ブアメードの血

キャーリー

42

 佐藤累は苛立っていた。


静が「ゾンビにしてみた」のパート3があるという。


<この映像が最後かもしれない。もしかしたら、一志は…>




 リビングには、またソファに座った池田を真ん中にして、先に戻っていた静を含め、残りがそれを囲んでいる。


累はその輪に落ち着きなく加わった。




「ほんのつい先ほど、パート3がアップされていることに気づきましてね…


パート2のアップから、三十分程しか経ってないんですが…」


池田が累に説明した。


「それでは、よろしいでしょうか。


この…えーと、ああ、これ、日本人編パート3、つまり、一志さんと思われるもので始めます」


池田はパソコンを操作して再生ボタンを押すと、今度はすぐにソファを離れ後ろに回り、静と累に席を譲った。




 「さて、あと一時間ほどです。いよいよですね…」


零のその一言から動画は始まった。


そして、埼玉県で起こった水道水集団感染事件に話が及ぶ。




「これは…まずい…」


勝が唸るように呟いた。


その勝の声に、後ろで見ていた中津が固唾を飲んだ。


動画の中で零はなんの臆面もなく、オメガウィルスの説明を続けている。


「そんな…」


「うそでしょ…」


「ばかな…本当にそんなことを…」


動画を見ている六人皆が恟然とし始めた。




 「ブアメードの血…」


零の説明がアルファが起こす遺伝形質の六つの変化に及んだ時、輪の中心で見ていた静が呟いた。


「え?ブ、ブアメイドってなんですか、それは?」


<メイドカフェは好きだが、ブアなんてメイドの類あったっけ?>


池田が静の呟きに、後半の思いは口には出さずに訊いた。


池田は隣の中津も見たが、中津も知らないのか、肩を竦めただけで何も言わない。


「いえ、この零って人が言ったノシーボ効果で思い出したんですが、ブアメードの血、っていう都市伝説のような話がありまして…」


そう言って、静は動画を止めた。


「確か第二次世界大戦前のヨーロッパ、ということだったと思いますが、とある人体実験がされました。


暗示で人が殺せるか…というもので、その被験者は死刑囚でブアメードという名前だったそうです」


「お前がその話を知っているとはな」


勝が話に入ってきた。


「人間の血は何割かある基準値を超えて無くなったら死ぬ、と脅しておいて、被験者の足先を切りつける。


そして、その血が滴り落ちる音を聞かせながら、今どれくらい血が流れたと被験者に言い続けたとか」


「え?それで?」


越智警部も興味を持ったのか、勝に話の続きを促した。


「それで、血の量がその基準を超えたと告げられた時、そのブアメードという男は死んだそうです」


「でも、実際はブアメードの身体はどこも傷付けられてなくて、水の落ちる音を聞かせて血だと思わせていた…


実験は成功、つまり、究極のノシーボ効果の例とも言えます」


静が補足した。


「ノシーボ効果ってなんだ?」


池田がまた中津に小声で訊いた。


「プラシーボ効果の逆の意味では」


「それなんだったっけ?」


「今、動画の中でも言っていたでしょ…」


「ああ、ええとあれだ、偽薬でも本物と思い込んだら効果があるとかいう…


じゃあ、それが水の音ってわかってりゃ、死ななかったってこと?


マジックのトリックみたいなもんか」


「そうかも知れませんが、そんな単純な話なんですかね?


不安や恐れは誰にでもあるでしょうから」


池田と中津がひそひそ話を続けている間も、動画の中では医者が滔々と話を続けている。


「——ゾンビが人々を襲い、次々と新たなゾンビが生まれる、幾何級数的にね」


「幾何級数的って?」


「ねずみ算って言ったらわかりますか?」


「え?えっと…」


「…もう少し勉強してください」


もう一度、池田と中津の問答があった後、


「…その辺りも、まさにゾンビ映画そのものとなるでしょうねぇ」


という零の説明で動画は終わった時だった。




「…みんな、死ぬんだわ」


動画に見入っていた累が呟いた。


「累、やめろ」


静を挟んで隣にいる勝が、勝が抑えた声で累を諌めた。


「この女が言っているじゃない!


