夢歩く囁き
第08話 噂
あの事故から三日ほどが経った。
あの大雨が嘘だったかのように晴れ渡る青空……を見ることもなく、俺は近所の市立図書館に来ていた。
小さいころから使っているこの図書館は、複合施設のひとつである。おかげで施設内は子どもの騒ぎ声がよく聞こえ、図書館としては少しうるさい。しかし、俺にとっては勉強や読書するのに丁度いい。少し雑音があるくらいのほうが落ち着く。
そう、俺は休日に、誰にも邪魔されず、ゆっくりと読書をするためにここへ来たのだ。ひとりで――ひとりのはずだった。
「で、なんでいるんだ。黒崎」
「たまたま青陰枢君を見かけてしまったからですよ」
小さな丸テーブルには、三つほど椅子があるが、その一つになぜか黒崎が座っていた。
「休日まで何の用があるんだ。俺はいま忙しいんだ」
「それで先ほどまで無視していたんですね。気付いていただけてよかったですよ」
黒崎が椅子に座った時、俺はその存在を無視していた。約三十分ほど。
その間の黒崎といったら、ずっとニコニコとしながら座っていたのだ。
人として嫌われるようなことをしたと思うのだが、どうしてこんな対応が取れるのか。こういう対応をされると、ものすごく申し訳なくなる。
「無視したのは悪かったよ。それで、黒崎は何か調べものか?」
「そうですね。この世界には僕の知らないことがたくさんあります。知的好奇心は、人間として当然の欲求だと思いませんか?」
そうか? 興味のないことを知ったところで頭に残らないのではないだろうか。
「青陰枢君も、そういう欲求があるからこそ、本を読んでいるのではないですか?」
「どうだろうな。これはただの暇つぶしとしてしか読んでないけど」
本を読みながら答える。こいつ、このまま話を続ける気なのだろうか。
「自分とは違う何かを知れるのは幸福なことだと思います。世の中には、何もできず言われたことをやるだけの人生なんてのもありますし」
「戦場の子供なんかはそうかもしれないな。だからといって、自分は幸福だからそれを必ず享受しましょうだなんて押しつけがましいこと、されるどおりもないだろ」
「はは。確かにそうですね。それでも、求めるものを失わないためにも、可能な限り全てを手に入れるべきだと、僕は思いますけどね」
本に向けていた目線を黒崎に移す。
欲しいものを手にするための過程に、捨ててきたものが必要だったら、自分の愚かさに嘆くのだろうか。
「だからこそ、幸福を自ら捨てるなんて勿体ないと思うんですよ」
そう言って微笑む黒崎の真意は掴めそうになかった。
「……それを言うために、俺の前に何十分も座ってたわけじゃないだろ?」
それを聞いた黒崎が、何かを思い出したように、ポンと手を叩く。
「そうでした。せっかく青陰枢君を見つけたんですから、情報を共有しようと思いまして」
「情報?」
「先日、事故があったじゃないですか。あの子、一年の姫川紫ちゃんって言うんですけどね。不幸中の幸いか、外傷もそんなにひどくなかったようで、とりあえずは大丈夫みたいですよ。知ってました?」
「知ってる」
「そうでしたか。青陰枢君、他人に興味がなさそうな振りをして、実は情報通だったりします?」
「違う違う。単に妹が同じクラスだってだけだ」
金髪の少女――姫川紫。事故があった日の夜、叶から聞いた名前だ。事故の話をしたら、叶の後ろの席の子であることを教えてくれた。
「青陰枢君、妹さんがいるんですか?」
「……まあな」
「どんな子なんですか?」
黒崎が興味ありますと言わんばかりの視線をぶつけてくる。なんか人に興味があるとかそんなこと言っていたな。こいつには叶のこと教えたくない。叶がイケメンに靡くはずが……どうなんだろ。叶の男の趣味とか知らないな。彼氏の話も聞かないし……聞かないだけで実はいるのか!? 
