涙はソラを映す鏡

青空顎門

エピローグ 流れ星

 再び起きてしまった落涙の日、天の崩落と名づけられたこの事件は、徐々に、だが確実に鎮静化へと向かっていた。
 真弥と共にシェルターから自宅に戻ることができたことが、その証拠の一つとなるだろう。
 天の崩落から早一週間。
 その事件は人々の体と心に深い傷を残しながらも、既に街にはその爪跡は残っていない。
 それは全てにおいてティアの分解再構成機能のおかげだが、被害の原因もまたティアなので螺希には皮肉としか思えなかった。

 何にせよ、今のところ混乱もなく過ごせているが、まだ街には緊張感が残っている。
 鳥型のグリーフという新たな脅威が周知のものとなったのだから当然だろう。とは言え、現状それらが大規模に襲ってくることはなく、一部が編隊を組んで現れることすらもないが。
 天橋立が塵と化して消えたあの瞬間、鳥類由来を含めた全てのグリーフがまるで指揮官を失って動揺し、連係の仕方を忘れてしまったかのように総崩れになった。とは、正規の拭涙師と合流し、無事に帰ってきた琥珀達の談だ。
 その話から推測するに、ラクリマはリンク機能によって連係し、人間の位置などの情報を共有していたらしい。中枢なき今、全く今更な情報だが。
 現在、学校はまだ休校状態にあるため、琥珀はその辺りについて考察しながら、鳥型グリーフの研究に没頭しているようだ。
 何でも区からそれらが嫌う何か、例えば音などを見つけるように要求されているそうで、琥珀は、そんな不確かなものより街全体をドームで包み込んでしまえ、と怒っていた。

 翠は無事に母親と再会できた。
 あの戦闘のすぐ後で満身創痍のぼろぼろの姿で会ったせいで、母親に無茶したことをこっぴどく叱られたようだが、最後には優しく抱き締められていた。
 そんな光景を前に様々な思いから螺希は目頭が熱くなったが、それは真弥も同じだったようだ。

 武人は超法規的措置のような形で仮の拭涙師としてグリーフと戦っている。
 琥珀の話によれば、彼はもう本職以上の力がある、とのことだった。
 そのため、別段心配する必要はないだろう。

 則行は職務を全うしている。
 区長として、この事態の完全な収拾のために尽力しているようだが、これは態々報告すべきことでもない。その役職に就く者として責任を果たすことは当然なのだから。

 そして螺希は今、自室の窓から空を眺めていた。
 旧時代から残る最後の軌道エレベーターは崩れ落ちてしまった。
 しかし、螺希は、それはそれでいいのだ、と思っていた。
 何故なら、見上げた空はきっと昔の人々が見ていたものと同じように、どこまでも広く澄み渡っているだろうからだ。
 とは言え、螺希がそう思っていても、かつての栄光を象徴していたあの天を貫く塔が崩壊した事実は、多くの人々に落胆を与えることになるに違いない。
 そんなことを考えながら、螺希は昔、軌道エレベーターがバベルの塔などと揶揄されていたことを思い出していた。

 それは旧約聖書、創世記に登場する塔の名前だ。
 伝説によれば、天に至る塔を作ろうとした人間の傲慢さに怒った神は、人々の言葉を混乱させて意思疎通を乱し、塔の建設を中止させたという。
 創世記には塔が崩壊したという明確な記述はないが、建設が止まれば必然塔の維持も不可能になる訳で、崩壊という結果に繋がることは想像に容易い。
 この伝説は進化、進歩という願望に囚われ、目の前にある大切なものを見失った人間への戒めの物語なのかもしれない。解釈はいくつかあれど、螺希はそう思った。
 いつしか言葉という道具に依存していた他者との繋がり。それを、正に言葉が通じなくなっただけで保てなくなり、それによって天に至る力までもが失われたのだ。
 これは、人と人との結束こそが全ての力の根幹にあることを示しているのではないだろうか。
 だから、もし言葉という道具を失って尚、一致団結して塔を完成させようとしていたなら、それをも止めるような真似は神もしなかったのではないかと思う。
 人間が得た知恵という力、そこから生み出される全ての技術。それがもし人々の結びつきを壊してしまうようなことがあれば、きっとその技術はバベルの塔の如く失われるに違いない。
 となれば、軌道エレベーターが塵となって消えたのは、自分達と穹路との、そして、この時代に生きる多くの人々の繋がりを壊そうとしたからだろう。
 螺希はそう考え、無性に寂しくなって大きく嘆息した。

「穹路……」

 たった一週間。されど一週間。穹路と過ごした日々も、穹路がいなくなってからの日々も客観的な時間としては変わらないはずなのに、しかし、全くの別物だった。
 心にぽっかりと穴が開いてしまったような虚無感。
 こんな気持ちになるのは両親を失った時以来のことだっただろうか。
 これは既に穹路が螺希の生活の一部となっていた証拠なのかもしれない。
 あるいは、何か別の感情が働いたからなのか。

