夏色リバイブ

微炭酸

第24話汚れ

「あの、びしょ濡れですけど、傘差さずにきたんですか?」

 図書館から出るなり、怪訝そうに僕に視線を向ける彼女。

「あー、急いでたからね」

 相変わらず、外は土砂降りだ。

 彼女は首を傾げる。

「それより、清水さんに話したいことがある。一ヶ月前のことだ」

 刹那、彼女は表情を一変させる。うつむき、唇を震わせ、両手で自分の身体を抱きしめる。今にもその場に座り込んでしまいそうだ。

「辛いことを思い出させてしまって、申し訳ないと思う。でも、どうしても――」
「帰ってくださいッ!」

 彼女は驚くほど大きな声で僕の言葉を遮った。

「それはできない……」
「嫌です! 何も話したくありません! あなたがどこでその話を知ったのか知りませんが、私から話すことはありません!」

 涙をこぼしながら、睨みつけてくる彼女。先程までの美形は大きく崩れてしまっている。

「この話が、どれだけあなたにとってどれだけ辛いのかは、理解してい――」
「理解できてないから! あなたは来ているんでしょ! どうして、みんな私を苦しめるの!? ふざけないでよ! これ以上、私を私の夢から遠ざけないで!」

「夢と希のどっちが大事なんだよ!」

「えっ……?」

 彼女が顔をあげる。

「いいか、言い方はきついかもしれないけど、希は清水さん、あなたの事件のせいで苦しんでいるんだ! あなたの知らないところでね」

「それって、どういう……」

「一ヶ月前のことは希に聞いて全て知っている。強姦されそうになったことも、相手に大怪我させてしまったことを隠蔽していることも」

 彼女はまた俯いた。よほど、隠蔽していることが後ろめたいのだろう。

「隠蔽しているという事実を利用して、須藤は希に自分と付き合うように脅迫しているんだ!」

「脅迫って……そんな、希は何も関係ないのに……」

「事件に直接関係なくとも、希は清水さんの夢のために自分を犠牲にしようとしている。このままだと、清水さんがされそうになったことを、希は今夜にでもされてしまうんだぞ! 清水さんは、それでも夢を取るのか! 親友と自分の夢、どっちが大事なんだ!」

