夢歩く囁き

沙漠みらい

第12話 白雪姫


 姫川はひとしきり泣いた後、シャンスだったものを抱えて自宅へと戻った。ついてくのをやめようとしたが、姫川の周辺以外は真っ白な空間になってしまうし、取り残された後どうなるかわからないのでついていくことにした。
 彼女に続いて姫川家におじゃますると、玄関先で紫ちゃんがシャンスを抱いたまま待っていた。少女が抱えている黒猫は、記憶の中のものなのだろう。
 目を真っ赤にした方の姫川は、そんな二人などいないかのように横を素通りして、二階へ上がっていった。自室に戻ったのか。

「満足した?」

 紫ちゃんが、最初に出会った時のような感情のない声で問うてきた。

「あ、ああ……その、ごめんね」

 そう答えながら、思わず彼女の頭を撫でる。そんな行動にも反応せず、透き通るようなライトブルーの瞳はこちらを見つめ続けてくる。
 俺は踏み込んではいけない領域まで来てしまった。人の夢に干渉することがこういうことだとは思わなかった。
 いや……実際は分かっていたのかもしれない。自分が夢を見ないから考えもしなかったが、人の夢がどこから来るかなんてわかりきったことだ。

 人の夢に干渉するというのは、その人を知ってしまうことだったのだ。

 正直、面倒だとは思う。
 俺がこんなことを知る必要はなかった。
 何も知らず、ユリアに言われたことをやるだけのつもりだった。
 だが、もう戻れないところまで来てしまった気がする。このまま知らん顔して過ごすことはできないだろう。
 あの日、最初のドアを開いた時点で決まっていたのかもしれない。

「青陰お兄ちゃん?」

 黙り込んでいた俺を不思議に思ったのか、彼女が小首を傾げていた。

「ん? ああ、ごめんね。ちょっと考え事してた」
「青陰お兄ちゃん、ごめんねしかいってないよ」
「そうか? いや、そうかもな……」

 紫ちゃんが泣いたり俯いたりするから、ついね。あんな記憶も見ちゃったわけだし。
 リビングに戻ると、ガラスのテーブルに本らしきものが置いてあった。先ほどまではなかった気がするが。

「その本は紫ちゃんのかい?」
「そうだよ。白雪姫。好きなの」

 そう言って紫ちゃんが表紙を見せてくれる。どうやら白雪姫の絵本らしい。

「シンデレラじゃないんだ」
「シンデレラ? どうして?」
「あ、いや、なんでもないよ」

 ふと漏らしてしまった声に、紫ちゃんがまた小首を傾げる。姫川の見た目が、白雪姫よりシンデレラっぽいなんて言ったら怒られそうだ。

「どうして白雪姫が好きなんだい?」
「わたしみたいだから」

 私みたいというなら、本当にシンデレラの方がそれっぽい気がするのだが、見た目の話ではないのだろう。一体、姫川と白雪姫のどこが似ているのか。
 考えようとしていたところを、ぴょんぴょんと兎のように跳ねる紫ちゃんに遮られた。

「青陰お兄ちゃん、読んでよ」
「え? 俺が?」
「うん、いつもはね、わたしがシャンスに読んであげてるの」

 猫に読み聞かせたところで通じるのだろうか。二人しかいないならそうなるのも仕方ないのか。
 紫ちゃんに促されるままにソファに座って絵本を開く。俺の膝に紫ちゃんが座り、その頭上にシャンスを乗せる。

 驚いた。幼女が膝の上に乗るという滅多にない光景はともかく、シャンスまでいるのに、その重さをまったく感じない。さらに言えば、ソファの柔らかさも、絵本の堅さも感じない。ないものに触れている感覚だ。本当に夢の中(正しくは記憶の世界)なんだなと、思わず自分の頬を抓る。痛くない。というか、抓っている感覚もない。
 少女がここにいないもの、というよりは、自分が存在していないように思えてくる。俺はここに存在しておらず、意識だけがあるのではないかと、そう錯覚してしまいそうだ。
 慣れそうにない感覚の中、本をめくっていく。俺に感覚はなくとも、絵本は紙の擦れる音を出す。

