葉桜の由来

こんぱす

葉桜の由来(下 若葉)

以前と同じ悪夢の果てに、私は目を覚ました。見慣れた天井が映っている。
「あれ……」
「あ、彬子! お母様を!」
「うん!」
彬子が駆けていく。
「サク……? 私は……」
次の瞬間、私の頬にピシりと痛みが走った。
「う……」
「馬鹿っ!! どれだけ心配したと思ってるの!!」
「あっ……」
そこで思い出す。そうだ、私は、川の中へ……。
「私は、何で?」
「対岸の村に漂流したところを助けられたそうよ」
箪笥に寄りかかりながら言ったのは和子だ。いつもの微笑が口の端には浮かんでいたが、瞳には明らかに怒りが宿っていた。
「そう……なの……」
「馬鹿ね、本っ当に……!」
顔をしかめた和子が珍しく声を荒げた。私はそれを甘んじて受け入れるしかなかった。
「変よ。ここ最近、姉さん……」
目元を抑えながら、サクは泣いてる。
「……」
「実和さん」
すると、背後から声がした。振り返ると母が私を見下ろしていた。
「お母様……」
「すべて説明しなさい」
「……」
「いいですね」
私は頷くよりほかなかった。
夕餉の後、父や母に私は全てを話した。相手が死んでしまったこともあって、私と彼との関係がどこまでいっていたのかは問い詰めてこなかった。しかし、どんな理由があっても、そのような関係を隠していたことには、相応の罰を与えなければならない、と父は言った。
もし、叔父がいたら、まあまあと仲裁してくれたかもしれないが、今はそれも期待できない。
そして、その翌日から、私はこの家を出ることを禁じられた。サクや彬子は「それはかわいそう」と行ったが、父母と和子が、私が何をしでかすかわからないから、と断行したのだった。拘留場所は、共有部屋の隣の座敷になった。
「姉さんのことは、わたしが監視していますから」
私が座敷に入ったのを確認する父母に、和子が言った。
「頼んだ。くれぐれも無理はしないように」
「わかっています」
そんなやり取りをすると、両親は部屋の前を去って行った。
二人きりの座敷。和子まで、私につき合わせてしまったのは申し訳ない。それを伝えると、和子は鼻で笑った。
「そんなこと言っても、監視の目は和らげないから」
「別にそんなつもりで言ったわけじゃ……」
「信じられると思う? 姉さんの言葉を」
「……」
「さ、寝ましょ。あ、寝るときは縄で腕縛るから」
そういうと、和子は縄の輪っかを取り出し、それを自分の手首と私の手首にそれぞれはめ込んだ。
「こ、ここまで」
「ここまでやらせるほど、姉さんが死のうとしたことがわたしたちにとっても大きかったってこと。わかるでしょ?」
「……」
「黙ってばっかり。さ、もう寝ましょう」
そう言うと、和子は私に背を向けて布団に入った。
どうしようもなく、私も布団に入る。
「和子」
どうしても眠れず、私は声をかけた。しかし、反応はない。もう寝てしまったのか、起きているけれど無視しているのか。
「……」
仕方なく、瞳を閉じる。けれど、そうすると、あの人のことばかり頭に浮かんで嫌になる。
光次郎さん……。ごめんなさい。私はあなたの所には行けませんでした。あなたのことを愛しているのに、結局私は、あなたの手を離してしまいました……。
涙が浮かぶ。しかし、泣き声は上げないように唇をかみ、手で口を覆った。そうしないと、和子に「うるさい」と怒られてしまいそうだったから。
拘留生活は都合二カ月に及んだ。