水道水を使ってウィルスのをばらまくことにしたって!


ゾンビ映画のようになるって!」


累は一気にトーンを上げる。


「累!」


「この女はやると言ったらやるわ。


そういう奴なのよ、彼女は…そうやって一志まで…」


累は口角に泡を溜めて、狼狽える。


「お母さん大丈夫?」


静が心配そうに声をかけた。


「大丈夫な訳ないでしょ!


一志はこの女に捕まって、どうなったかもまだわからないのに!」


「累、いい加減にしろ、皆さんがいるんだぞ、お前らしくない」


「何よ!あなたまで!」


累は床をドンと踏み鳴らし、立ち上がった。


勝はそれにつられるように立ち上がるが、静の方は初めて見る母の様子に固まり、座ったままだ。


ソファの後ろの三人は累に気圧されて、少し後ずさりする。


「何よ!ここにいるのは役に立たない警察と探偵だけでしょ!


一志はまだ見つからないのよ!


この女にいいようにされて!」


累は口の端から唾を飛ばし、あからさまに興奮してきた。


「ちょっと、累、どうしたんだ、失礼だろ」


勝は後ろの三人とソファの間に少しできた隙間から累の方に向かう。


「私にはわかるわ!この女はゾンビウィルスを本当に完成させたのよ!


それを一志だけでなく、水道水に乗せて私たちに感染させたんだわ!


そんなの、今までの流れを見れば、わかるでしょう…


この女が本気でやっていることぐらい!!」


累は両拳に力を入れ、増々興奮の度を高めていく。


「え?これってやっぱり俺たちも感染しちゃってる訳?」


「そうかもしれないですが、それどころじゃないでしょう。


奥様の様子、明らかにおかしいですよね…」


中津の言う通り、累は誰の目に見ても異様だった。


歯茎が見えるほど歯を食いしばり、顎を引き、血走った眼で勝を睨みつけている。


「お母さん、どうしちゃったの?」


静がおろおろと立ち上がる。


「うるさーい!」


累は勝から静へ向き直った。


「なんで、あなたじゃなかったの!


一志じゃなくて静が捕まれば良かったのよ!」


「そんな、ひどい…」


パシーン!


佐藤家以外も引いたその瞬間、累の頬を打つ音が響いた。




「おい!言っていいことと悪いことがあるだろ!」


感情を抑えていた勝が、手と怒声の両方を上げた。




一瞬、部屋は静まり返り、残りの四人は佐藤夫婦に圧倒されて何もできない。




 それが切っ掛けだった。


累の中で怒りが暴走し始めた。


左手で打たれた頬を抑えながら、勝を見下すように睨みつける。




<何よ、この男、結局一志とは血が繋がっていないから、そんなこと言えるんだわ。


元はと言えば、この男への復讐のはずなのに一志が巻き込まれて…


そうよ、この男が死ねばいいのよ、ゾンビにでもなんにでも殺されれば、そう殺される、殺す、殺す殺すコロすコロスノヨコイツモシズカモアノオンナモナニモカモ…>


累は頬を抑えた左手を勝に振り下ろした。


「うあ!」


勝はあっという間に後ろに飛ばされ、倒れる。


「お母さん、落ち着いてください!」


池田がやっと声を上げた。


「ま、松谷!奥さんを取り押さえろ!」


ただならぬ様子にリビングに入ってきた松谷に、越智が叫んだ。


累は越智の言葉もお構いなしに、中津と静に起こされようとしていた勝に向かう。




その間に入ったのは池田だ。


累が邪魔する池田に右手を上げて襲いかかかる。




小手返し。




池田が累の手首を掴むや否や、累の横にするりと回り込むと、累は床に大きな音を立てて倒れ込んだ。


「手伝ってください!」


池田は俯せの累の右手を掴んで固め、越智と松谷に助けを求めた。


「ぎいー!」


越智が慌てながらも池田に手を貸そうとした瞬間、累が唸り声を上げた。


そして、背中に池田を背負ったまま、左手だけでゆっくりと起き上がる。


「バカな!」


池田は思わず固めていた累の右手を離して飛びのく。


「キャー!」静が叫び声を上げた。


累の右手がだらりと下がっていた。


力だけで無理やり起き上がった結果だ。


「完全に関節を極めてたのに、うわ!」


振り向いた累が矛先を変え、自分を投げた池田に襲いかかろうとしてきた。


バターン!


