勇者が世界を滅ぼす日
閑話 悪魔の産声 その1
わたしはアイリス。魔王領の代表だ。
アーシュの突然の失踪と悪魔の契約が切れたことに、心の底から絶望し、悲しみに暮れた。
失踪した直後は魔王領をあげて捜索したけれど、しかし手がかりが見つかることはなかった。
アミも魔女に連れていかれてしまった。シルフィも王国軍に取られてしまった。クリスティアーネは負傷中で王国の医務室で寝たきりだ。そしてアーシュまで……。
アーシュは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
「やっぱりだめだね……あの一件でアーシュの立場は最悪だよ。それにその責任をエルランティーヌ女王がとったみたい」
「……そう」
この時わたしは吹っ切れた。
吹っ切れたから頑張れたともいえる。もう彼とは切れたのだ。あえて危険な手術までして残した悪魔の契約をいとも簡単に切って見せたのだから。
きっとそういう事なのだろう。それに、魔王領に帰らぬものを構っている暇がなくなった。
あれからエルランティーヌ女王と交わした盟約は、こちらは果たしているにもかかわらず、王国は一切何もしなかった。
交流も滞るどころか、悪魔が襲われてその対処に追われる始末。やがて交流も減り、魔王領は閉鎖的になっていった。
日々報告と処理に追われてルシェ一人では賄いきれなくなり、わたしも今までまかせっきりだったつけを払うように、覚えて手伝った。
うっ憤が募りルシェも精神的に病んでいくのが目に見えた。責任感の強さが裏目に出た形だ。
「やっぱりオレたち、あいつに騙されたんだ……」
「くそっ!! なにが魔王代理だ!」
ベルフェゴール率いる技術系の悪魔と学園の教諭が王城へ詰め寄って来た。警備と警戒が強くなり、人間の物も入ってこなくなった。
ベルゼブブのおかげで食べるものには困らなくなったが、絶対的に人が足りないので、生徒達が警備に駆り出されている。
このままいけば前線に戦う兵士にされてしまうのではないだろうかと、心配しているのだ。
「……ボ、ボク……あ、あの……ご、ごめんなさい……ボク……ボク……あぁああああ!」
「ルシファーが悪いんじゃねぇ! あいつが悪いんだ!」
彼女はもう……限界だった。
だからもう……こうしてやることだけが……。
その日の夜は彼女と一緒に床を共にするように誘う。彼女には休養が必要だった。それも心を癒す。
それにわたしも溜まっていた。
メフィストフェレスの研究室で見つけたある薬品を持ってきている。これを飲み物に混ぜて彼女に飲ませるのだ。
「月明かりが奇麗ね……いっしょにやりましょう?」
「……う……ぁ?」
すでに目が虚ろで、精神的に壊れてしまったのがわかった。彼女を寝室にさそってお酒を勧める。それに混ぜたニンファーから生成した『媚交感薬』。
彼の研究資料ではクリスティアーネが調合したものより効力が弱く、作用も違っていた。
魔臓に接続しやすくするための薬品であることは確かだが、魔力バランスを変えたりなどはできず、ただ魂響く暗示を植え付ける。
それはよほどのことが無ければ解けることのない暗示。
彼女の中のアーシュはきっとわたしのそれと同じぐらい大きい。彼女はわたしほど愛してもらっていないのに、彼女の片想いだ。
むしろ処世術とばかりに早々に断ち切ったわたしとより、はるかに強い愛を持っているかもしれない。
こんな物分かりのいい自分と彼女を比べてすこし嫉妬して、笑いが零れる。
「ふふ……」
だからこそ彼への愛と魔王領の安定の板挟みになって、彼女は壊れてしまった。
だったら今はその愛を、恨みに変えて彼が悪であるというすり替えを行うしかない。それは他の悪魔たちと同じ感情であり彼らの立場同様、アシュインという共通の悪がいることで、彼に憎悪を向けることが彼女の処世術となる。