その日は紐で手首を繋がれて眠りについていた。
「おやすみ姉さん」
「おやすみなさい」
互いに背を向けて眠る。真夏なのに、澄んだ月の光が心地よい。こんな日には縁側で過ごすと気持ちがいいんだけれどな。
お庭の方に手を伸ばす。すらりと覗いた自分の腕が、思った以上に痩せてしまっていることに気付く。
「はあ……」
瞳を閉じる。涙はとうに枯れてしまった。ただ漏れ出てくるのは溜息と真夏の空気にこし出された汗だけ。
もう寝たい。けれど、眠気は全くない。かといって身体を起こすと和子に叱られそうなので、寝転がって夜明けを待とう、と決めた。
ふいに、庭から差し込んできていた月光が消えて、部屋の中が暗くなった。途端に蒸し暑さが体中を纏う、そんな感覚を覚える。
かけ布団を蹴飛ばして、瞳を閉じる。同じ暗闇の世界は、目を閉じる必要がないのではないかと思うくらいだ。
ただなぜだろう。瞼の裏の暗闇にだけ、彼の面影が映される。
胸が痛い。もう二月近く経つのに、まだ私は……。
これからもこんな懊悩を胸に宿して、私は生きていかなければならないのだろうか。
喘ぎのような呼吸をもらしながら暗闇の中、私は一人、目を閉じた.


「うう……」
それからどれくらい時間が経っただろう。私は目を開いた。外はまだ暗く、明け方というわけでもなさそうだ。
「あつい……」
喉が渇いたけれど、和子を起こすわけにもいかないため、諦める。
汗が気持ち悪い。せめて身体を拭こうと起き上がった、そのときだった。
窓の外に黄緑色の光が見えた。
「蛍……?」
ふわふわと浮遊するその光。同じような光がどこからか集まり始める。
「え……何?」
緑の光は離合集散を繰り返している。見間違いだろうか。それは段々と人型のようになっていく。
瞳をこする。しかし、目の前で起こっている現象は、消えない。現実なのだ、これは。
私は立ち上がっていた。寝間着姿のままガラス戸を開ける。
光に包まれた何かは、やはり人間の姿だ。右手らしきものがゆらりと上がる。
「あ……」
やおら踵を返した何者かは、庭の外へ出ていった。私は、なぜだろう、足袋のままその後を追っていた。


人のいない街中をその光は進んでいく。さっきまでは寝ぼけていて思考に靄がかかっていたけれど、今はなんとなくその正体に見当がついていた。しかし、そんなこと、あるのだろうか。小説や物語の中ではないのだから、こんな……。
光は町中を進む。私はその後方を歩く。
生温かい風が吹いているが、汗のせいで冷たく感じる。上着を羽織ってきた方がよかったかもしれない。
その風に靡く様に、光がこちらに飛んでくる。取ってみようと、手を伸ばす。しかし、手のひらに浮かんだと思った瞬間には消えていた。まるで氷のようだったけれど、手のひらには何の余韻もない。
そのとき、目の前の光が右折した。
「ここ……」
声には出してみたけれど、心の何処かではわかっていた気がする。ここに来るんじゃないのかと。雑草をかき分けて堰堤に上る。夜の闇の中だけれど、恐怖は感じない。そういえば、あの祭りの日もそうだった。彼がいたから。
「光次郎さん」
堰堤に上り、葉桜の下。その光に私は言った。光がゆるりと振り返る。輝きのせいで顔や体は見えない。
「光次郎さん……なんでしょう?」
表情は見えないけれど、優しく笑っているような気がした。
「光次郎さん……」
『申し訳ない』
「え?」
頭の中に声が伝わってくる。
『あまつさえ、出征なんてことになって、君を悲しませたのに、こんなことになってしまって』
彼の声だった。優しい、感情の起伏の少ない声。私があの祭りの後から、何カ月ももう一度聞きたいと望んだ声。
「光次郎さん……!」
『時間がない。一つだけ、僕の頼みを聞いてはくれないか』
「なんですか……?」
『僕の身体を、その一部でもいい。この葉桜の下に埋めてほしい』
光は、あの日彼が見上げていた葉桜を指さした。
「この樹に?」
『ああ。僕の、一番好きな場所なんだ。頼む』
「約束します……! 約束しますから、もっとそばに……」
すると彼の光は私の方に近づいてきた。背の高い、彼の光。その温かさに包まれる。
『もう一度君に会えて良かった。ありがとう』
「私も、会えて良かった。でも、叶うなら、このままずっとあなたの側にいたい……」
『僕もだ。しかし、もう、行かねば』
光が薄まっていく。同時に、急速に睡魔が降りかかってくる。
「光次郎さん……」
『さようなら。実和』
そんな囁きが耳に触れた。その次の瞬間、私の意識は暗転した。