池田は累の左手を取ると、今度は四方投げという技を見舞わせる。


「ちょっと、やり過ぎでは!」


越智が声を上げるが、池田はそれどころではない。


「今のうちに逃げましょう!」


中津が佐藤父娘に促した。


「でも…」


そう言う静の手を引いたのは勝だった。


「お母さんは何かおかしい。


取りあえず、お前は中津さんと庭に出てろ!」


勝はもう片方の手で静の肩に手を回すと、中津の方に押しやった。


「中津さん、静を頼みます」


中津は頷いて、掃出し窓の方に向かうと鍵を開け、そのまま裏庭に飛び降りた。




<くそお、左手を取っての小手返しってなんかやりにくいんだよな>


池田は自分の技術の未熟さを嘆いた。


小手返しならば、相手を横身で倒した流れで、腕を返して俯せにし、そのまま関節を固めることができる。


練習では相手の利き腕である右手を掴むことが多いため、左手には慣れてなかった。




 累は投げ飛ばされても、すぐに飛び跳ねるように起き上がり、また池田に向かってくる。


越智と松谷は手を出そうとするものの、まだ二人に割って入ることができない。




 <そんなことより…>


池田は考えた。


<これってお母さん、動画の中で言っていた、オメガとかいうウィルスが発症しちゃったってことだよね…


こんなに目を血走らせて、涎垂らして…


さっきまで、あんなに上品そうに見えたのに、えらい違いだ。


腕極めた俺を背中に抱えたまま起き上がるなんて、尋常じゃないもんな…


それになんかお母さん、さっきから俺に噛みつこうとしてるみたいだけど、噛まれたらウィルスが伝染っちゃうことになるのか…


確かさっき、水道水に混ぜてウィルスをばら撒いたと言ってたっけ、それで感染したのか…>




 「があああ!」


累が池田の思考を遮るように、唸り声を上げた。


だが、さっきから動きは単調、おあつらえ向きに左手を上げて突進してくる。


<これなら…!>


池田は今度こそと思い、小手返しをしようとした時だった。


累が急に向きを変え、二人を逃がして戻ってきた勝に向かった。




<やばい!>


池田は慌てた。


しかし、勝は平然と構え、襲ってきた累に組み付くと、あっさりとその場に投げ倒した。


池田らが驚くのを余所に、勝は累の左手をしっかり極めたまま、俯せに返す。




「今です!」


勝は刑事二人に声を上げた。


機を窺っていた二人は一斉に累に飛びつき、越智が背中から両手に、松谷が両足にそれぞれ手錠をかけた。


両手足に手錠をかけられ、男三人がかりで抑え込まれた累は、さすがに今度は起き上がることができず、暴れているだけの状態だ。


「うがああ!ああああ!」


「ちょっと、ロープか何か縛るものを持ってきます!」


勝が累を刑事二人に任せ、キッチンの方にかけていく。




 その時突然、勝手口から黒づくめの男たちが三人、リビングに土足で入ってきた。


「遅くなりました、道が混んでいたもので」


男の中の一人が、累を取り押さえている越智に近付いてきた。


城だ。


先ほど、佐藤家の邸宅から囮として警視庁へ向かった刑事らが引き返してきたのだ。


しかも、機動隊員のような、ヘルメット、顔を覆うマスク、服装、手足のレガースやアラミド繊維の手袋などを付けた重装備で。


「おお、城、ちょうどいいタイミングで戻って来てくれた。


で、なんだその恰好は?」


「上からの命令で…それより、外にいた中野さんとお嬢さんから話は聞きましたが、その奥さんをなんとかしなければ…」


城は累の口に布で猿ぐつわをかます。


が、そうやって男数人に抑え込まれても、累は一向に暴れるのをやめない。


「よし、しょうがない、ちょっとこっちを押さえててくれ」


越智は押さえていた累の腕を離すと後ろからまたがり、首に両腕をかけた。


「ちょっと何を!」


