オウルシティと傷無し

詩一

story:07 姉貴。頑張れよ

——13歳の夏。
母さんは俺が中一の時に、死んだ。

母さんと姉貴と俺の三人で海に行った時のことだった。母さんは海で溺れていた他人のガキを助けに入って、自分も溺れた。そりゃそうだ。母さん、カナヅチだったからな。溺れるって、解っていたはずだ。でも入った。それで当の本人、つまりそのガキの親はその間どうしていたかっていうと、浜辺で慌てふためいて「助けてください!」と叫んでいただけだった。そいつも泳げなかったらしい。

俺と姉貴が海の家から帰って来て、わめいているそいつを見て、すぐに状況を察して助けに海に入ったが、溺れながらも子供を何とか息継ぎさせていた母さんは、代わりに水を飲みまくって意識を失っていた。心臓マッサージをしながら救急車を呼んだ。救急車はほどなくして着いたが、乗ってからが長かった。細い道で、救急車がサイレンを鳴らしても抜けられないところで渋滞にはまっちまった。救急車内のスタッフも力を尽くしてくれたが、結局病院に辿り着くまでの間に母さんが息を吹き返すことはなかった。心停止してからあまりに時間が経っていたため、病院に付いてすぐに臨終を知らされた。

母さんに助けられた子供もその親も、お礼どころか、死にそうな母さんの状況を見にも来なかったが、その時の俺にはそんなことどうでもよかった。俺の前に横たわる真実は、母の死だ。誰かを助けたんだとか、そんなことを考えても意味ない。未来ある子供の命と一緒に天秤てんびんに掛けられてたとえかかげられたとしても、失われていい命ではなかった。

次の日、ニュースで知らされたことだが、あの時あの海岸沿いの道に発生していた渋滞は、浜辺に打ち上げられたイルカを救うために、動物愛護団体がバカでかいトラックを水族館からチャーターして運搬しているうえ、それを撮影するためにテレビ局やら野次馬どもが殺到したせいで起きていたらしい。

クソ!

イルカは無事水族館に付いて、一命を取り留めたらしい。

クソ、クソ!

母さんの葬式の時、参列者の中の親戚らしき奴が、姉貴に向かって慰めるように言った。

「お母さんは、運が悪かったのよ」

クソ、クソ、クソ!

姉貴はその言葉を聞いて泣き崩れた。ただでさえ泣いていたが、更に大きな声を上げた。姉貴に向かって慰めにもならねえ言葉を神にでもなった気で言い放ったそいつは、姉貴の頭を撫でて恍惚こうこつとした表情で「大丈夫よ」と言っていた。

俺には、姉貴が慰めに心打たれて泣き崩れた訳じゃあないってのが解った。姉貴は「母さんは運悪く死んだんじゃあない」って抗議したかったんだ。母さんは、子守りもまともにできねえどこぞの糞親と、イルカと動物愛護団体の野郎どもとマスコミの馬鹿と意味なく息を吸ったり吐いたりする野次馬どもに殺されたんだ。あいつら全員殺して母さんが生き返るならそうする。神が許さないなら神も殺す。ついでに真実を知ろうともしない親戚連中のクソどもも全員ぶち殺す。

母さんの葬儀の間中、俺は怒りに打ち震え、人を殺すことばかりを考えていた。
葬儀がいつの間にか終わり、怒りが溢れてはち切れそうになった頭を抱えて突っ立っていた俺を、姉貴は優しく抱きしめてくれた。

「これからは私がゼンを守るからね。大丈夫だからね」

さっきまで泣いていた、自分だってギリギリの精神状態のはずの中放たれた、か細い大丈夫。同じ大丈夫という言葉でも、ここまで違うのかと思った。同時に、あいつはよくもまあ軽々に同じ言葉を意味もなく振るえたもんだ。とも思った。

それから姉貴は高校生とは思えないほどのバイトを掛け持った。俺が高校に行くための学費を稼がなければいけないようだった。俺は中学生でバイトができ無かったから、新聞配達と家事を一手に引き受けた。