体をゆすられる感覚があって、私は目を覚ました。
「姉さん。もう朝」
「あ、んん。おはよう」
「おはよう姉さん」
「これ外すわね」
和子が手首の紐を外す。手首には、きつく縛ってあったせいか、赤く痕が残っていた。
「……」
「姉さん、どうかした?」
じっと手首を眺めていると、不審げに和子が言った。
「ねえ、和子。これ、途中で外したりした?」
ボサついた髪の毛をとかしていた手を止めて、和子が眉を顰める。
「外すわけないじゃない」
「そう……よね」
窓の外。昨日あの光が立っていた庭。今はいつもの通り、池の水に波紋が立ち、その真上に立つ梅の木から葉が落ちている。
あれは夢だったのだろうか。それにしてはやけに鮮明な……。身体にはまだ彼の温かさが残っている気がする。
「ちょっと姉さん!」
そのとき、突然和子が叫んだ。
「足、何それ。すごい汚くなってる」
「えっ?……あっ!」
足袋の裏面。家の中では絶対につかないような、焦げ茶色の汚れがついていた。まるで、草履を履かないで外を出歩いたかのような……。
「外行ったの?」
失望を宿した睨みを向けてくる和子に、私は首を横に振って否定する。
「まさか、だって、これ外せないし」
「でも、じゃあこの汚れは何?」
「さあ……」
「わけわからない」
「わからないのはこっちの方よ……」
夢だけれど夢ではない。けれど、夢でないなら、この手首の紐はどう説明すればいいのか。
次第に夜の、あの景色が、温かさが、声が蘇る。
「そうだ……」
「何? 姉さん」
「和子。一つだけ、見逃してくれないかな」
「え、何を」
「私、約束したの。お願い」
「……外行くってこと?」
小さく私は頷く。わかっている。私が信頼を失っているのは。けれど、何があっても、私は彼の願いをかなえてあげたい。あんな姿になってまで、私の元を訪れた、彼の、最後の願いを。
「お願い、和子。お願い……」
和子の手を右の掌で包んで、私は訴える。和子は人差し指の付け根を唇に当てて考え込んでいた。本当に考えこんでいる仕草だ。
長い長い沈黙があった。その果て、和子は重たそうな口を開いた。
「駄目。認められない」
「和子……」
「でも、一つ条件呑んでくれたらいいよ」
「何?」
飛びつくようにそう聞くと、和子は俯いていた顔のまま、瞳だけを私の方に向けて言った。
「私もついていく。そういう、条件」


隣村へ続く橋。以前は、篠突く雨の中、一人で渡った橋を、今日は姉妹四人で歩く。
元は和子だけの話だったのだが、和子の外出は危険という母の意見と、サクと彬子では監視にならないという和子の主張が衝突した結果、私の見張りとして和子が、その和子に何かあったときのための補助員にサクが、そしてとくに理由はないが彬子もついてくることとなった。
和子に気を遣って、ゆっくりと私は歩く。彬子は遥か前方を走っていて、サクはその後を追っている。補助役とは何だったのだろう。
「和子、大丈夫?」
「うん。意外と散歩もいいものね」
微笑する和子。
「ならよかった」
「彬子ー、そのあたりで止まりなー」
サクが追いかけるのをあきらめて叫んだ。
サクは私の代わりに彼の家へ行ったことがあるため、家の場所を知っているのだ。
それですら想定外だったのに、こんな風に、彼の家まで皆で行くことになるなんて、たった数日前には想像できなかった。
「元気だなぁ」
隣、和子が呟く。普段、布団の上での生活を余儀なくされている和子からしたら、そんな妹たちの姿は憎らしく思えても仕方がないはずだ。
けれど、そんな負の感情はどこにもなかった。微かな羨望と母親のような慈愛が、その表情には浮かんでいるだけだった。
道祖神を通り過ぎ、私たちは彼の家の前へと到着した。