「……どうしました?」
俺が頭の中で苦悩していると、黒崎が首を傾げて見つめていた。
「ん? いや、なんでもない。妹は普通の子だ。普通」
「いや、特徴とか、そういうのを教えてくださいよ」
「普通。おしまい」
「ええー……まあいいですけどね。それで、姫川紫ちゃんですが」
俺が目線を本に戻したことで、言いたくないというのを察したのか、黒崎はあっさりと諦めて話を戻してきた。
「なんでも、事故の前日にクラスの子と揉めていたらしいんですよ」
それを聞いて、そういえばと思い出す。
事故の前日といえば、俺とぶつかった日だ。ボロボロと泣いていたのはクラスメイトと揉めていたからか。ぶつかったのが原因なのだとばかり思っていた。
「それで……ふふっ」
急に黒崎から笑い声が漏れだし、思わず顔を上げる。
「それで、突然廊下に飛び出したんですけどね……人とぶつかっちゃって……ふふっ……それが……青陰、枢君だったと」
見られてたのかよ!
「あの時の、青陰枢君の動揺ぶりといったら……くふっ、思い出すだけで、ふふ……」
「……やめてくれ」
「いや、すみません。そんな怖い顔で睨まないでください。僕も近くにいましてね。その時は青陰枢君だとは知らなかったんですが、話してみると冷静な人だというのが分かったので、それを踏まえたうえであの光景を思い出すとやっぱり……」
別に冷静というわけではない。他人としゃべらないから静かなだけである。あの時はいきなりだったので、俺も結構動揺していたのだ。
「そういうこと、べらべらと他人に話していいのかよ」
「え? 青陰枢君があたふたとしていたことですか?」
「違う。いや、それもだけど。姫川が他人と揉めてたとかいうの。あんまり言いふらしていいものじゃないだろ」
「そうですね、普通はしゃべりませんよ。青陰枢君だからです」
それは、俺があの事故現場にいたからだということだろうか。
黒崎は、初めて話した時からよく喋っている気がする。最初の時も、自分のことを隠しもしないでよく喋っていた。
全部話しているわけではないだろうが、あれだけ自分のことを晒されると、相手はいくらか心を許してしまうものなのだろう。人と関わるためにはまず自分を知ってもらうということか。
「さて、いい感じに時間も潰せましたし、僕はこの辺で失礼させていただきます」
そういって立ち上がる黒崎を、俺は引き攣った顔で見つめるしかなかった。そんなことのために付き合わされていたのかよ。
「そうだ、これこそ青陰枢君には関係ないですが、姫川紫ちゃんについてひとつ面白いお話がありますよ」
その時の黒崎の笑みは、子供が悪戯を考えているようなもので、聞く気のなかった俺の意識を自然と向けさせた。
「お友達と揉めたくらいであんなことには、普通ならないですよね。姫川紫ちゃん、いじめの被害を受けていたらしいです」
◆■◆
日が沈みかけた焦げ茶色の街は、車通りも少なく、道端でなりを潜めているコオロギの鳴き声が聞こえてくるだけだ。通学路と同じ大通りを歩いていれば、夏の終わりと秋の始まりを告げる心地良い風が吹いてくる。こうした空気を吸いながら、一人で何も考えずに歩くのは気持ちがいいものだ。心にぽっかりと空いた穴へと自然が直接流れ込んでくるようで、ささやかな安らぎを与えられる。
ただ、今日に限っては、ぽっかり空いた穴に別のものが紛れ込んでいた。
黒崎は、俺に関係のない姫川のことを話してきた。それは、ただ喋りたいいというわけではなく、何か別の意図があるようにも思える。
正直、姫川のことも、なんなら黒崎のことも、さほど興味はない。
姫川がいじめられている件については、俺は何一つ関わっていない。俺が干渉することでもなく、だからといって教師にチクることでもない。憶測だけで動くのは余計な被害を生むだけだ。他人による他人の噂話なんて何一つ信用ならない。だから関わることではない。
しかし、黒崎は自ら人に関わっていくタイプだ。そのうち、いじめにだって首を突っ込んでいくのではないだろうか。
自ら人に関わる人間というのは、相手からすれば、勝手に関わられるということ。姫川を通じて、俺は黒崎に関わられ始めている気がする。一定のラインさえ守ってくれるなら、別に構うことでもないだろうが。
黒崎と俺は真逆だ。俺は自ら関わらないタイプ。他者との関係性とかそういうのに全く興味ない。
くだらない持論の再確認を行っていると、姫川が事故に合った横断歩道まで来ていた。血痕なんかはすでになく、事故前となんら変わりのない状態に戻っている。
