夢歩く囁き
第20話 囁くもの
時間が、それこそ姫川にされたとき以上に、これまでにないくらいゆっくりに感じる一瞬だった。
断続的な息遣いが聞こえてくる。微かな温もりは俺のものだろうか。唇を離してみれば、そこには冷凍茹でタコがあった。間違えた、顔を真っ赤にして固まっているユリアがいた。
「そういうわけで、これが俺の気持ちだ」
振り返って、ウィスルを睨む。
棒人間の左目は驚きの様子もなく、面白いものを見たかのように細められていた。
『まさかそんな行動を取るとはね……普通に気持ち悪いね』
ストレートに抉ってきやがった。正直恥ずかしい。
『まあ普通なら犯罪というべきなのだが、ユリアに限っては例外だな。分かりきってはいたけれどね』
一言も喋らないユリアは恍惚の表情を浮かべたまま口をパクパクとさせている。夢に入るときにしていたから慣れているものだとばかり思っていたが、いままでに見たことない反応だ。
そんな彼女の姿をみていると、全身がどっと熱くなった。変な汗が噴き出そうだ。
アームチェアに戻って顔を両手で覆う。これが夢なら早く覚めてほしい。いや、夢だったわ覚めてくれ……。
『……思春期みたいな反応はいいとして、それが君の答え、それでいいのかい?』
「……ああ、そうだ。俺はユリアを信じる」
ウィスルの声がどことなく冷たいもので、自分の顔の温度もいくらか下がる。顔から両手を離してウィスルを見直せば、先ほどとは違って、その左目は明らかに不快の感情を浮かべていた。
『さて、君に故意的に干渉しているユリアを、それでも信じようとする理由を聞かせてもらおうか』
「俺が……ユリアに惚れてるんだよ」
あの日、白昼夢で出会った瞬間から。一目惚れしていたんだ。
合理的じゃないけれど、好きになった女の子を信じたい。そう心の奥で思っていたからこそ、ここまで大きな疑いも持たずにこれたんだ。
俺はユリアを好きになっているんだ。
単純で曖昧な恋心。それで十分だ。
「ユリア」
「へ!? か、かにゃめくん。あの、そのわたしはその……」
ユリアの動揺は当然だ。突然こんなこと言われたって困るだろう。仕事上の関係ですだなんて言われればそれまでだ。
「一応、するまえに謝ったけど、やっぱ困るよな。ごめん」
「え、あ……。ち、ちがうの。そうじゃないの」
ユリアが小さく胸元で両手を振って否定する。
「驚いたけど、その、嫌だったとかじゃないの。だから……大丈夫」
「そうか……ありがとう」
『いいのかい? そんなこと言っているが、彼女は隠し事もしているし、嘘も言っているんだよ』
二人だけの桃色空間に、棒人間が水を差すようなことをしてくる。空気の読めない奴だ。
「いいんだよ。ユリアにはユリアの事情があることくらい、いまの話でわかってきてるから。ユリアが必要だと思ったときに話してくれればいいんだ。元彼がグダグダ言ってるんじゃねえよ」
『……そうか……それはそれは、ある意味皮肉というか、やはり君はそういう人間なのか……』
ぼそりと、ウィスルが何かを呟いたかと思えば――
『くふ、ふふふ……はははは』
盛大に笑い出した。
それは可笑しいとか面白いとかではなく、どこか悲観的な声のこもった笑いだった。
『だから君は大嫌いなんだよ、青陰枢』
一瞬――体が凍った。
それほどまでに冷たい視線が、ウィスルの三白眼から放たれた。
しかし、気のせいだったかと思うほど、その感覚はすぐに消え去り、ウィスルの視線はユリアの方へ移っていた。
『ユリア』
突然の掛け声に、ユリアが体を反応させてアームチェアを揺らす。
「え、わ、私は」
『囁くものにつつめかれ、連綿たる夢に溺る』
その言葉にユリアが硬直する。
初めて聞く、意味も分からない言葉のはずなのに、俺はどこか懐かしく感じた。
『君も夢を見るというのなら、精々、いまだけは溺れているといい』
「……私は、それでも……自分の在り方を本物だって信じる」
ユリアは今までになく真面目な顔で、ウィスルに言葉を返した。
二人の言っていることはまったく分からない。きっと、この世界にいる二人だからこそわかるものなのだろう。
俺の知らないユリア。彼女の守りたい人たち。その中にいるのは……。
『さて、こうなった以上、僕も引き下がるわけにはいかない。君がわけもわからず夢に干渉し続けるのも大変だろうから、僕の目的を正確に教えておこう』
思わず体が前のめりになりそうになる。ユリアも教えてくれなかったウィスルの真の目的。本人から教えてくれるというのは、隠すつもりはなかったということだろうか。
ウィスルはこのまま目的のために動き続けるつもりだ。俺の身内の安全が保障されない限り、それは食い止めなければならない。ここでその目的を知れることは重要だ。
「ウィスル、それは……」
『大丈夫さユリア、純粋に僕の目的だけだよ』
ユリアが口を挟むが、ウィスルが制止する。妙に引っ掛かる言葉だが、そこはあとでユリアを問い詰めるしかないか。
「お前の目的は人を夢に閉じ込めて、それでどうするんだ」
『青陰枢は、人の意識が夢の世界に閉じ込められるとどうなると思う?』
「……そんなの目を覚まさないとか、植物状態とか……とにかく、意識が夢の世界にあるなら、現実で活動ができなくなるのは確かだろ」
