葉桜の由来

こんぱす

葉桜の由来(下 落葉)

空襲のあった翌日の朝、私は一人、駅に向かった。
駅のある三丁目は父が言っていた通り、倒壊した家や電柱があって酷い状態だった。
駅の屋根も爆撃による穴が開いていたが、電車は動いているらしく、思いのほか多くの人がいた。それがよいことなのか悪いことなのか、答えを出すのは難しいけれど。
枯草色の軍服を着た男性たちがこちらに向かって歩いてくる。その側で、見送りの人たちが日の丸の旗を振っている。しかし、彼はそこにはいなかった。
それから数時間、昼過ぎまで待っていたが、彼は姿を見せなかった。
「間違えたのかしら……」
さらに一時間すると、雨が降ってきた。
「えぇ……」
傘なんて持って来ていない。どうしよう、と分厚い雲を見上げる。しかし、雨の止む気配など微塵もないし、彼の来る様子もない。
「どうしよう……」
すると、駅舎の中でずっと待っている私を不思議に思ったのか、歳を取った駅員が話しかけてきた。
「お嬢さん、どうかしたかい?」
「あ、すみません。出征の見送りで……」
「それなら、さっき行ったが」
「あ、いえ。あの中にはいなかったんで……」
すると駅員さんは首をひねった。
「今日はもう、金沢の師団に行く人はいないはずだがね」
「え?」
「お嬢さん、時間ば間違えたんじゃないかい?」
「そんな、はずは……」
彼から貰った手紙を見る。そこには確かに金曜日と書いてある。
「……」
何か、あったのだろうか。直接行きたいところだが、この雨では……。
そう思っていると、駅員さんが「これ持っていきなさい」と、黒い傘を差しだした。
「え、でも」
「いいからほら。ここ居られても困るんでな。こっちとしても」
そう微笑んで、彼は引っ込んでいった。
私は黙礼して傘を差し、駅舎を出た。


三丁目の東の方にある、彼の住む村へ唯一繋がる橋を渡る。橋の下を流れる川は雨のせいか増水していて、水も濁っていた。
普段走らないせいか、長い距離でもないのに息が上がる。
田んぼの間の道を進み、路肩の道祖神を横目に走り、小山の麓にある彼の家についた。一度も入ったことは無いけれど、出会った頃、彼に対岸から紹介してもらった。
家の前、膝に手を置いて一度息を整え、私は家の中へ「ごめんください……!」と持てる限りの声を出した。
しかし応答はない。私は再び声を張り上げた。
「すみません!!」
すると、庭の方から「どちらさまでしょう」と小さな声がした。
柴垣の向こうに、背の高い男性がいた。光次郎さんの父親にしては、若いように見える。
「すみません、私、一丁目の北条と言います。光次郎さんはいらっしゃいますか」
「……」
柴垣の向こうのその人は、途端に言葉を切った。
「あの……」
「光次郎は、いません」
「え?」
「光次郎は、いません」
「いや、そんなはずは……。今日出征ですよね?」
「……」
明らかに様子がおかしい。どうしたものか、と思っていると、彼は一つ大きくため息を吐いた。
「昨日、空襲があったでしょう」
「……はい」
「光次郎はそれ以来帰ってきていません」
雨音が遠くへ離れていくような感じがした。頭の中が真っ白になるのと同時に、五感のすべてが失われたような感覚に襲われたのだった。


光次郎さんは昨日の昼、山の裏手にある畑の様子を見に向かったという。しかし、それを最後に彼は姿を消した。
彼の父と兄、そして姉は、近所の住人たちとともに捜索したようだが、結局見つからなかったらしい。
「今日も探す予定だったんですが、生憎の雨で……。今は父と姉だけで山に行っています」
在宅していた光次郎の兄は、そう言った。口では言わないが、もう、諦めてしまっているような声だった。
傘をさすことも忘れて道を歩く。
雨は滝のように打ちつけている。髪も、首も、肩も、背中も、すべて雨に濡れた。
路肩にしゃがみ込む。手で顔を覆う。
雨が降っていてよかった。泣いているのかどうかわからなくなるから。
雨が降っていてよかった。この嗚咽が、無かったことになるから。
死んでしまったとは思いたくない。けれど、駅前のあの被害を見ると、楽観的にはなれない。
もし、万が一、最悪の状態になってしまっていたら、どうしよう。
「どうしよう……」
涙に溺れたようにこもった声で、私はつぶやいた。それしかできなかった。
駅に戻って傘を返し、私は家への帰路についた。駅員さんは、「身体を壊すからさしていきなさい」と後ろから言ったけれど、それに応える余裕はなかった。