我ながら最悪な手段だ。しかし今、魔王領が彼女を失うことはあってはならない。そんなことになればそれこそ終わりだ。
「……ぁ……ぇ?」
「さぁ……飲ませてあげる……んっ」
「ふぁ……」
口移しで飲ませる。そして暗示をかけながら、彼女をベッドへと誘う。
「アーシュが全ての元凶……彼が魔王領を謀った……」
「……ぁー……?……んっ」
「……そう……悪魔を守れるのは悪魔だけ……」
「ぁ……くぅ?……あっ!」
彼女の顔は、今まで見せていた死んだオークのような目からだんだんと生気が宿り、光を取り戻すとともに潤み恍惚としていく。
あとはもう溜まっていたうっ憤を、お互いが満足いくまで慰め合うだけだ。それは同時にわたしの心も救った。
そして自分にも、ある暗示をかけた。
……さよなら……アーシュ。
わたしの気持ちの整理もつき、ルシェの心も回復していった。数日は執務を行えないほど疲弊したので、ベルフェゴールから生徒を借りて手伝ってもらう。
幹部からの相談も絶えずきた。そして人が足りないので現地には城の使用人を割いた。
城にいるものは忠誠心が強いものが多いので、従ってくれてはいるけれど、この調子ではいつか見限られるのも時間の問題。
まったく人が足りなくなった。
身だしなみを整えることも忘れて執務に没頭した。今まで使用人にしてもらっていたがすでにその人員もいない。
王城内も所々薄汚れてきている。
「うぇへ……だ、だれかぁ……」
そんな中、クリスティアーネが王城へ戻って来た。
ゲートの魔法陣がある部屋で倒れていた。まだ治ってないが王国を国外追放になったため、出て来たという。
なんてひどい事をするものだと思ったと同時に、こんなひどい疲弊した状態で病人がくるなんて、というどす黒い感情が芽生えた。
彼女は元人間の魔女だ。
アーシュがいなければ助けてやる義理はない。いや本当はあるのだ。あたしの魔臓を取り出して悩みを解決してくれたのだから。しかし今最優先するべきは悪魔の生存であって彼女ではない。
それを正当化するための理由探しに過ぎなかった。
そんな疲弊していく魔王城にミルがとうとう耐え兼ねて、学園の寮に入ると言い出した。友達がたくさんできたからという理由だったが、もちろん嘘であることはすぐにわかる。
こんな魔王城にいたくないと思っているのだろう。
彼女の判断を止めるほど、わたしに正当な理由を見つけることができなかったのでそれを了承した。
手が足りないにもかかわらず、病人に悪魔を割かなければならなくなりさらに手が回らなくなった。
そのわたしとルシェの気持ちが使用人達にも伝わって、伝染していた。そのどす黒い感情は魔王城を飲み込むように感染したのだ。
使用人達はクリスティアーネをぞんざいに扱い……陰湿にいじめた。それも冗談では済まない生命にかかわるようないじめだ。
彼女は火傷や傷が増え、そして食事がとれなくなりみるみると痩せていった。それを臭いものに蓋を閉めるように、わたしは見て見ぬふりをする。
彼女には恩がありながら、わたしは仇で返してしまっている。見て見ぬふりなどいじめているのと同じだ。
しかし彼女が耐え切れずに自ら出て行ってくれれば、こちらは心を痛めずに尚且つ王城内の人手が浮く。
そんな罪悪感と、打算が鬩ぎ合って何もできなくなっていたのだ。
そしてあの日を境に、ルシェも悪魔らしい温情を感じなくなった。冷徹にただ執務をこなし、合理的でないものを切り捨てる。
クリスティアーネへのいじめもむしろ推進していたように思う。
ある日シルフィが直接、魔王城に乗り込んできた。魔王軍の応援を寄こせと言うのだ。いくら何でも横暴だった。
王国側の代表として来て、王国は何もしてくれなかったのにこちらだけ兵を提供するなんてありえない。