 一ページ目には、雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒いお姫様姿の少女が描かれていた。
 内容はしっかりと子供向けだ。毒林檎を齧って永遠の眠りについた白雪姫に、王子様が目覚めのキスをしてハッピーエンド。俺の記憶にある白雪姫は兵士に殴られて林檎の芯を吐きだすものだった気がする。いや、林檎じゃなくて櫛だったか? 櫛を食べるとかどんだけ飢えてんだよ。いや、櫛は頭に刺されたのだったか。どっちにしろ、知らない人から安易にものを貰ってはいけない。これは現代にも通ずることだ。時々、変なものが入ったお菓子を子供にあげる不審者がいるんだよな。

 それは置いといて、結局、何の変哲もない白雪姫を読まされたわけだが。いつの間にか猫を膝の上に移動させた紫ちゃんは、もう一回と言わんばかりに体を揺らして――あ、違う。眠くてうとうとしているだけだ。子供って読み聞かせ中よく眠たそうにするよね。読み聞かせなんてこれが初めてだけど、なんとなくそんなイメージがある。
 紫ちゃんは、大きく揺れる体が支えられない角度まで傾いたところで、「ふぇ?」と可愛らしい声を出しながら、旅立ちかけた意識を呼び戻した。
 そして、眠たそうに目をこすりながらこちらの方を見上げる。口元から少しだけよだれを垂らしているのが微笑ましい。

「おねんねしそうになっちゃった」

 よだれが気になるので、ワイシャツの裾で拭ってやる。
 眠ってしまわれると、正直困る。これ以上することがないので、この子に相手してもらわなければならない。主に情報収集で。
 現実と夢の世界の時間は必ずしも同じとは限らない。それについては、ユリアとの会話の時に分かっている。ここにきてから、すでに二時間以上は経っていると思うが、未だ現実に戻れそうにない。最終的には保健の先生が無理やり起こしてくれると思うが、それで起きれるのかも謎だ。

「眠いなら、別に寝てもいいんだよ」
「ううん、寝ちゃうと、たぶん次は起きれないから」
「次?」

 子供とは思えない深刻な顔を見せながら、首を振る紫ちゃん。それに少し驚いてしまって、気になった言葉をオウム返しに聞いてしまった。

「うん、このまま寝ちゃうと、わたしがここに来ちゃう。わたしをここに連れてきちゃいけないの。わたしが見ていいのは夢だけだから」

 私というのは、姫川のことだろう。現実にいる姫川も、今ここにいる紫ちゃんも、彼女にとっては「私」なのか。
 眠ると姫川がくるというのはどういうことだろうか。そういえば、姫川はここにきたことがないみたいなことを言っていた。

「それじゃあ、紫ちゃんはずっと寝てないのかい?」
「おねんねしてないのは、車にぶつかってから」
「あの交通事故か。どうしてそれで寝れなくなるんだい?」
「わたしが起きないから」

 端的な回答だが、こちらで整理してみよう。
 本来、姫川はこの記憶の世界にきてはいけない。そのために紫ちゃんは寝てはいけない。寝てしまえば姫川が起きないから。
 そのために、紫ちゃんは四日も寝ていない。いや、現実の時間とここの時間が同じとは限らない。しかし、眠らないでい続けるというのは、この小さな体の少女には酷に思える。実際眠そうにしているし。

「それじゃあ、紫ちゃんを起こさないといけないのか」

 ここでいう紫ちゃんは、姫川のことだ。
 姫川が眠り続けているのは、ウィスルとかいう奴が絡んでいるからと仮定する。
夢の世界に閉じ込める。そのためには夢を現実と思い込ませなければならない。
 なるほど。それで記憶か。
 記憶は自分が体験したものだ。それが夢に使われるなら、その夢はほぼ現実のものになりえるのかもしれない。
 姫川紫が見ていいのは夢だけ。記憶を夢で見てはいけない。現実と区別がつかなくなりかねないから。紫ちゃんの言葉はそういうわけだ。
そうなると、紫ちゃんが寝落ちする前に決着を着けなければいけないな。
 時間がない。

「青陰お兄ちゃん……?」

 俺はいつの間にか、紫ちゃんの手をぎゅっと握っていた。その手の下では、シャンスが寝息を立てている。そういえば、この黒猫の鳴き声を一度も聞かなかったな。
そんなことを考えながら、今度はシャンスの頭を撫でてやる。すると、気持ちいいのか嫌なのか、シャンスが体をくねらせた。