「おや。北条さん」
私たちを見て、柔い笑顔を浮かべたのは光次郎さんの姉だった。
「お久しぶりです。すみません、こんな大勢で」
「いえ。こちらこそ、申し訳ない。まさかあんなことになるなんて」
「いえ……」
「みんな、妹さんたち?」
「はい」
そう返事をして、私は日陰の岩に座る和子、「妖怪がいる……」と田んぼを指さしている彬子、「タガメだよあれ」と笑っているサクをそれぞれ指さして紹介した。
「へえ」
「あの、伊那さん。今日は、一つ、お願いがあってきたんです」
「お願い?」
「単刀直入に言います。光次郎さんのお骨を、分骨させていただきたいのです」
意想外だったのだろう。当然だ。彼女は眉根を寄せて、首を傾げた。
「分骨?」
「ぶしつけなお願いなのはわかっています。ですが、事情があるのです」
私は、昨夜の夢ならぬ夢を彼女に話した。突飛な話なのは分かっていたが、それでも語るしかなかった。
彼女は笑うでも怒るでもなく、彼女は私の話を聞いてくれた。ただ、無反応なのは怖かった。
「……というわけでして、どうか、お願いします」
頭を下げる。承諾してくれなかった場合は膝をつく心構えも出来ていた。しかし、彼女は即答した。
「わかった」
「え?」
まさかすぐに承諾されるとは思わず、逆に私は驚いてしまう。顔を上げると、彼女は涼しげな笑みを浮かべていた。
「あたしもね、夢を見たんだ。昨晩。光次郎が枕元に座って、あんたが来たらその頼みを聞いてあげてほしいって。四十九日の最後に、あいつはあんたのとこに現れたんだね」
「あっ……、そうか、昨日は……」
忘れていた。昨日は彼が死んでから四十九日。彼が現世を旅立つ日だった。
「遺骨はまだ仏壇にある。少し待ってて」
そう言い、彼女は家の中に戻る。私は涙の落ちるのを感じながら、再度首を垂れた。


小さくなった彼を懐に入れて、私たちは土手に向かった。
坂を上るときには和子の体調が心配なので、彼の入った小さな骨壺をサクに預け、私が彼女をおぶった。
「……桜、真緑ね」
背後の感触。心の中に浮かんだある言葉を飲み込み、私は言った。
「来年はお花見したいなー」
スコップを持って歩く彬子が地面を蹴った。
「お花見かあ。しばらくやってないね」
片手で持てるくらいの小さな入れ物を丁寧に両手で持ってサクが言う。
「ござ敷いてさ、おにぎりとかたべるの。楽しそうじゃない? ね、実和姉ちゃん」
「そうね……。戦争が終われば、そういうのもいいかもね」
「ねー」
忌々しそうに空を見上げながら、彬子は突然走り出した。
「こけないようにねえ」
背中から和子が言うと、彬子は「ういぃ」と酩酊者のような返事をした。
いつもならサクが追いかけるところだったが、今は慎重に歩を進めていた。
坂を上り終えると、大河が見えた。無常に彼を運んだ、川の流れ。
「姉さん、もう大丈夫よ」
後ろから和子の静かな声。彼女を地面に下ろして、サクから骨壺を受け取る。
「彬子に、そこで待っててって言って」
「うん」
サクは駆け出す。「彬子―!」と呼ぶ声が、真夏の堰堤に響いた。
「あれじゃ怒ってるみたいじゃない」
カラカラと和子が笑った。ここしばらく、冷たい笑みしか見ていなかったから安心する。
「和子。あんまり無理はしないでね」
「姉さんに言われたくないけどね」
「んん……」
何も言い返せず、川沿いの、夏とは思えないくらい清涼な空気の中を歩く。
彬子とサクが、少し前方で待っている。そこに着きそうになったとき、急に和子が言った。
「ごめんね、姉さん」
「何が?」
「びっくりさせちゃったでしょ」
「何の、こと?」
もうわかっていたけれど、私は白を切った。おぶったときに感じた、気づいてしまったその事実。いや、本当はとうの昔に気づいていたけれど、忘れていたこと。
「気づいていないならいいわ」
和子は重たそうに身体を動かし、目を細めて言った。その表情は、全てお見通しと言っているようだった。それなら偽らざる言葉を言えばよかった。
「姉さんは優しいわね」
和子は笑う。叔父の小説と偽って、自作の小説を渡したときのような笑みだった。


