ギャルとボーズと白球と
「勝負の世界に、余計なもん持ち込んでんじゃねえよ」
「百九十五、百九十六…………」
夏の高校野球選手権大会、西東京大会決勝の朝、坂本誠二はいつも通り、朝の素振りを行っていた。
何十、何百と破れた手の皮膚はそのたびに厚さが増し、すっかりマメだらけになっている。肩の怪我をしてからは特に、投げられない時間をバットを振ることに費やした。数に裏打ちされたスイングは誠二のバッティングを一段、二段と上に上げていた。
「……二百」
誠二は素振りをやめて時間を確認する。時計はいつも通りの時間を表示していた。
「……さて、そろそろ飯食うか」
タオルで汗を拭い、空を見上げる。既に太陽が鋭い日差しを突き刺してきており、今日も暑くなることが予想された。
「何見てんだ、坂本?」
チームのバスに乗り込み、坂本が資料を取り出し目を通していると隣の木佐貫が声をかけてくる。
「二ノ松のデータの最終確認だ。お前もこの前見ただろ」
木佐貫はそれを聞くと興味なさげに「はいはい」と言って目を閉じる。本来、桐国高校の野球部では行きのバスの車内で寝ることは禁止されている。それは生理的観点から合理性があるのだが、木佐貫だけは守っていなかった。
誠二もいくら言っても直そうとしないので、もはや何も言ってはいなかった。
(一、二番は出塁重視。三番が二ノ松で一番の俊足、四番は足は遅いが、今大会ホームラン3本を含む長打8本……。スタメン平均打率3割越えか……こりゃとんでもねえ打線だ)
誠二はデータを見て、大きく深呼吸をする。二ノ松学院は春の甲子園にも出場し、ベスト8まで駒を進めている。そしてその要因となったのが、重厚な打線と圧倒的エースの存在である。
エースの鈴木祐輔でさえもピッチングの素晴らしさに目を奪われがちだが、バッティングの成績も並外れた成績を残している。
(祐輔は昔から器用だったからな。バッティングも長打から小技まですべて無難にこなせてたな)
誠二はやれやれといった表情でデータから目を離し、ふと隣の木佐貫を見る。木佐貫は既に気持ちよさそうに夢の世界に旅立っていた。
(まったく、これからこんな連中を相手にしようってのにたいしたもんだよ)
誠二は桐国高校の背番号1に頼もしさを感じた。
(さあ、すぐ後ろまできたぞ。祐輔)
誠二はそっと右肩をなでる。かつては不安をもたらしていた自分の右肩が、今は頼もしい味方であるように感じた。
(決着をつけよう)
誠二は力強く右の拳を握りしめた。
球場外、三塁側。二ノ松学院の選手及びスタッフが球場入りの準備をしていた。それぞれの選手が準備を進め、球場入りを待っている中、鈴木祐輔は少し離れたところで気持ちを整えていた。
「こんな所にいたのか鈴木。今日の調子は大丈夫か?」
二ノ松学院の監督である松井はいつも通り最後の確認として今日先発の鈴木に声をかける。
「大丈夫ですよ、監督。昨日もしっかり寝れましたし、食事や体調も問題ありません」
「そうか。それじゃ良かった。今日は行けるとこまでいくぞ」
松井はそれだけ言うと選手達のところへ戻ろうとする。
「監督」
すると不意に後ろから祐輔に呼び止められた。
「監督は三年前のこと……覚えてますか?」
「……ああ」
不意な質問に少し戸惑うも松井が静かに答える。すると祐輔は続ける。
「自分が言ったことです。坂本誠二とは違うチームに行きたい、と」
「そうだな」
「あのとき監督は自分を選びました。どうしてですか?」
「……お前が坂本より必要だと思ったからだ」
「今でもそう思いますか?」
「…………ああ」
無論、その判断が難しいものであることは祐輔にも分かっていた。野球において、同等の選手が選べるのであれば次に考えるのはポジションである。高校野球においては絶対的エースの存在は必要不可欠であり、それだけで勝敗を大きく左右してしまう。
しかし今、この段階において鈴木祐輔は胸中穏やかではなかった。本来ならピッチャーである自分がより重要であるはず。であれば今の質問の答えは即答されなければならない。
しかし松井の返答には一瞬の迷いがあった。
(ふざけるな……)
祐輔は胸の中に熱い憤りの炎を抱えながら、監督の背中を見つめる。
名将と呼ばれ、高校野球界に名を馳せた松井監督にそこまで惚れ込ませるかつての相棒が今は心底憎たらしかった。
「今日の試合で……」
「今日の試合ではっきりさせて見せます。監督の判断が正しかったと」
「……ああ。是非頼む」
それだけ答えると松井はまた歩いて行った。
「桐国高校シートノックを開始して下さい」
「行くぞ!」「「イチッ!ニッ!サンッ!!」