びしょ濡れの状態で家に帰ると、それを見た彬子が悲鳴を上げた。
「実和姉さん! どうしたのそんなに濡れて!」
サクが手ぬぐいを持って走ってくる。
「何でもない……」
「なんでもないってことないでしょ! ほらもう服脱いで!」
何もする気が起きず、私はとりあえず靴脱ぎ場に座ろうとした。しかし、次の瞬間。鈍い痛みが腕に走った。倒れたのだと気づくのには、少し時間差があった。
「きゃああ! お姉ちゃんが!」
「彬子! お母様呼んできて! 早く!!」
瞳を閉じるとそんな声だけが聞こえた。しかし、それもすぐに消えてしまった。私はもう、起き上がる気力すらなく、昏睡の淵に落ちた。




悪夢を見た。
世界がすべて赤に染まっている。私はひとり、誰もいないその町中を歩いている。見覚えのあるようなないような、よくわからない町だ。
遠近感がめちゃくちゃになっている。遠くにあった何かが近くに迫って来て、かと思うと近くにあったものは遠くに離れていく。それが連続して……。
足元を見ると真っ暗になっている。影というわけでもなく、ただ黒い地面だ。なんなのだろうと不思議に思った次の瞬間だった。
ふわり、と私は浮遊した。しかし宙に浮いたのではない。地面だと思っていたそれに、落下したのだ。
何かに似ている、そんな印象が胸に宿る。(落ちる落ちる落ちる)。……渦? 渦だ。そうだ。大河の流れに突然現れる渦だ。(落ちる落ちる……)。落ちるまで気づくことのできない落とし穴だ。(落下する。どこまで?)。
死ぬ? このまま落ちたら、死んでしまう? 嫌だ、それは。……けれどそうすればあなたに会える?
落ちる落ちる落ちる。陥穽に沈む。私の最後はここ? 彼の最期と同じ場所? でも本当に彼は死んだ?
「うう……ああ……」
私は思考に押しつぶされながら呻き声をあげた。言葉に出来ない感情はそうしたって何一つ消えるものではなかった。