 彼女はよろめく。頭を手で抱え、目をきつく閉じている。

「私は……私は……」

「今日の夜九時。学校前の公園に須藤は希を呼び出してる。いい加減、返事を聞かせろってね」

「……そんなの、ダメに決まってるじゃん! だって、だって――希は私の親友だよ?」

「じゃあ、清水さんは自分が何をするべきか、分かるよね? ずるい言い方でごめん。僕にはこれくらいしかできることがないんだ」

「ううん……。このままじゃ、私また後悔することになってた。たぶん、一生拭えない後悔を。伝えてくれてありがとう、えっと――」

「あぁ、名前ね。んー、今日だけは希の彼氏ってことになってるから、彼氏さんとでも呼んでおいてもらえるかな」


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「ど、どうして春華がここにいるの!?」

 清水さんは希の呼びかけには答えずに俯いている。

 希は今の状況が飲み込めていないようで、清水さんと僕の顔の間に視線を彷徨わせている。

「来てくれたんだね。清水さん」

「えっ? 幽霊くんと春華いつのまに知り合ったの!?」

「ちゃんと話したのは今日だけど」

「それって、この件を話したの……?」

 僕は無言を貫いた。もちろん、肯定を意味する方法として。

「もー! 幽霊くんの馬鹿! アホ! 何が僕に任せてよ! 春華に知られたら、何の意味もないじゃん!」

「馬鹿は希だよ!」

 俯いていた清水さんが声を張り上げた。
 突然、馬鹿呼ばわりされた希は驚いたようで、目を丸くしている。

「おやおや、騒がしいと思ったら、彼氏くんはともかく、清水さんまでいるじゃないか」

 暗闇から声が聞こえて来た。
 大きな声が飛び交っていた小さな公園は一変して静寂に戻る。
 ゆっくりと須藤が姿を表す。相変わらず、手は鉛筆の炭で黒くなったままだ。

「この周りには一応、民家もあるんだ。静かにしなさい」

 を吐く須藤は、清水さんに焦点を合わせ、腕を組んでいる。

「それで、僕が用のあるのは水上さんだけなんだが。清水さんと彼氏くんは親御さんが心配するから、早く家に帰りなさい。何なら、タクシーを呼んであげようかい?」

「私は、須藤先生にお話があります!」

 清水さんが一歩前に出る。
 須藤は歩みを止めず、僕らの前を通り過ぎる。すれ違いざまに希に視線を送ると、彼女はまたしても僕の背に身を隠した。須藤は呆れたように息を吐くと、そのまま清水さん尻目にベンチに深く腰をかけた。

「仕方ない。話は聞いてあげるから、その代わり、すぐに帰るんだよ? 先生はこれから忙しいんだ」

 この男はどこまで教師面をするつもりなのだろうか。

「今すぐ、希に謝ってください」

「どうしてだい? 謝るようなことはした覚えは無いよ」

「付き合うように脅迫しているじゃないですか!」

「それは正当な対価を要求しているだけだから、どこにも謝る要素は無いと思うよ」

 須藤の一切悪びれた様子の見えない態度に清水さんは思わず言葉を失った。かくいう僕も開いた口が塞がらなかった。
 これまで汚い大人は山程見て来たが、この男はそんな汚い大人たちとも一線を画している。

「そもそも、今のこの状況は清水さん、全て君のせいだよ。彼女は君のために自分を差し出す覚悟でこの場所に来たはずだよ。君の将来を守るためにね。それなのに君がのこのこと出て来たら、彼女の覚悟は水の泡じゃないか」

 清水さんは爪が深くめり込んでしまうほど強く拳を握っている。それが怒りなのか、悲しみなのかは分からない。しかし、彼女はそれこそを持ってここに来たのだ。

「そんな覚悟、希は持つ必要はない……。私、警察にいって全部話して来ます。それで、この件は終わりです」

 須藤は眉を一つ動かした。気のせいか、目つきも少し悪くなったように見える。
 清水さんが警察に全てを話せば、須藤は希を脅す材料が無くなる。つまり、この件は自然と終わりを迎えるのだ。

「そんなことをすれば、君は志望校には受からないと思うよ?」

「それはダメ!」

 希が僕の背から飛び出し、声をあげる。

「春華は何も悪くない! だから、警察はダメ! 私、春華のためなら我慢できるよ……?」

 清水さんは希を見て、微笑んだ。


 親友だからこそ我慢しようとする。

 親友だからこそ将来を犠牲にしようとする。


 一瞬、脳裏に彼羽が浮かんだ。僕がどちらの立場でも、きっと同じような選択をするだろう。
 お互いに思い合っているからこそ、相談できないし、自己を犠牲にしようとするのだ。

「自分の夢と親友のどっちが大事かなんて、考えるまでもないよ。大丈夫。たったの一年遅れるだけだよ」

「春華……」

 須藤は大きく舌打ちをする。目尻はつり上がり、とても不機嫌そうだ。

「そういうことなので、希のことは諦めてください。須藤先生」

 清水さんは毅然とした態度で言い放った。

「あー、はいはい。もう警察にでも何でも行くがいいさ。元々、僕にはノーリスクハイリターンな件だったんだ。水上さんのことはにするよ」

 気だるそうに汚れた手でタバコに火をつける須藤。
 どうやら彼はひとまず、希を脅すことは諦めたようだ。しかし、その口ぶりから察するに、彼はまた希を狙うだろう――今回のように故意的に。

 そろそろ、僕も仕掛けるとしよう。

「警察に御用になるのは須藤先生――あなたですよね?」

 街灯に虫がぶつかり、激しく火花を散らして地面に落下した。

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