ガムテープを持ってきた勝が咎めるように声を上げた。


「まあ、こうするしかなさそうなんで」


越智は右肘の内側を累の首に巻きこむと、左手を添えてゆっくりと締めた。


累は越智から逃れるようと、より一層のたうつ。


が、急に事切れたように体から力が抜けると痙攣し始めた。


「頸動脈を締めて落としました」


越智がゆっくりと累を下ろして立ち上がった。


池田や松谷らも、恐る恐る力を緩める。




「信じられないかもしれませんが、奥様は問題のやつを発症してしまったようです。


また、暴れられるといけない。今のうちに縛っておくしか…」


そばで見ていた池田が、佐藤父娘の手前、遠慮がちに提案した。


「いや、車に拘束衣を用意してますので、そちらに運びましょう」


「なぜ、そんな物を?」


城の提案に、松谷が質問した。


「ああ、説明しますから、ちょっとお待ちを。


おい、奥さんを車まで運んで拘束しろ」


城は他の重装備の警官たちに言いつけて立ち上がった。


「実は感染研が、人間が狂ったように凶暴化してしまう細菌の可能性を通知してきたとかで、現場の人間はそれに対応できるよう装備を強化しろ、とお達しがあったんですよ」


「感染研って、あの葬儀場のスタッフの血液を回したところか。


今日のチャカ携行の指示といい…まあ、なるほど、ヨウツベを見た今なら理解できるな」


「特に、我々は佐藤教授を警護も任されましたから、こんな重装備に…


あ、それから、岡嵜の家に向かったA班から連絡があったとかで、その、もぬけの殻だったそうです」


「もぬけの殻?って、どういうことだ?」


「住所はそこになっているのですが、どこにでもある普通のマンションだったようで、中はしばらく使った形跡がないとの報告で…


他に潜伏先があるものと思われます」


「そうか…ただ、これだけのことを仕出かしたんだ。住まいとは別に研究施設とか、どこかにあるのかもしれんな…」


越智はそう言って、左の頬をポリポリと指で掻いた。




「あの、越智さん、その傷…」


池田が越智の掻いている頬を指差した。


「あ、ちょっとまあ、今ので奥さんに引っ掻かれただけで、大したことはありません」


苦笑いを浮かべて言った越智の言葉とは裏腹に、周りは一瞬にして凍り付いた。




「――越智さん、申し訳ないんですが、あなたを拘束しなければなりません」


城が俯き、絞り出すような声で言った。


「え?」


「さっき言った細菌の発症後は、傷を負わせて伝染させた相手も、同じように発症させてしまうようでして…


伝染したと思わる人物は拘束して、検査するようにとの指示です…」


「ちょ、ちょっと待て。


引っ掻かれただけで伝染るって?


俺もこの奥さんみたいになるって言うのかい?」


越智は苦笑いを浮かべたまま、両の掌を上に向けた。




だが、周りのいたたまれない雰囲気にたじろいで目が泳ぎ、右上を向いた後、次に左上を向いた。


「…そうかもしれないね…まあ、そう言われれば、そんな気がしてきたよ。


わかった、まあ、検査は受ける。


ただ、まあ、拘束はまだ勘弁してくれないか。


ほら、まあこの通り、私はまだ気は確かだ」


城は越智の眼をじっと見つめた。


「…わかりました。ただ、少しでも兆候が見られたら、拘束させていただきます。


できれば、自己申告をしていただきたいものですが。


ご自身が自分の体のことは一番おわかりでしょうから」


「わかった、ありがとう、それまではまあ一応、私がここの責任者だ。


まあ、最後になるかもしれない仕事をさせてもらうよ」


越智は真顔に戻ると、


「それでは皆さん、今からここを後にして、警視庁にご同行いただきます」


と声を張った。


胸の思いを秘めたまま。

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