それも懇願するならまだしも、以前以上に尊大不遜で粗野になっていた彼女の上から目線の言動は、わたしたちの神経を逆なでした。
口調が以前とは大幅に変わって、王国軍人のそれらしくなっていたのも気になっていたが、その兵の浅はかな動かし方はとても悪魔の命を預けられるほど信用ができなかった。
当然そんな横暴はベリアルに聞くまでもなく突っぱねた。
シルフィの来訪で魔王城を渦巻く空気は、さらにどす黒く染まっていった。聞いていた使用人や手伝いに来ている生徒達は、やはりアーシュの所為であると呟いている。
「ぐひ……み、みんな怖いから……う、浮気しちゃったかもぉ?……ふへ」
そんな中クリスティアーネは変な気を効かせて言ったことが、逆にみんなの感情を逆なでするどころか、逆鱗に触れてしまう。
「なっ⁉ なんですって?」
「ねぇ? それはないんじゃない?」
これで執務室にいた全員の矛先が彼女へと向いてしまった。そして爆発してしまうのだ。わたしもこれには脳が焼けるような思いだった。
顔がカッと熱くなり、真っ白になるほど感情が高ぶっていた。もし魔力があったら彼女を縊り殺したいという殺人衝動まで引っ張り出されるほどに。
そして皆は近くにあった物を彼女へ投げつける。小さな本や筆記用具ならまだよかったが、どこから持ち出したのかホークやナイフなどの狂気になりうるものまで投げつけている。
「……ぐひぃい……や、やめてぇ……いじめないでぇ……で、出ていくからぁ……」
……彼女は泣いていた。
動きは早くないので、のそのそと色々なものをぶつけられ傷つきながら出て行ってしまう。
そこでハッと、我に返った。
最悪だ……。わたしはなんてことをしてしまったのだろうか。いくら追い詰められたからと言って、恩もあり仲間だと思っていた彼女に対してひどい仕打ちをしてしまったことに気がついて後悔した。
自分の感情がとてもどす黒いものに覆われていたことに気がついたが、もう魔王城には何も残っていない。
アミは去り、シルフィも寝返り、そしてアーシュもいなくなった。クリスティアーネは友達ができたと喜んでいて、それだけを頼りに戻ってきてくれたにもかかわらず、何かにとりつかれたように邪険にしてしまった。そんなわたしたちに嫌気がさしミルもいなくなり、残ったのはルシェ……それとナナだけだ。
ルシェを見ると、何事もなかったように執務をしている。やはりあの時感情が壊れて無理やり直した弊害だろう。
こんな時にアーシュがいれば……とその想いに至って、自分がまだみすぼらしく未練を抱いていたことに気がついた。
周囲をみるとナナがいないことに気がつく。まさかナナまで魔王城を去ってしまうのではないかという不安に駆られ、駆け出すと丁度戻ってきたところだった。
「ナ、ナナ……よかったわ……貴方までいなくなるのかもと……」
「……あたしも人間だから、いなくなった方がいいんじゃない?」
彼女のかなり優しい目の抵抗は、わたしに深く届いた。いつも陽気で場を盛り上げて楽しくしてくれる彼女にはずっと驚かされて助けられてきた。
だから彼女の信用は失いたくなかったが、すでにここまでくれば信用も何もないだろう。
「わたし……」
「……クッキーだけ渡してきた……彼女……貧血ほとんど動けないのに数日は何も口にしていなかった……餓死させる気だったの?」
「……ちがっ……いえ……ナナの言う通りね」
「……心配だから、あたしはもう少しここにいてあげる。死霊に担がれていった彼女には、どうせもう追いつけないしね~」
「……ナ、ナナ!」
最後の死線で踏みとどまれた気がした。
彼女に救われたのだ。
あのままナナにも見限られていたら、それこそわたしは魔王領を捨てていたかもしれない。ナナがいてくれるのなら、もう少しだけ頑張れそうだ。
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