信号が青になるのを待っていると、足元に何かが落ちているのに気付いた。人々に踏みつけられたのか、くしゃくしゃの泥まみれなので拾い上げはしないが、何かのチラシっぽい。
なんとか読み取れるのは、一番上に書いてある「探しています」の太字と黒猫らしき写真だけだ。近所の猫が逃げ出しでもしたのだろう。
ふと、学校に一つの噂があったことを思い出した。
「……猫?」
晩御飯中、俺の持ち出した話に叶の箸が止まった。
叶は、自分から話すことが少ないので、話題振りは自然と俺になっている。
「そうそう。幸運を呼ぶ黒猫ってのが学校の周辺にいたんだけど」
帰り道に思い出した噂だ。
三年前から、学校の周辺に艶やかな毛並みの黒猫が現れるようになったらしい。その猫は人懐っこいが、なかなか見つけることができないそうだ。
「なかなか見つけられない分、出会ったらラッキーということで――」
「黒猫の頭を撫でると幸運が訪れる」
「なんだ、知ってたのか」
俺が入学した時も結構話題になっていた。たぶん先輩が後輩に教えることで引き継がれているのだろう。実例がないから、こういった噂はすぐ消えるものだと思っていた。
しかし、実際はこうだ。実例がないからこそ話題になるのかもしれない。学校の七不思議みたいな。
「……見たことある。チラシで」
「あ、あのチラシって幸運の黒猫だったのか」
そうだよな。学校近くで黒猫っていったらそれしかいないもんな。そもそも、他にほつき歩いている猫をみかけない。最近は猫を飼っていても外に出さないものなのだろうか。
「……あの噂は嘘」
「え? 嘘なの?」
「……本人から聞いた」
本人って猫から? え? うちの妹は猫と喋れるの? 
猫耳をつけて「にゃあ」と鳴く叶を想像していると、猫舌の叶が言い直す。
「……猫の飼い主。姫川さん」
「あー。姫川紫ね……」
またその名前を聞くとは思っていなかった。今日はとことん姫川の話題だな。
「それで、噂が嘘ってどういうことなんだ」
「……黒猫が学校周辺に現れるのは本当。だけど、幸運が訪れるとかはない。所詮噂は噂」
「へー、そんなもんか」
確かに、噂じゃなかったら、毎日触っているであろう姫川が泣きながら走り去るなんてことないだろうしな。
「でもなんで三年前から急に広まったんだろうな」
「姫川さんがこっちに引っ越してきたのが三年前」
「え、なに、姫川って海外にでも住んでたのか?」
「……生まれたときからずっと日本。見た目はハーフだから。なんでそんなことを気にする」
また叶の目が鋭くなった。怖い怖い。
「べ、別に気にしてないぞ。姫川はまだ病院なんだろ? 傷もひどくなかったらしいし、早く学校に戻ってくるといいな」
適当に流そうと思って出した言葉だったが、それを聞いた叶の視線が落ちる。なんか言っちゃいけないこと言ったみたいだ。
「……まだ目を覚ましていない」
「そうなのか……」
どれくらい体に負担があったのかは分からないが、俺が見たときは宙に浮いてたくらいだし、相当なものだろう。
「……それに、もう戻ってこないかも」
学校に、という意味だろうか。図書館で黒崎から聞いた話が頭をよぎる。
「いじめか」
知っていたのか、その言葉に叶の顔がますます暗くなった。
学年も違う上に転校したての黒崎が知っているくらいだから、生徒の間では結構知られていることなのかもしれない。
「……夏休み明けに知った」
叶は最近知ったらしい。陰湿なものだったら簡単に知れるわけないか。
「まあ知ったところでどうにかできるもんでもないだろ。そんな暗い顔するなって」
そう言って、茶碗の白米を口の中に掻っ込む。
叶の視線はテーブルのほうに落ちたままだが、ぽつりと言った言葉だけははっきりと聞こえた。
「……枢は変わった」
「ん?」
俺が変わったとはどういう意味だろうか。別段、変化を求めて生きてきたわけではないから、これといって目立つような変化はなかったと思う。部屋着だって色もデザインも変わらず同じのを買い続けているくらいだし。
「……なんでもない」
叶は立ち上がると、食べきってない自分の晩御飯を片付けてしまい。さっさと部屋に戻っていった。
食事中に事故に遭った友達の話なんかしたらそうなるのが普通か。やってしまった……。
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