彼の愛した葉桜の下、彬子がスコップで穴を掘る。
「変わろうか」
「やだ」
私やサクが言っても、彬子は頑なに断った。そう言えば父や叔父が家の裏に地下壕を作っていた時も、彬子はずっと二人に付き添っていた。
「彬子さんのおかげで仕事が半日早く終わったよ」と言ったのは叔父だった。
「彬子がやった方が早いもん」
もんぺが汚れるのも厭わず、芝生に膝をついて彬子は一心不乱に地面を抉っている。
「頑張り屋ね」
木の下の日陰で、幹に背中をあずけてその様子を見ていた和子が、彬子の背中を撫でた。
「彬子、それくらいでいいよ」
骨壺を持って私は穴の前に立つ。
「えー、もっと掘れるのに」
「目的変わってるじゃない……」
サクが呆れたように言う。
「もう大丈夫。これだけあれば。ありがとう彬子」
そう頭を撫でてやると、不機嫌そうな表情はどこへやら、彬子はパッと明るい笑みを浮かべた。
「こっちおいで。彬子。サク」
和子が二人を手招きした。私と彼との別れを邪魔しないようにという配慮だろう。
私は、骨壺を額に当てた。
(光次郎さん。紆余曲折ありましたが、これでお別れです。私はあなたのことを、心の底から敬愛していました。いえ、今でも敬愛しております。光次郎さん。あなたとの約束は、私が果たしましたよ。これで、安心したでしょう。ここなら、あなたの大好きな葉桜をいつでも見られますものね。ねえ、光次郎さん……)
「姉ちゃん」
「しっ」
そんなやり取りが背後で聞こえた。私は骨壺を目元に落とし、数秒黙禱して、彼の魂を埋めた。
静かな風が吹く。後ろの妹たちは何も言わない。
ふっと一息を吐いて葉の間からのぞく蒼穹を仰いだ。
「和子、サク、彬子。帰ろう」
振り向いてそう声をかけると、三人は強張っていた表情を柔らかくした。