瞳を開く。一瞬まだ夢の中かと身構えたが、握られた手の感触で、そうではないことを悟る。
「うぅん……誰……?」
「姉さん、やっと起きたのね」
静かな冷たい声。顔を見ずともわかる。
「和子?」
涼しい空気。薄暗い光景。
「今は……」
「もうじき夜が明けるわ」
身体を横に向ける。和子は隣の布団から手を伸ばし、私の方を見て微笑していた。
「和子……、だめでしょ。早く寝なきゃ……」
身体が重い。口も動きづらい。意識も重い。動けない。
「姉さんだって起きてるじゃないの」
「『起きた』と『起きてる』はちがうでしょ」
「うるさいわね……」
そう言うと、和子は私の布団の中に入ってきて、身体をギュッと寄せてきた。組まれた腕が、繋いだ手が酷く熱く感じる。
「和子……」
「姉さん、たまに馬鹿な事するから心配」
「……」
「四十度なんて、私でもそう出ないわよ」
障子の向こうに月明かりの気配がある。これも障壁か。
サクと彬子はそちらの方で眠っている。寝相の悪い彬子の腕が、サクの顔に直撃していた。
「和子、離れて。うつったら大変」
「大丈夫よ。もう、大丈夫」
「何が……」
そう言うと、和子は私の胸に顔をうずめた。小さい頃を思い出す。喧嘩をした夜でも和子は気付くとそうして私の中で眠っていた。
こんなに近い距離にいれば、壁なんてできない。逆に言えば、これくらい近くにいないと、いついなくなってしまうかなんてわからない。なのに、私はあの人を……。
その頭を軽く抱きしめて、私は言った。
「……戦争に、行くっていう人がいてね」
「うん」
「私、その人のお見送りに行ったの。でも来なかった。どうしたんだろうって、その人のおうちに行ったら、帰ってこないんだって。昨日の空襲の後から、帰ってこないって」
「……うん」
「死んじゃったのかな。……どうしよう。もし、そうだったら……」
「姉さん」
「見送るまでは、生きてるって思ってたのに……! 戦地に行っても、帰って来てくれるって、信じてた……! なのに、なのに……!」
勘違いしていた。見送った先で戦死してしまうとしても、それまでは何も起こるはずがないと。そもそも考えもしなかった。
「何て……、何て、馬鹿なんだろう……」
何もなかったかのように、帰って来てくれればそれでいい。何も言わず、師団のある町へ行ったなら、それでもいい。
けれどもし、死んでしまっていたら……。私は、私は……。
「でも、亡くなったなんて、誰も言ってないんでしょう?」
和子は落ち着き払った声で言った。
「希望は絶対捨てちゃだめよ。姉さん。確証が何もないうちは、生きているって思わないと」
「でも……!」
「そう思わないと、生きていけないでしょう」
微かに昼得たその声に、はっと私は息をのむ。そうだ。和子は、既にそうしているのだ。
何も言わず消えた叔父が死んでしまったなんて、きっと欠片ほども思っていない。それは、そう思ってしまったら、きっと、自分がだめになってしまうと思っているからでもあるだろうし、叔父を信じているからでもあるだろう。
「大丈夫。最悪な想像のほとんどは、きっと起こらないんだから」
「和子……」
今更ながら思う。この妹も、いつの間にか大きくなったものだ。決して落ち着けるような体調ではないはずなのに、こうやって冷静に私を励ましてくれている。逆の立場だったら、きっとここまでできない。自分のことだけで精一杯で、押し潰されていたに違いない。
和子の語りに冷やされたのか、最悪な結末を想定していた心が落ち着きを取り戻していく。
「和子」
「何、姉さん」
「一緒に待とうか」
「え、何を」
「私はあの人を。和子は叔父様を」
「い、いや叔父様は、別に、わたしだけの話じゃ……」
顔を上げて、わかりやすく動揺する和子の頭を撫でて軽くあしらい、私は仰向けになった。
見上げた天井は、さっきよりも明るくなっていた。


朝になって、私はサクを呼んだ。そして、隠していた砂糖菓子を賄賂にして頼みごとをした。
「隣村の国村さん?」
「そう。理由は聞かないで。代わりに行って、聞いてほしいの。北条です、戻ってきましたかって」
「戻ってって何が?」
「お願い。そう聞くだけでいいから」
理由は言わなかった。不誠実だなとは自分でも思っていた。しかし、サクは不審そうな表情をしながらも「わかったよ」と行ってくれた。
「見つかるといいわね」
微笑みを浮かべる和子。私は「うん」と頷いた。
しかし、この日も彼は戻ってきていないと言うことだった。
翌日もサクに行ってもらった。その次の日も。その翌日には私の体調が戻ったため、自分の足で向かった。しかし、答えは変わらなかった。
「大丈夫、大丈夫……」
再び悲観に傾きそうになる意識を、おまじないのような言葉で打ち消す。頭の中に、和子の言葉も再生して、気丈にふるまう。
けれど、そんな訪問を続けるうち、ついに一週間が経ってしまった。
「捜索はつづけていますが、最早、あてもなく……」
光次郎さんの兄はそう頭を抱えた。
「このご時世だから、家出は決して珍しいことではないけど、光次郎とうちの奴がもめていたわけでもないし、本当に心当たりがなくて」
そう言ったのは、さらに年上になる、光次郎さんの姉だった。弟二人とは違い、気の強そうな女性だった。
「あんたもなんか知ってるんだったら教えてくれ」
「はい……」
「それから、いちいちここに来るのは大変だろ。これからは、毎日家から手紙を遣るからさ」
「あ……」
彼と似た、優しい笑みを浮かべる彼女は、どうやら私と彼の関係に察しがついているらしかった。
「すみません。ありがとうございます」そう頭を下げ、私は自宅に戻った。
その翌日から彼女が言った通り、手紙が届くようになった。しかし、書かれている文字は『消息不明』だけだった。