桐国高校の選手が一斉にグラウンドに散り、シートノックを受ける。その動きは鍛え抜かれ、守備にほころびを見いだすことは難しそうであった。
(やれやれ、鍛えられているな)
松井はベンチに座りながら桐国のシートノックを観察する。しかしこれまでの試合にもあるように桐国のエラー数は極端に少なく、二ノ松学院のエラー数よりも少なかった。
(唯一のエラーはピッチャーのバント処理。しかもそれも数多くあるうち一回失敗しただけだ。)
松井は頭をかきながらノックを打つ小林をみる。そのノックは非常に美しく、選手達も非常に良い形で試合に入れそうであった。
(まったくとんでもないチームを作りますな。小林先生は)
松井と小林はキャリアにも差があり、松井は小林とは違い高校野球の花形を歩いてきた男であった。以前に戦ったときは小林は桐国の監督ではなかったがその試合はコールドゲームで負かしている。
(しかしあのときは明確な戦力差があったからだ。コールドも向こうの投手が疲れたところを大量得点して勝っただけ。相手にもう一人ピッチャーがいたら負けてた)
松井は「いかんいかん」と頭を振り、ネガティブな思考を頭から追い出す。野球において流れというものが如何に重要か、相手に気持ちで負けることがいかに問題かを名将は理解していた。
(とはいえ今日の試合、楽にはいかんだろうな)
「やれやれ。少しは世間の評判に耳を傾けて油断してくれるとありがたいんだがね」
シートノックを終えた小林は相手ベンチにいる松井をみてそう呟いた。
名将松井は全国的に有名な名監督であり高校球界にその名を知らないものはないとされるほどの男である。
加えて二ノ松は鈴木を筆頭に十分な戦力をそろえている。大方の予想では、二ノ松が圧倒的有利というものであった。
(むこうが油断してくれないとなると、問題はこっちの連中だが)
小林はベンチ前で素振りをする野手と、ブルペンで準備している木佐貫を見る。
(野手も上々、木佐貫もいつになく集中できている。本当に木佐貫は「オン」「オフ」の切り替えがうまい)
小林はチームの状態に満足する。これでできる準備がすべて整った。
「さあ、後は力のぶつかり合いだ。真正面から組み合うとしよう」
(玲奈のやつ……二ノ松学院でマネージャーやってたのか……)
試合前のベンチ前整列で相手側のベンチを見たとき、誠二は初めて野崎玲奈が二ノ松学院のマネージャーをしていることに気付く。
二ノ松学院の選手も整列をし始め、ピッチャーの祐輔が玲奈の近くで話している。おそらく最後の確認をしているのだろう。
ふとそのとき祐輔と目が合ったように誠二は感じた。祐輔はどこか話している姿を見せつけるように振る舞っているように誠二は感じた。しかしその様子をみても、誠二の心はどこか穏やかだった。
少しして審判が出てくると祐輔も並ぶ。そして審判の声と共に両チームはベース前に整列する。
(なんだろう。不思議と穏やかな気分だ)
誠二は周りの音が徐々に消え始め、すべてのことが無意識に行われている気がし始めていた。
先攻の桐国高校。一番が初球をセンター前に運びいきなりランナーが出る。すかさず二番が送り、三番は凡打に倒れ、ツーアウトで誠二に打順が回る。
(あいつ……余計なこと考えてるな)
誠二にはマウンド上の祐輔の表情が異常な程鮮明に見えていた。一番にヒットを打たれたこともその集中の欠如から来るものであろう。
(俺に……対抗心をもっているのか……?)
初球は外に外れる。ギリギリのコースであったが誠二はまるで振る素振りを見せなかった。
(だとすれば、ありがたいな。少しは……追いつけたみたいだ)
二球目は外低めにストライク。高校野球は外側と低めに少し甘い傾向がある。誠二はボールと判断していたが今日の審判が外側に甘いことを確認する。
(しかし、それじゃ今日の勝負)
三球目も外側。しかし変化球が少しだけ浮いた。
(俺がもらうぜ!)
ガァキイィィィン!!
鋭い打球音が誠二の頭の中で響く。そしてその瞬間誠二は音を取り戻した。
耳をつんざくような大歓声が一塁側の応援スタンドから聞こえる。誠二は少しして白球が右中間スタンドに吸い込まれているのを認識する。
「嘘、だろ」
祐輔はマウンド上で呆然としている。これは鈴木祐輔にとって今大会初めて打たれたホームランであった。
「勝負の世界に、余計なもん持ち込んでんじゃねえよ」
誠二は静かにそう呟き、ホームベースを踏む。ベンチに戻ると選手達から手荒い歓迎が待っていた。
熱い戦いの火蓋が今、切って落とされた。
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