ギャルとボーズと白球と
「余裕がない男はダメだな。懐深く構えてけ」
日差しの強い朝だった。坂本誠二はセットしたアラームより30分以上早く目が覚めていた。
(大丈夫。いつも通りだ)
誠二は自分の右腕をさすりながら確認する。二ヶ月の治療期間を経て復活した右肩は痛みを微塵も感じさせないかつての状態へと戻っていた。
試合当日の朝を迎え、自らの手がまた震え出すのではないかとも危惧したが、そこはさほど問題なかった。
誠二は部屋を出ていつも通り朝の素振りをしにいく。
夏が始まろうとしていた。
(アイツの試合、今日だったな)
朝のホームルームの時間、芽衣は窓際に一つぽつんと空いている席を眺めながらそんなことを考えていた。
初戦は平日であったため野球部は公欠をもらい、学校を休んでいる。何人かの生徒は授業をサボって応援に行っているようだ。
「メイは行かなくてよかったの?」
「うわぁ!」
後ろから唐突に声を掛けてきた優衣に驚き、芽衣はつい声を上げてしまう。
「何もそんなに驚かなくても。私、何度か声かけたよ?」
「はははは。ごめんユイ、気付かなかった」
芽衣は笑ってごまかしながら周りを見渡す。ざっと見たところ三分の一近い生徒が欠席している。
(けっこう皆見に行ってるんだ……)
先生達も毎年のことなのか特に気にすることもなく「今年は多い方ですね」などといいながらホームルームを進めている。
今までも野球部や他の部活の試合はたくさんあった。しかし学校を休んで応援しにいく生徒はそこまで多いわけでもなかった。やはり最後の大会であること、野球部が注目されていること等の影響は大きかった。
「さあ、授業はじめるぞ」
1限目の授業の先生が教室に入ってくる。生徒は各々教科書を取り出し、少し閑散としたクラスの中でいつも通り授業が行われていった。
「第一試合、もうすぐ終わるぞ」
コーチがアップ中の選手達に前の試合状況を伝えにやってくる。
桐国は第二試合であり、前の試合が終わり次第球場に入る。
「坂本、今日何回で終わると思う」
一緒にアップしている今日の先発投手である木佐貫が聞いてくる。
「お前、コールド勝ちする前提かよ」
「まあ、流石にできなきゃまずいでしょ。今日の試合は」
木佐貫はリラックスした様子で笑う。誠二はキャッチャーであるため、木佐貫と一緒に他の選手とは別にアップをしている。
他の選手とは対照的に木佐貫は非常にリラックスした様子で準備を進めていた。そのマイペースさ故か、今年の夏も背番号1をつけ、監督にエースとして信頼されている。
(こういう時のこいつのマイペースさは羨ましいな)
誠二は身体を動かしながら、木佐貫の様子を眺める。緊張感のかけらもなく、鼻歌を歌いながらストレッチをするその姿は、他の強豪校ではみられない姿とも言えた。
「おい、坂本」
「なんだ?」
「お前、手震えてんぞ。大丈夫か」
「え?」
木佐貫はにやにやしながら誠二の手を指さす。誠二の指がかすかだが小さく震えていた。
「ばか。これは武者震いだよ」
誠二は笑いながらごまかす。
木佐貫は「お前も可愛いとこあるなぁ」と坂本の身体をツンツン触ってくる。
「ばか、気色わりい。さわんじゃねえ」
「なーに、ナイーブな坂本君をリラックスさせてあげようと思ってね」
「やめろ、はなれろ」
二人の男の戯れは入場まで続いた。
「……であるからして日中戦争においては……」
朝一番の世界史の授業、芽衣にとっては得意な科目でもあり、受験に必要な科目でもあったがどうしても身が入らなかった。
「おっと、そろそろ時間か。じゃあ少しはやいけどこの辺にしよう」
「きりーつ」
そう言うと世界史の教師は生徒に礼をさせる。
「芽衣大丈夫?なんかうわの空だったよ」
後ろの席に座っている優衣が聞いてくる。
「そうかなあ?」
「そうだよ。もう見てて丸わかりだよ」
優衣がそう言って芽衣のほっぺたをつつく。芽衣は「も~、やめてよユイ~」と言いながら笑う。
「応援、行ってきたら?」
優衣は急に手を止め、芽衣に諭すように言ってくる。
「でも……」
「でもじゃない。このまま授業受けてたって、まるで頭に入ってこないよ」
優衣はそう言いながら芽衣に「ほら行った行った」と手を振った。
「……うん。わかった。行ってくる」
「よろしい」
「でも珍しいね。真面目なユイが授業サボるのをすすめるなんて」
「も~ひどい。私もそんな融通がきかない女じゃないよ」
優衣の可愛らしく怒ってみせる様子に、芽衣は笑いながら「ごめんごめん」と謝った。
「私だって授業さぼるのは勧めないよ。ルールは守らなきゃいけないもん」
「でもね」と言って優衣は続ける。
「それよりも友達のことが最優先だよ。芽衣にとって良いか悪いかが一番大事だよ」
優衣はそこまで言うとにこっと笑う。