「シャンスも、このままだと報われないよな」

 他人に関心がないなんて言いながら、なんとかしないとなんて思ってしまっている。
 これは、本心からだ。

「紫ちゃん、もう少しだけ頑張ってくれないかな?」
「え?」
「俺が、なんとかするから」

 なんとかなる根拠なんてないが、紫ちゃんに笑いかけることだけはできた。
 なんとかするしかない。
 それを聞いた紫ちゃんが、突飛な質問をしてきた。

「青陰お兄ちゃんは……王子さまなの?」
「お、王子様?」
「わたしをキスで目覚めさせてくれる、王子さま?」

 白雪姫のことか。
 絵本に出てくるような、かっこいい顔でもなければ、どこかのお坊ちゃんなんてこともない。内面も優れているわけはなく、何の変哲もないただの高校生だ。王子様にはなれないだろう。姫川をなんとかするというのも、大本は叶のためだ。姫川本人を助けたいわけじゃない。

「俺は、王子様にはなれないかな」
「……でも、わたしを起こしてくれるなら、青陰お兄ちゃんが王子さまだよ」

 紫ちゃんが眠たそうな目で、それでも子供らしく笑った。
 王子様になれというなら、偽りでもいいから、今だけ王子様になるか。
 いや、キスよりも、姫川を殴って林檎の芯を吐き出させる方が、俺には合っていそうだ。

「それじゃあ、王子様やりますか」
「うん、ちゃんと、キスで――」

 紫ちゃんの言葉にノイズが走る。
 瞬間、視界がぐらりと揺れて、真っ暗になった。

「青陰さん、そろそろ起きてください」

 自分が瞼を閉じていることに気付いてパッと開くと、白衣を着た女性が俺の顔を覗いていた。保健の教員だ。保健室に戻ってきたのか。

「もう放課後ですよ、いつまで寝てるんですか」

 ベッドはカーテンで囲われているが、教員の後ろの隙間からはオレンジ色の光が見える。
 ということは、午後は丸々寝ていたわけか。
 五時間くらいだろうか。現実の時間の方が早く進んでいる。なるほど、こうやって感覚がずれていくのか。

「すみません。おかげさまで随分体が楽になりました」

 起き上がりながらそう告げるが、実際のところ寝る前よりも体が重く感じる。夢の中にいたら起きているのと同じ状態なのかもしれない。
 辺りを見回すが、やはりユリアはいない。俺が無理やり起こされたというわけか。それなら白昼夢であるはずもない。
 教員に適当なことをいいながら保健室を出た後、俺は走って家へと帰る。
 姫川が走っていた道とは別方向だ。しかし、いまは体に重みが増し、息が荒くなり、心臓の鼓動が早くなっていく。
 生きている。それが伝わってくる。生きているという現実が俺を走らせてくれる。


 リビングでは叶が晩御飯の準備でキッチンに立っていた。

「叶、一つ聞きたいことがあるんだが」
「……なに?」

 おかえりと言われる前に、ただいまを言うわけでもなく、どうしても聞きたかった質問を投げかけた。

「叶は、姫川にまた学校へ来てほしいと思うか?」

 俺の質問の意図が掴めなかったのか、調理器具を洗っていた手を止めた叶は、訝しげな目でこちらを見る。

「……来てくれるなら、来てほしい。まだ全然仲良くなれてないけど、毎朝あいさつしてくれた。それが聞けないのは、寂しい」
「そっか……」

 それじゃあ、目を覚まさせてやらないとな。
 これは、俺にしかできないこと。
 叶のため、紫ちゃんのために、俺ができる唯一のこと。

「叶、今日は晩御飯いらないや」

 そう告げでリビングを出ていこうとする俺に、珍しくも後ろから叶の戸惑った声が聞こえた。

「……なんで」
「もう寝るから。夢を見なくちゃいけないんだ」

 なんて意味不明で、格好つかないセリフ……。
 リビングを後にし、二階へと上がる。
 夢の中で離ればなれになった少女のことを思い出しながら自室のドアを開けると、

「呼ばれて飛び出てって、ひゃああああ!?」

 案の定、現れた。
 空中に。
 慌てて自分の鞄を放り投げて、ユリアを受け止める体制をとる。
 特に筋肉のない胸郭に顔を埋めさせる形でなんとか受け止めた。

 落ちてきた体を支えるためにお尻を触ってしまったが、気にしない流れでいこう。
すごく、むにっとしていた。
 しかし、相変わらず無臭なんだな。
 ユリアを下すと、青い顔で、胸を撫でおろす仕草をしていた。耳も垂れている。が、なぜか尻尾は揺れていた。