『そうだね。夢に閉じこもるということは、夢を現実と認識し、現実を夢だったと肯定することだ。現実と夢の転換というべきかな。なら、夢という空想の世界に存在を換えた人間の、現実の存在はどうなるか』
「……言っている意味がいまいちわからないぞ」
『簡潔に言うと、現実と夢の決定的な違いというのは存在の有無なんだ。存在のある現実と、ない夢の世界。存在を必要としない夢の世界に入ったら、現実の存在は要らないよね』
それこそ、本当にファンタジーのような、空想的で妄想的な、馬鹿な発想にしか思えないのに、ウィスルの言葉一つひとつが現実的なことに思えてくる。
『だから僕の目的は、夢に閉じこもった人間の存在を貰うことだよ』
スッと、血の気が引いていく。それはどこかの漫画で見たような、どこかの物語ありそうな、存在を奪われ、入れ替わるということなのか。
「そんなの……できるわけ」
『それを君が否定できると? 現実を生き続けた君が、その可能性を如実に語るこの世界を、このいまを、ここに居る僕らを。できないだろ?』
できない。夢を見たことがない俺でも、この世界が非現実的で異常な場所であることくらい理解している。現実から生まれ、現実の裏に潜む世界。知り得ないからとなんでも否定するのは浅慮というものだ。
しかし、それでも、そんな摩訶不思議な可能性を受け入れることは到底できない。
『いまの君に理解しろとは言わないさ。ただし、今後も僕の邪魔をするというのなら、この事実は否定できないものになる。そのことを、ゆめゆめ忘れないでほしい』
そう告げたウィスルは、俺が言葉を選ぶ前に、その黒い右手を高らかに上げる。
『時間が来たようだ。君にもう一つ面白いことを教えてあげよう』
「なんだよ」
『最初に言っていた、君が聞いたという声だが、その正体だ。上を見るといい』
「――なっ!? なんだ!?」
言われるままに見上げて、その光景に思わず立ち上がる。
真っ白だった上空は青色に覆われていた。それは空とは違う、より濃い青色で、よく見ればちらちらと動きが見えて何かの集合体だとわかる。
あれは――蝶だ。
翅が青色の、蝶の群れ。
なぜここに蝶が? 姫川はもういない。姫川の仕業とは思えない。
ならばウィスルの……その考えは本人によって消される。
『あれは夢が作り上げたものでも、僕が用意したものでもない。概念、自然現象と言うべきか』
自然現象? そんなことで納得できるわけがない。
できるはずがないのに、その群れの存在が語る。これが当たり前だと、この世界の概念だと。
何百頭……いや、千頭以上はいるかもしれない。その圧倒的な光景に言葉がでなかった。
『胡蝶の夢なんて言葉があるけれど、あれの思想なんてものはただの後付けだ。事実はご覧のとおり、この世界には蝶が存在する。僕らはあれを、“囁くもの”と呼んでいる』
囁くもの。俺に笑いかけてきた子供の声の正体があれだと、ただの蝶だというのか。
その光景は、美しさを通り過ぎ、悍ましさを通り越し、もっと本能に訴えかけてくるような――
「っ!?」
頭が痛くなってくる。変な吐き気に襲われる。気持ち悪いとか、そんな生理的なものではなく、何か自分の奥底から吐き出されそうな感覚。
「枢くん!?」
ユリアが俺のところまで寄ってきて背中をさすってくれるが、一向に吐き気は消えない。ここでは吐くものなんて想像できない。
『君には刺激が強すぎたか。あんなにも美しく、醜いというのに、残念だ』
意識が朦朧としそうになる中で、ウィスルの言葉が続く。
『あの蝶たちは夢を食べて生きている。もちろん、この夢も食べられる。人間が夢をはっきりと覚えていないのはこのせいだ』
夢が食べられる。夢を覚えていない。
「ま、さか……」
『そう、君が姫川紫に伝えた言葉もすべて消える。今回の頑張りはすべて水の泡になるのさ』
だから、ウィスルは、俺とユリアが姫川を説得している間でてこなかったのか。こうなることがわかっていたから。
俺たちはしたことは無駄だったのか?
「それでも、姫川さんが夢から覚めることには変わりないよ。ウィスルの本来の目的は潰えたでしょ」
ユリアが反論をする。
そうだ。姫川が夢から覚めれば、存在を奪われるなんてこともなくなる。まだなんとかできる。俺たちのやったことは無駄じゃない。
しかしそんな考えを、ウィスルの嘲笑が打ち消していく。
『姫川紫がダメだったなら、他の人間を閉じ込めればいい。それだけの話だろ?』
「そんな……」
「ウィスル……てめぇ」
『今度はもっと青陰枢に近い人を選ぶとしようか』
俺に近しい人。すぐに思いつくのは、妹と母親。
その言葉は、吐き気に震える体を無理やり立ち上がらせるのに十分だった。
「させないぞ、絶対に」
『……楽しみにしているよ』
それで終わりだと言わんばかりに、上空にいた蝶の群れが降下を始める。視界を飛び回り、雲の上にでもいるかのような青と白の斑模様が浮かび上がった。
それもつかの間、白が消え、青一色へと変貌を遂げ、俺の視界までもを青色に染め上げ――
「ぜんぶは、あげない」
意識が途切れる寸前、幼い少女の声が聞こえた気がした。
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