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克全

第113話一八三三年、予言

俺は今年も予言をした。
天保五年に富士山で豪雨と雪解け水による大洪水が起こる事だ。
一八三四年五月十五日(天保五年四月七日)の昼九つ時(午前十二時ごろ)富士山に降り積もった大雪が豪雨によってとけ、大洪水となって山麓へ押し寄せたのだ。
甲斐(山梨県)側で、富士山に降った大雪が、晩春を迎え暖かくなって融けて、豪雨により大量の雪代(雪解け水)となってふもとに押し寄せてくることは、例年のことで特に珍しくはなかったのだ。
だがこの年の雪解け水は常識外れで、大きな被害を出したという。
一方、反対側の駿河(静岡県)では雪解け水の被害はこれまでなく、不意打ちなってしまったと記録にあった。
今のうちから被害軽減のための工事をやらせるか、最初から諦めて避難を優先するのか、それは領主や代官に任せることにした。
(出典:中央気象台編「日本の気象史料 1>第一編 暴風雨 223頁:天保五年四月八日 駿河、甲斐諸国 大風雨」、静岡県編「静岡県史 別編2 自然災害誌>第3章 静岡県の自然災害のさまざま>第13節 大沢崩れ 594頁~596頁:天保5年の雪代災害」)

「堂島焼」と記録され、大塩平八郎らが町人救済に活躍した天保五年に7大阪で起こった大火事。
一八三四年八月十五日から十六日(天保五年七月十一日から十二日)の早暁、子の刻(午前零時ごろ)、堂島新地北町の泉屋伊兵衛支配の貸家に住む坂川屋音兵衛宅より出火した大火事だ。
この日は南西の風強く、燃え上がった炎は火元の堂島新地北町から西天満を焼き、天満寺町、与力町、同心町のそれぞれ西半分を灰にして、なんと三十一時間燃え続けたのち、翌朝卯の中刻(午前七時頃)に鎮火したという。
被災は二九町三か村八九八軒、かまど数にして七五六〇戸で社寺が三四か所。
焼け出された人びとは道頓堀の芝居小屋へ収容されたが、手狭になったので町奉行所では、急きょ天満東寺町前の敷地に御救小屋を建てるなど二か所へ収容した。
また天保の大飢饉のさなかである、大火に乗じた便乗値上げが心配されたが、値上げを禁じたばかりか、被災者の救援に必要な費用を、問屋や有力町人有志から集めた支援金でまかなった。
さらに諸大名に対して大阪への廻米を命じるなど、さまざまな救済策で街の経済活動も立て直した。
これらの奉行所の施策は、大阪東西の奉行が配下の与力・大塩平八郎や内山彦次郎など有能な人びとを活用した成果とされている。
(出典:玉置豊次郞著「大阪建設史夜話>第十七話 大坂の災害記録>幕政時代後期の大火の記録 122頁~123頁:天保5年七月十日 堂島焼」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1834 839頁:大坂堂島新地で大火、焼失家屋7560戸、被災者は芝居小屋へ避難」。参照:2007年4月の周年災害「幕府、……天保の大飢饉深刻化」)

天保六年に金沢で起こった大火事、一八三五年四月八日(天保六年三月十一日)
暁の七つ時(午前四時ごろ)、横安江町にある西末寺の門前に居を構える青木八郎左衛門宅から出火し、上級武家屋敷や寺院が集まる一帯を焼いた。
折からの烈しい南風に乗った炎は、たちまちの内に両末寺に移り、溝口頼母宅、荒木津大夫宅、杉江杢左衛門宅など武家屋敷に次々と延焼、三四34軒をことごとく灰にした。
そのほか伴源左衛門宅の長屋門(家臣の居住間を左右に備えた門)、伴八矢、前田将監、寺西蔵人などでは本宅と屋敷内の家臣の居宅十軒も同じように灰となった。
他にも周辺の寺院、火元と接する西末寺を始め東末寺、照圓寺、西勝寺など十一か所も全焼し辺り一面が廃墟と化した。
勢いを得た炎は町家の方にも火勢を延ばし、横安江町の町家を始め、東末寺町の町家、西御坊町、中嶋町、堀川笠市町、塩屋町などの七九七軒を全焼させただけでなく、浅野川下流の乙丸村(現・金沢市)二四軒など郡地一一三軒も焼失させた。
そのほか、非人(当時の最下層民)小屋七七軒、熊坂橋と極楽橋の番小屋三軒も焼けている。
昼九つ時(午前十二時ごろ)ようやく鎮火し、八時間の内に一〇〇〇軒程を焼くという強風下の素早い火の周りだったとう。
(註:焼失軒数は「日用雑記」による)。
(出典:侯爵前田家編輯部著「加賀藩史料 第14編>天保六年 560頁~562頁:三月十一日。金沢横安江町より火を失す。」)

一八三五年七月二十日、仙台で地震がある。
仙台城で石垣崩れ、藩内で被害があった。
岩手県藤沢町で石垣が崩れ、蔵の壁の損傷あったともいう。

          

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