 そんな螺希と同様に真弥もまたこの一週間、どことなく元気がなかった。
 穹路によく懐いていたのだから、当然と言えば当然だ。
 表面上は笑顔で、穹路のことを口にするようなこともないが、姉である螺希には無理をしているのが一目瞭然だった。

「お姉ちゃん、琥珀お姉ちゃんから電話みたいだよ」

 その真弥に呼ばれ、螺希はぼんやりとした思考から現実に引き戻された。
 やはり表情に翳りが見て取れる彼女からリビングに置きっ放しにしていた電話機能のみの携帯電話を受け取り、通話ボタンを押して耳に当てる。

『ああ、螺希? ちょっといい?』
「大丈夫。……どうしたの?」
『うん、ちょっと、ね。知り合いから聞いた話なんだけど……』

 どこか歯切れの悪い琥珀に螺希は黙って続きを促した。

『五日程前、だったかな。流れ星を見たんだって』
「別に流れ星ぐらい見えたって何の不思議もないでしょ?」

 何だそんなことか、と思って、少しばかり不機嫌な声を出してしまう。
 そんな螺希の態度に対して琥珀は訳知りな感じで苦笑した。

『それは、まあ、そうなんだけどね。少し気になったから、調べてみたの。そしたら、何でも第十三区の近くに落ちたらしいのよ』
「それだって、よくある、とは言えないかもしれないけれど、おかしい話じゃない」

 ある程度の大きさの小天体であれば、燃え尽きず地上まで落下することは可能性として当然あり得ることだ。それが話題になることもままある。

『まあ、ここまでは、ね。でも、調査報告によると隕石は発見できなかったんだって。隕石としては結構な大きさのものが落ちた形跡があったのに。欠片すら、ね。まるで、その場からいなくなったみたいに』
「え?」

 琥珀の言葉に心臓が跳ねる。それは、もしかしたら――。

『螺希、最初に言ってたでしょ? 穹路君は空から降ってきたって。だから、そういうことなのかなって』
「琥珀……」
『螺希を混乱させちゃうかなと思って、話すのちょっと躊躇ったけど、やっぱり伝えといた方がいいかと思って』
「うん……ありがとう、琥珀」
『いいって。ちょっとでも元気が出たなら。じゃ、私は研究が待ってるから。またね』

 いつも自分を気にかけてくれる大切な幼馴染にもう一度だけ感謝の意を伝えて、螺希は電話を置いた。そして、傍でその様子をぼんやりと眺めていた真弥に振り返る。

「真弥。ちょっと秤を持ってきて」
「え、秤? そんなの、どうするの?」
「いいから」

 真弥は不審そうに首を傾げながら部屋を出ていった。それに続いて、螺希もリビングへと急いだ。そこに真弥がミリ単位まで計れる電子天秤を持ってくる。

「真弥のティアを、そこに置いて」

 その電源を入れながら真弥に言う。

「お姉ちゃん、もしかして――」
 それだけで真弥は螺希の意図を理解したようで、すぐさま胸元のネックレスから母親の形見であるティアを外して丁寧に秤の上に置いた。

「ティアの質量は変わってない。そして――」

 平らな面になるべく力が加わらないように置かれたティアは、しばらくするとある方向へと微かに動き始めた。しかし、それはやがて計量皿の縁に行く手を遮られ、動きを止めてしまう。

「この方角には十三区がある」
「これって……お姉ちゃん!」

 久しぶりに見る花が咲いたような真弥の笑顔に、螺希もまた自然と表情が綻んだ。

「穹路に貸したティアとこのティアは引き合う。でも、質量が変わってないということは、あのティアは地表を基準に上方にも下方にもないということ。そして、普通のティアは当然単体では大気圏を突破できずに燃え尽きるから――」
「お兄ちゃんはお姉ちゃんのティアを持って、このティアが動いた方向にいる!」

 真弥の答えにはっきりと頷く。
 螺希は穹路の無事を信じられる一つの根拠を得ることができ、心に開いていた穴が安堵の気持ちで塞がれていくのが自覚できた。

「お兄ちゃん、戻ってくるよね?」

 螺希は微かに不安げに見上げてくる真弥に微笑み、彼女の頭を久し振りに、穹路がしていたように優しく撫でた。

「大丈夫。二人で穹路と約束、したでしょ? それに、お父さんの形見のティアを返して貰わないといけないし」
「もう。お姉ちゃん、ここにはわたししかいないんだから、素直に帰ってきてくれるって信じてるって言えばいいのに」

 心細そうな表情を一転させて意地悪そうに笑ってそんなことを言う真弥に、螺希は思わず苦笑してしまった。

「この家がこの時代で穹路の帰る場所なんだから、それは当然でしょ?」

 螺希はほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じながらそう言って、母親の形見のティアを手に取った。そして、それをしっかりと両手で包み込み、穹路が無事に帰ってくることを強く祈りながら広くなったように感じるあの空を窓越しに見上げる。

「……信じてるから」

 そう小さく呟いた螺希の姿を、真弥は彼女らしい笑顔には少しだけ遠いもののニコニコと見詰めていた。

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