夢歩く囁き

沙漠みらい

第05話 夢の中


 人は誰しも夢を見る。
 ほとんどの人間が睡眠を必要とし、浅い眠りと深い眠いを繰り返す。
 そうして生まれる夢は、現実的であったり、幻想的であったり、明確なものであったり、意味不明なものであったりするらしい。
 俺にはそんなものが一切理解できなかった。

 物心ついた時から、夢というものをみた記憶がない。
 目を閉じて、暗闇に意識を投げ込む。そこから先は何もない。永遠の孤独をみせられているかのような空間が続く。気付けば朝。体から疲れは取れているが寝たという感覚がない。暗闇から始まり暗闇で終わる世界。俺にとっての眠りはそういうものだった。
 実は夢を見ていて、起きるときに忘れているのではと考えたりもしたし、実際、眠る人はみんな必ず夢を見ているらしい。それでも、視界に広がる暗闇の中で「これは夢だ」と思うより「これは瞼を閉じた視界だ」と思うほうがしっくりくるのだった。

「……んっ……?」

 黒板とチョークが擦れあう音。ペンと机が重なる音。椅子をずらす音。

(やべ……寝てた)

 黒板の上にある時計を確認すると、まだ二時限目の途中だ。学校に来てからすぐ寝てしまった。

「ぅぁ……」

 声にならないあくびをする。普通なら、教師に注意されていてもおかしくないところだが、俺の場合は別だ。
 俺はこの教室で空気だ。誰も俺のことを認識しないし、俺も誰にも干渉しない。
 いじめられているわけではない。俺がそうしたのだ。中学に入ったころからだろうか。人に興味がなくなり、関わる気がなくなった。だからこそ、この状況がある。

 ユリアにあれこれ言ってから、少し気になっていた。
 どうしてこの状況を望んだのだろう。どうしてこうすること選んだのだろう。
 深く考えたことがなかった。それが当たり前だと、本能でそう感じていた気がする。
 恐れているのだろうか。そんなことはない。傷つくのは当たり前だ。
 もっと、俺自身すら触れられない奥底から……。

 ――考えるだけ無駄か。
 いままでそうしてきたんだ。それに、いまはユリアから関わり始めると決めた。
 とりあえず、少しずつ行動してみればいいだろう。
 窓側の一番後ろの席。教室で俺の唯一の居所。
 高校二年の九月になっても、変わらない日常を、少しだけ変えてみればいい。


◆■◆

「疲れた」
 図書館の扉を閉めて、軽く背伸びをする。
 ユリアと遭遇した日は夏休み明けの実力テストがあり、その翌日、すなわち今日はテスト返却日であった。
 図書館に寄り復習をしていたのだが、いつの間にか日も暮れそうな時間になっていた。
 さっさと家に帰ってやればいいのだが。こういうのは家に持ち帰ってしまうとやる気が出なくなってしまう。なぜだろうか。家って不思議。
 それに叶への言い訳を未だ考えていない。その前に晩御飯もできていないかもしれない。それでも、愛する妹が待っている家に帰らなければならない。今日も俺はゴミとなる。
 そんな決意を胸中で下しながら階段を下りようとした時だった。

「きゃぁ!」
「うわっ!」

 階段を目前にして、女子の悲鳴らしい悲鳴と共に体へと衝撃が走った。
 放課後の廊下に、その悲鳴はよく響いた。
 足元がふらつき尻餅をつく。木材の堅さが直接伝わってきた。

 何かがぶつかってきたみたいだ。目の前には、俺の股間の上にまたがる女子生徒。太ももから伝わってくる柔らかい感触は、かなりの大きさを示している。傍から見たらアウトな光景だ。
 女子生徒の顔があがる。肩まで伸びた金色の髪に一本の編みこみラインがあり、黒のリボンが添えられているのが特徴的だ。そして、その髪の中に納まっているのは、整った顔立ちをした小柄な美少女だった。フランス人形が動いてらっしゃる……。

 人形のような美少女は、大きなライトブルーの瞳から大粒の涙をボロボロとこぼしていた。
 え、何これ。俺が泣かしたの?
 状況がわからない。どこかぶつけたのだろうか。俺も尻がヒリヒリした仕方ないのだが。女子が泣いているとなんだか申し訳なくなってくる。

「え、ちょ、ごめん。大丈夫?」
「ひぅ。あ、えと、ごめんっ……なさっ……」

 嗚咽するような声を出しながら立ち上がった美少女は、スカートをふわりと舞い上げながら俺の上を跨いで階段を降りて行った。
 ハニーオレンジ。女の子らしい色が見えた。
 正直、気を抜いていた。廊下の角で人にぶつかるなんてラブコメ展開は、妄想はしても想像はしていなかった。まあ、ラブコメも展開されることなく美少女は去って行ってしまったが。
 先ほどの悲鳴を聞いたのか、近くの教室から何人かが顔を出している。中にはこちらを見ながらクスクスと控えめの嘲笑を向けている者さえいた。