「もー、びっくりしたよ。いきなり室内の空中なんだもん」
「調子に乗って大魔神みたいな登場をしようとするからだろ。ていうか、最初の時も空中かでてきただろ」
「あの時は私の意識も世界に反映されてたから、可愛らしくふわりふわりと着地できたのっ! 今は枢くんの意識がほとんどを占めてるから、私がどこにでるかなんてわからないよ。学校のときだって男子トイレだったし」

 そういえばそんなことを言っていたな。なんでそんなに俺の感覚が優先されているのか疑問だが。いまはそれについて話し合っている場合ではない。
  クローゼットを開き、制服から部屋着に着替える。ユリアが「きゃっ」とわざとらしい声を上げて両目を隠す。指の隙間が開いてんぞ。

「それよりユリア。保健室で夢の中に入った時いなかったよな。どこに行ってたんだ?」
「あ、そうだ! それはこっちのセリフだよ! 私だけが姫川さんの夢の中で、枢くんは探してもどこにもいないんだもん。私ひとりじゃどうしようもないのに、どこに行ってたの?」

 着替えながら出てきた質問に、チラ見魔が白い尻尾を逆立てる。
 ユリアはユリアで、ちゃんと姫川の夢の中に行っていたらしい。本来の目的地はそちらなのだから、はぐれたのは俺の方ということになる。

「気付いたら、記憶の世界とか言う場所にいたんだ。姫川のな」

 いつもと変わらないグレーの上着から顔を出してそう答えると、頬を膨らませていたユリアが、今度は驚いた表情になる。

「あそこに行ったんだ! すごい、私も行ったことないよ。どんなところだったの?」

 ユリアも行ったことないのか。にしては記憶の世界があることは知ってるんだな。

「なんか小さい姫川がいて、記憶を見せてもらった」
「へぇ、本当にいるんだね。チャイルド」
「チャイルド?」
「うん、正しくは“内なるインナー子供チャイルド”。夢の世界では、“記憶のもの”と呼んでるよ。その人の記憶を管理しているんだけれど、本人にも、夢の世界の私たちにも会えない存在。だから実在するかは半信半疑だったんだよね」

 夢の世界でも未確認なものだったのか。それなら、ユリアの反応にも、紫ちゃんの言っていた「わたしもきたことがない」という話にも納得がいく。
 そうなると、当然一つの疑問が浮かび上がる。

「それじゃあ、なんで俺は会えたんだ?」
「…………さぁ?」

 一瞬真顔になったユリアも、狐耳の上にハテナを浮かべている。これ以上ユリアに聞いても仕方ないか。
 いまは姫川本人が先だ。

「ともかく、ユリアは姫川の夢の中に入ったんだな。どうなってた?」
「それは、直接見てもらった方が説明しやすいかな」

 そう言ってユリアが俺をベッドの方に追いやる。
 押し倒される形でベッドに仰向けになり、ユリアがその上に跨る。
 すると、淡紅色の瞳がいつもよりも真剣な眼差しで問いかけてきた。

「今日中に、決着をつけるんだよね?」
「ああ……今日終らせないと、たぶん次はない。そんな感じがする」

 理由は紫ちゃんの話だけだが。あれが姫川本人のものなら、それだけで十分だ。

「そう。なら、いこう」

 瞳を閉じる。体から力を抜く。
 ひとつひとつ思い出していく。廊下で衝突したこと。事故を目撃したこと。夢の中で俯いていたこと。記憶で泣いていたこと。
 柔らかい感触と、包まれるような感覚が全身を襲う。

 冷たい海の底にいるような気分。
 落ち着け、これは夢だ。
 大きく口を開けて、息を吸い込む。大丈夫、吸える。

 目を開くと、幾多とある煌煌の星。視界を覆い尽くす宇宙のような世界。相変わらず、白鯨は漂ったまま。
 浮遊感が消える。足が地につく。そこには、姫川家の玄関ドアがあった。俺が想像していたものだ。

「今度は大丈夫そうだね」

 いつの間にか横にいたユリアが、被った麦わら帽子のずれを直していた。

「それじゃあ、行くか」
「うん」

 そして俺は、ドアを開いた。

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