一月が経った。その間、毎日送られてくる『消息不明』の手紙は部屋の隅に虚しく重なっていた。
さらに一月が経った。私は山のように積もったその手紙を焼いた。
「姉さん……」
和子も、もう私に励ますようなことを言わなくなった、それでよかった。話しかけてほしくなかった。
朝、目を覚まして数時間、外の様子をしきりに確認しながら過ごす。正午前になって手紙が届き、誰かが見る前にそれを受け取り、開く。
「また……」
郵便受けの前でうなだれて、重たい足取りで家に戻る。
そんな繰り返しだった。
「お姉ちゃん、すごい疲れてない?」
夕食時、彬子が言った。私が卓上を見つめたまま何も言わずにいると、サクが遮るように「お料理してるから、疲れちゃうんだよ」と言ってくれた。そう言うサクも、私の様子を不審に思っているようだったが、それを聞くことは無かった。母も同様だった。
失意とともに私は布団に入る。しかし、精神の疲弊だけでは眠りにつくことはできなかった。そうなると、自然、意識は思考へ移ってしまう。
死んでしまったのなら、どうしてその遺体が見つからないのだろう。生きているのなら、どうして彼はいなくなったのだろう。
全て嫌になってしまったのだろうか。軍隊に行くことも、農家での暮らしも、私との関係も。
だからって、何も言わずに姿を消すなんて、ひどすぎる。
彼にとって私はその程度の存在に過ぎなかったのだろうか。相思相愛と口にはしないけれど、そう思っていたのに。だからこそ、あの祭りの日、泣いてくれたんだと思っていたのに。それなのに……。
妹たちに気付かれないように、掛け布団の中で私は泣いた。晩春だと思っていた季節は気付けば初夏だ。人の思いなど知らずに時間も世間も進み、花の混じっていた堰堤の桜もすべて緑に変わってしまった。しかし、それもすぐに、枯れてゆくんだろう。
汗が滲むのもかまわずに布団の中、丸くなって私は泣き続ける。
そうしていると、必然的に眠るのは遅くなる。だから、疲れているなどと言われるのだろう。


浅い眠りから目を覚ます。朝食を取り、学校に行くサクと彬子を見送り、手紙を受け取る。手紙を開き、また溜め息を吐く……。そう思っていたが、今日は違った。
『消息不明』の単語の代わりに、そこには、国村伊那という、彼の姉の名前とともに、文章があった。
それを読んだ私は、膝から崩れ落ちた。


『大内村の、志美川河口で発見されました。川の中州に、身体が引っ掛かっていたようです。警察の話では、あの空襲の日に川に落ちたのだろうということです』
「あああああ……」
『勝手ながら、昨晩のうちに、荼毘に付しました。見るに堪えない状態になっていて、光次郎もきっと、そんな姿を見られたくはないでしょうから』
「実和さん」
母が私の方に怪訝そうに声をかけた。
「どうしたんです」
「お母様……。いえ、なんでもないです」
手紙を握りつぶし、着物の裾の砂を払って私は立ち上がり、駆けだした。背後で「実和!」と呼ぶ声がしたが、構わずに私は走り続けた。
当てもなく走っていたつもりが、きづくといつもの堰堤にいた。
無常な、無情な大河の流れ。その向こうに彼の村。頭上ひらひらと彼の好きな葉桜の雨。今はそうじゃなくて、車軸を流すような雨が降っていてほしかった。
もはや嗚咽では済まなかった。周りに人はいなかったけれど、きっと人がいたとしても、私はこの慟哭をとめられなかっただろう。
希望を持っていたのが、馬鹿らしく思える。逆に何で生きていると思えていたのかと。
川が流れていく。とどまらず、何もかもを流していく。
「志美川……」
それはこの川の下流にある支流の一つだ。
なら、私のことも連れて行ってくれる?
それなら、あなたの所へ行ける?
一歩、堰堤の下に足を進める。
「光次郎さん……」
さらに一歩、一歩、一歩……。ついに、踝が水につかる。脚、腿、腰、水が染み込む。
「うぁっ」
次の瞬間、不意に身体が沈んだ。急に川底が深くなったのだ。
手足をばたつかせて、私は藻掻く。こうなることを望んでいて、川に入ったはずなのに。
しかし、藻掻くだけでは何の意味もなく、私の身体は、下流へと流されていった。
水の中、確かに瞳を開いたはずなのに、見えたのは底なしの暗闇だった。



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