「え、何あの人。寝転がってんの?」「てかぶつかって倒れたんじゃん? まじウケるんですけど」

 なにこれ恥ずかしい。あ、もしや先ほどの美少女はこの光景が読めていたのか。俺も一緒に逃げ出せばよかった。
 とにかく、これ以上ここで倒れこんでいるのも恥ずかしいので、さっさと立ち上がって玄関へ向かう。
 今後階段を使用する際は周囲をよく見て安全に上り下りしよう……。


◆■◆

 
 叶に頭を下げて晩御飯をお弁当にした後、まさか今日もなんて思いながら自室のドアを開くと、案の定ユリアが座っていた。

「枢くん、今日も夢の中にレッツゴーだよ!」
「レッツゴーって言っても、誰かの夢に繋がらなきゃ意味がないんだろ?」
「今日は学校で誰かとお話とかしなかった」
「してない」
「え、他人と関わるって言ったじゃん!」
「まずはユリアからとだろ」
「むー」

 ユリアが口を尖らせる。身長的には中学生くらいだけど、精神年齢はもっと低いかもしれない。

「誰かとお話していれば、その人の夢の中に入りやすいんだけどなあ。仕方ないから、クラスメイトの顔でも思い出してよ」
「うーん、思い出せるかなあ」

 人の顔って覚えるの苦手なんだよな。特徴的な部分でもあれば……。
 そう言えば、お昼のぶつかった生徒は随分と特長的な見た目をしていたな。

「はいはい、それじゃあ布団の上で仰向けになって」

 昨日と同じように、ベッドに仰向けで寝転がり、その上にユリアが跨る。

「昨日と同じように、目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をして。誰でもいいから顔を思い出しながら、意識が沈むのを感じて」

 浮かんだのは、やはりお昼にぶつかった女子生徒の顔。青い瞳から流れる涙。
唇に柔らかい感触が重なり。暗闇へと沈む。


◆■◆


「ここに来るときの呼吸するタイミングが掴めないな」
「大丈夫だよ、枢くんならすぐにできるようになるって」

 夢の入り口は、相変わらず無機質な空気を帯び、白鯨も動く気配がなく漂っている。

「で、今日もドアがない――」

 そう言い出したところで、視界が揺れた。いや、波紋が現れたのだ。そのうねりは徐々に形を崩し始め、やがて、シンプルな木製のドアが浮かび上がった。

「今日は上手くいったね。ここは枢くんが大きく干渉しているから、枢くんの想像するものが形となって表れやすいんだよ」

 ユリア先生の易しい解説が入る。
 ドアを意識したから、それがそのまま形となって現れたわけか。

「あれ? ユリアの力でここにきているなら、ユリアの想像の方が反映されやすいんじゃないのか?」
「え? あー、いまは枢くんの干渉が最優先されるようにしてるんだよ」
「調節可能なの!?」
「ま、まあそんなことはおいといて。ほら、早くいこ?」

 何か腑に落ちないが、促されるままにドアを開いた。

「……あれ?」

 ドアの向こうに広がっていたのは黒い空間だった。言葉通り、ただ黒いだけで、中がまったく見えない状態だ。

「ユリア、これはどういうことだ?」
「大丈夫。夢ならよくあることだよ」

 よくあることらしい。確かに、俺も起きる前の視界は黒いけど。

「夢のあるじらしき人も見当たらないんだが」
「奥にいると思う。進んでみよ」
「ちょ……まっ!」

 躊躇いもなく暗闇の中へと入っていくユリアを、その細い腕を掴んで止める。ちょっと離れただけでも見失いそうなのに、先に行かれては困る。

「迷子にでもなったらどうするんだよ」
「む、失礼な。私はもう迷子になるような歳じゃないよ」
「俺が迷子になるんだよ。夢の世界一年生だぞ」
「ぬぅ、慣れればそれなりに見えてくると思うけど……それじゃあ、手でも繋ごっか」
「……そうしよう」

 高校生にもなって手を繋ぐなんて……と思ったが、ユリアは何故か笑顔なので、やむを得ず了承する。
 掴んでいた腕を開放して、右手を差し出す。すると、ユリアは俺の横にぴったりとくっついて、左手の指まで絡ませてきた。所謂恋人つなぎだ。

「んふふー」

 初めての恋人つなぎに、俺は顔を真っ赤にしているというのに、ユリアは満面の笑みを浮かべている。可愛いから許す。
 そうして、やっと奥へ進む。奥といっても真っ暗で方向なんてわかりゃしない。それでも、ユリアや自分の体ははっきりと見える。不思議なものだ。
 ユリアの歩幅に合わせながら前へと進んでいく。

 それにしても、本当に黒い。
 ここに来る前だって、星みたいなものを見かけたというのに、ここには何もない。
 何もないといえば、寒さもなくなっている。
 音は……微かに聞こえているな。何の音だろうか。

「奥のほうから何か聞こえるね」

 謎の音にはユリアも気付いていたようで、少し足早になる。ユリアには音がどこからきているのかわかるらしい。その証拠に、歩けば歩くほど、音が鮮明さを増す。

 ――そんな時だった。

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