長い冬が明け、春が訪れた。
戦争はあの後すぐに終わった。人々は今までの姿勢が嘘かのように、戦争は悪だと言って回っていた。信念のない主義主張など塵芥と同じだ。
私たちはあの日約束した通り、わずかな食べ物を持って、薄桃色が咲き誇る土手に上がった。
川の流れは相変わらず絶えることを知らない。けれど、最近知ったが、実は川は海に向かって流れて終わりではないのだという。雨となって、再び地に降り注ぎ、また海に向かっていく。その繰り返しなのだという。……関係のない話だった。
バスケットを持ったサクと彬子が前を歩いている。何の憂いもない、快活な笑みは、戦時下では見ることはできなかった。
和子はいない。
今日は少し体調が悪いようで、部屋でおとなしくするのだという。しかし、彼女の方も、もう気を病む必要はない。
叔父は今年の一月に復員し、再び小説を書き始めた。今は最新作片手に、和子の側に居てくれているはずだ。
「去年穴掘ったのあのあたりだよね。……あれ、おかしいな」
サクが首を傾げた。私も思わず足を止める。
「姉ちゃんどうしたん?」
彬子が私の腕に抱きついてくる。しかし私はそれにこたえることが出来なかった。
「花、咲いてない……」
「あの木って桜じゃなかったの?」
「いや、桜の木よ。去年はちゃんと花を……」
ざわわ……と花が散る中、その木だけは葉を揺らしていた。
「……」
季節外れの葉桜の下に立つ。彼の一部が眠る地面には、葉々が山のように積もっている。まるで、彼の眠りを包み込むように。
「変な桜。春なのに花を咲かせないなんて。ねえ、姉さん。……姉さん?」
「そうね」
「何笑ってるの」
「何でもない。ね、二人とも。この木の下でお花見しよ」
そう言うと二人は顔を見合わせた。
「花見じゃない気がする……」
ボソッと彬子が呟いた。しかし、私の心中を察したのか、サクがその口を手で塞いで「いいんじゃない。ここからだと向こうの花綺麗に見れるものね」と笑った。
「ありがとう。サク」
「うん。ほら彬子、シート出して」
「うん」
妹たちが準備を始める。
私は上空の緑を見上げた。
サクの言う通り、おかしな話だ。春なのに花を咲かさせないでいるなんて。けれど、彼がここに眠っているということを思えば、何の不自然もないかもしれない。いや、むしろこの桜は葉を咲かせていなければならない。彼の大好きな、葉桜でなくてはならないのだ。
風に揺られて葉が落ちてくる。その一つを私は手のひらにのせて、軽く口付をした。
瞬間、川の方からふわりと包み込むような風が吹いてきて、心地の良い香りが漂った。
葉桜の方が好きだと微笑んだ彼の気持ちが、今やっとわかった。
「ちょっと実和姉ちゃん、変なことしてないで手伝ってよ」
座っていた彬子が着物の裾を引っ張って、呆れた声で言った。
「そっとしといてやりな。実和姉さん、センチメンタルになってるんだから」
「え、何? せんちめんたる?」
「大丈夫大丈夫。手伝うから」
持っていた葉をそっと地面に置いて、私はしゃがみ込んだ。
「もうちょっとこっちにしよう」
シートの位置をさりげなくずらす。彼が埋もれずにいれるように。
朝から、和子も含めてみんなで作ったおにぎりを広げて座る。
「いただきまーす!」
明朗快活に彬子が言い、おにぎりを頬張った。その瞬間、さらに笑顔を輝かせた。
「うん! おいしい!」
「あ、ほら彬子。お米ついてる」
「うん?」
「顎のとこ」
「ん……、あ、ほんとだ」
「まったく」
彬子の前ではお姉ちゃんとして振舞いたいのだろう。サクは三つ編みの髪の毛先をいじくりながら、幸せそうに食事を続ける彬子の様子を見ていた。
「サクも食べな」
「え?」
「サクも一生懸命作ってたでしょ。だから、ほら」
重箱の中の、ひときわ大きなサク特製のおにぎりを渡すと、サクは彬子のように表情を明るくして「ありがと!」とそれを受け取ってかぶりついた。
「んん……おいしい……」
「ふふっ」
その頬についたご飯粒を取ってやると、彼女は頬を染めて決まり悪そうに俯いた。
幸せだ。叶うなら和子にも、もっと望むなら、彼にもいてほしかった。けれど、それでも私は今、確かにこの手に幸せをつかんでいる。
花散る季節、唯一若葉を降らす桜樹の下、心地の良い日陰の中、私は涙交じりに笑った。

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