物を輸入していたので、国内での綿花栽培と麻栽培を続けていた。

「松右衛門帆の数は足りているのか」

日本で丈夫な帆布を発明したのは播州高砂の漁師の長男、松右衛門という男だ。
一七五八年に兵庫に出て、佐比絵町にある「御影屋」という船主のもとで船乗りになり、後に兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、その斡旋で佐比絵町に店を構えて船持ち船頭として独立したという。

その松右衛門が、一七八五年に木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功して「松右衛門帆」として全国に普及させたのだ。
一七九〇年に江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ、一七九一年に見事完成させている。
一八〇二年には船着き場完成の功績を幕府から賞されて、「工楽」の姓を与えられているが、遅すぎるだろう。

その後も一八〇四年に箱館にドックを築造したり、石鈴船や石救捲き上げ装置を発明したり、防波堤工事などを手がけている。
個人的には、鮭の調理方法を工夫し保存食である新巻鮭(荒巻鮭)を考案した事でよく記憶に残っていた。
松右衛門の残した言葉に「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌として一生を過ごさんは禽獣にも劣るべし」(人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る)とあるが、その言葉気持ちを忘れないようにしたい。

現在スクリュープロペラ式の蒸気船の試作を繰り返しているが、戦力化できるまでは松右衛門帆が必要不可欠だった。
交易用の合の子船はイグサ、竹で編んだ莚も帆の代用にしてもしかたがないが、合戦が想定される五十二門フリゲート艦、三十六門フリゲート艦、迅速丸、快速丸は予備も含めて俺が艦船の大きさに合わせて松右衛門帆を更に改良させた、最新式の帆布を装備させたかった。

「残念ながら完全とは言いかねます。
艦船の量産に生産が間に合っておりません。
南蛮船には何とか揃えられましたが、合の子船には間に合っておりません。
まして商人が使用する北前船となりますと、とても数がそろいません」

「多少高額になっても構わないから、できるだけ生産量を増やすのだ。
必要ならば職人を増やせ、なんなら下級武士の妻女の内職に進めるのだ。
南蛮の侵略に備えるために内職をするというのなら、武士の体面も傷つかぬ」


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