姉貴はいつからか煙草を吸うようになっていた。多分、母さんが死んだ時からだろうと思う。母さんが吸っていたのと同じCABINキャビンを吸っていた。

自分は高校に行かなくてもいいと言ったが、「私だけ高校行けるなんて、不公平でしょう? 絶対に運が悪かったなんて言わせないわ」とズバリ言われて、それ以上返す言葉も無かった。
運悪く。母さんの死も、俺の進路も、そんなもので片づけたくないという気持ちは、痛いほどわかった。だから俺も志望校に合格できるように、新聞配達と家事のかたわら勉強を頑張った。

そんなことが二年続いた。中学三年目のある日、姉貴はやつれた顔を明るく染めて俺に言った。

「ゼン、これからは新聞配達しなくていいわ。その代わり、一人になっても頑張ってね」

言っている意味が分からなかった。

「私、フォルトレスっていうのになったらしいの。それが何なのかいまいち分からないんだけど、私の体を調べれば、人の役に立つらしいわ」

嫌な予感がした。

「だから、私はこれからフォルトレスの研究をやっている施設に入って、調査されるの」

とても嫌な予感がしたんだ。

「ん? なあに? そんな顔して。ああ! 解った! 寂しいんでしょう! いつまで経っても甘えん坊さんなんだからあ」

そうじゃあない。

「ふふ。冗談よ。大丈夫。ゼンはもう十分大人だからね。だから、一人でも大丈夫。あ、お金の心配はしないで。今までのバイト代とは比べ物にならない程の給料が貰えるから」

そうじゃないんだ。

「不安? でも、国の研究施設だから。訳分かんない危ない所に行くわけじゃあないから」

とにかく行っちゃあ駄目だ。そう思ったが、声には出せなかった。
なぜって?
やつれ切って今にも目玉が落ちそうな顔、一人っきりでギリギリまですり減らした精神、潤いを無くしてガサガサになった指先……。そんな姉貴がようやく楽できるって喜んでるのに、なんだか嫌な予感がするからここに残ってもっと俺の為に働いてくれよって言えるかよ! ……言えるかよ。

だから俺はなるべく平気そうなフリをして、

「ありがとな、姉貴。頑張れよ」

そう、エールを送るしかなかった。

姉貴が施設に働きに行ってからというもの、俺はテレビと仲が良くなった。勉強と家事とテレビ。その時の俺にはこれだけだった。

ある日の夕方のニュースで、見覚えのある顔が映った。画面にはおびただしいほどのフラッシュ。俯き加減の顔、乱れた髪を見て、思い出した。間違えようもない。母さんが助けた子供の母親だ。その母親がテレビに映っている。テロップには『長男を殺害。何年にもわたって虐待をしていた』と書いてあった。


殺害?



虐待?





「ああアアアアアア!? アアぁぁぁァァァァアアアアアアア! ああああああああああああああ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア! あああぁあああああぁあああああああぁぁっぁっぁ……!!」

気付いたら俺は、リモコンを持ったままテレビを殴っていた。画面が割れていた。真っ二つに折れていた。俺は血の滴る拳を見つめ、荒くなった息が戻るのを待った。

どこか、心の隅の方にあった、微弱な光。小さな救い。当時は絶望に暮れるあまり、どうでも良いと思っていた、俺の母さんの死は決して無駄じゃあなかった、という事実。その思いは時が経つにつれて、とても大切なもののように感じるようになっていた。受け止めきれない大切な人の死。その死に意味を持たせるのは、残された者の特権でもあると思った。
だが、死を穢すのも生者の特権であることを今知った。

いったい何のために母さんは死んだんだ。いったい何のために姉貴はあんなになるまで働いたんだ。何のために、何のために……。

誰も救えないこの手はなんだ。いったい、俺は、なんなんだ。

そんな時、不意に電話が鳴った。

「渓谷然壽さんですか。あなたのお姉さんが、急死しました」




——ここは、どこだ。

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