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克全

第90話一八三〇年、新年の予言

「そうか、京の事は巫覡殿と京都所司代に任せる。
来年の火事の件だが、前田家には巫覡殿から伝えてやってくれ」

昨年に予言していた京都の災害については、一年かけて防災と避難の準備を進め、被害を軽減させられる目途がついたので、徳川家慶が安堵の表情を浮かべているが、俺自身も一息ついている。
それもあって、他もできるだけ早くから予言して、防災準備をすることにした。

来年は俺が記憶している自然災害がなく、あるのは金沢の大火事だけだ。
後に「浜田焼」と呼ばれる、一八三一年五月二三日(天保二年四月一二日)に富山で起こった大火事だ。
江戸時代は富山でも大火が多く、一〇〇〇軒以上の家屋を焼失した大火が五回も発生してしまっている。
富山の場合、飛騨山地から神通川沿いに強い南の風が吹き降りるフェーン現象が起こり、火事が発生しやすくなるらしい。

天保二年に起こった火災は、火元にちなんで「浜田焼」として富山市民に語り継がれていて、富山史上最大の火災なのだそうだ。
天保二年(一八三一年)は春先から毎月火事が起きていたそうで、藩の役人も城下の住民たちも火の用心をしていたと書いてあったが、午の刻(午前一二時ごろ)、西田地方神明社の東にある浜田弥五兵衛方より出火し、強い南の風にあおられて炎が北上してしまい、東西に広がって富山城内にまで飛び火したそうだ。

富山城内では、公事場役所、越中の特産薬種の販売を支援する「反魂丹役所」、藩校の広徳館など役所の建物と土蔵すべてを焼失してしまったそうだ。
城下でも侍屋敷が三〇〇軒、足軽など下級侍の家が八七七軒、町人の本家が一九四九軒、貸家が五〇二九軒、松川北部の愛宕町など百姓家が一二二軒、土蔵納屋が六八九棟、寺が四六カ所、神社が三カ所も焼失したとある。
被害にあった城下の広さが九三町にも及び、郊外の村を三つも全滅させ、七十人もの人が犠牲になるのだ。

俺は徳川家慶の許可を受けて、直ぐに越中富山藩の第九代藩主、前田利幹に火事の事を話しに行った。
そもそも、この年は新年から火事が多かったと書いてあったのだ。
そんな記録にない小さな火事は仕方がないのしても、七十人以上が犠牲になる大火だけは、絶対に防がないといけない。

それでなくても、越中富山の薬売り達には、役立たずになった忍者の子孫に代わって、日本中の重要情報を集めてもらっているのだ。
ここで大火を防げなかったら、彼らからの信用信頼を失ってしまう。
ここは何を置いてでも、火事を防がないといけないのだ。

前田利幹は先代藩主の実子ではない。
先代が亡くなられた時、実子はまだ二歳と幼く、親戚の大聖寺前田家から、先代藩主の長女勝子の養子となって家を継いだのだ。

史実での藩政は困難を極めていた。
富山藩の財政は火の車で、有力町人と協力して新田開発を行ったり、凶作に備える恵民倉を設立したり、商品作物を作らせたりしたものの、商品作物の導入が物価高騰につながり、文化十年(一八一三年)に百姓一揆が発生させてしまっている。
その後も俺が予言した富山大火の被害と、天保四年(一八三三年)に発行した銭札の影響で、金融恐慌を起こしてしまう事になる。

だが今生のこの世界では違う。
越中富山の薬売りは、俺にとってなくてはならない存在なのだ。
だから富山藩の財政再建には、親身になって手を貸している。
富山藩の商品作物は優先的に輸出し、物価高騰にも気を配っている。
だから藩主は勿論、藩士領民に至るまで、俺の指示には喜んで従ってくれる。
西欧列強との戦争になった場合も、富山藩が裏切る事はないと思う。
いや、そう思いたいだけなのは分かっているが、やれることをやるしかない。

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