「ありがとう。ユイ。わたしいつもユイに背中押されてばっかだね」
「いいの、いいの。お互い様だよ」
それをきいて芽衣は貴重品だけ鞄にいれて、教室を後にした。
「桐国高校、シートノックを開始してください」
「行くぞ!」「「イチ!ニ!サンッ!」」
アナウンスが流れ、桐国高校の選手が一斉にグラウンドへ駆けていく。
「さーて。坂本の奴大丈夫かね」
ブルペンで投げていた木佐貫は一旦投球練習をやめて、ホームベース付近に立って号令を出している誠二を見つめる。
「木佐貫さん。ピッチング練習、上がりますか」
「いやもうちょい投げるけど、坂本が上がってきてからでいいや」
木佐貫はブルペンで相手してくれている控えの捕手にそう言うと、再度誠二の方を見る。すると一瞬木佐貫の表情が険しくなる。
「どうしたんですか?木佐貫さん?」
「ああいやなんでもない。やっぱりもうちょい投げるわ」
木佐貫はそう言うとキャッチャーを座らせる。
「こいつはちょっとまずいな」
木佐貫はそう呟き、準備の速度を上げた。
(まじいな。こりゃ)
時を同じくして、シートノックを終えた監督の小林も、木佐貫と同じ感想をもっていた。
先程のシートノック、始まりは最初のボール回しで誠二が悪送球をしてしまったことからだった。
(本人の自覚があるかはしらねえが、あれ以降完全に置きに行ったプレーしかできてない。夏の大会は一度きりの真剣勝負。心で負けている奴の居場所なんてねえぞ)
小林は小さく唇を噛みしめた。自分の言ったことを反故にはできない。ここで坂本が結果を出せないようであれば小林は言葉通り、控えに回す覚悟で来ていた。
(まだだ。まだわからん。何か、何かきっかけがあれば坂本は)
「どしたの坂本。なんか緊張してない?」
「うるせえ。黙って投げろ」
相手のシートノック中、誠二はブルペンで木佐貫のボールを受けていた。
(こりゃ、本当にまずいな)
木佐貫は坂本から来るボールを受けながら誠二の心理が手に取るようにわかった。
(同学年で入部し、いままで何度もバッテリーを組んできた。何千、何万とボールを投げ合ってきた。けど今まで一度たりともアイツのボールに力がこもっていないことなんてなかった)
木佐貫は自分のボールの走りを確認する。調子は万全であり全く問題は無かった。
(今日のアイツには覇気がない。ボールに想いがのってない。これほど気持ち悪い感覚は今までに味わったことは無い!)
木佐貫は自分のボールの調子とは裏腹に誠二の気持ちが乗っていないことに憤りを感じていた。
(こんなもんじゃないだろ坂本!俺たちはバッテリーだ。片方だけよくても意味が無い。こんなところで、二年半を無駄にするつもりか!)
「集合!」
「「しゃあ!」」
審判の指示に従い、それぞれのチームの選手がホームプレートを挟んで並ぶ。両チームの選手が互いに礼をし、桐国の選手は守備につく。
(くそ!静まれ!震えるな!)
誠二は自らの震える右手で自分の腰元を何度もたたく。しかしいくらたたこうとボールを投げようと手の震えが止まらない。
(クソ!ちょっと失敗したくらいでオタオタしやがって!根性見せろ、坂本誠二!)
しかし言葉とは裏腹に誠二の身体は萎縮し、投球練習をしている木佐貫は不安を覚え始めていた。
(いつも巨大な要塞のように見えるあいつが、今日は随分小さく見える)
木佐貫はなんとか奮起させようと強めのボールを投げる。しかし誠二に変わる様子はなかった。
(木佐貫は気付いてるみだいだな。それに他の選手達にも伝播しちまってるのか、全員動きが硬い)
小林は足を組んだまま小刻みにつま先を動かす。そして途中でそれに気付き意識的に堂々とした振る舞いに居直す。
(俺まで影響されちまってるとは……。まだまだだな。しかしそういう意味では影響力のある奴だ。大したもんだよ)
小林はそんな風に考えながら誠二の様子を見つめる。
(わかった今日はお前と心中しよう。他の連中には申し訳ないがな)
監督としての小林は既に覚悟を決めていた。
「ツーモアピッチ!」
「ボールバック!」
投球練習はラスト二球にまできていた。
木佐貫は自身のルーティーンで最後の二球は必ずストレートを投げると決まっていた。
誠二はいつも通り右バッターの外いっぱいの位置にミットを構える。
しかし木佐貫の投げたボールを鋭く縦に変化し、誠二の後ろへと転がっていく。
(やべ!)
誠二は慌ててボールを拾いに行く。本来であれば係の人間が拾いに行くので、選手が行く必要は無いのだが誠二は気付かず、ボールの手前で係の選手が拾っていくのを見てそれに気付く。
(やばいな。俺。)
誠二は自分の心理状況がもうどうにも整理がつかない状態にまで来ているような気がした。心臓は鳴り続け、手の震えは止まる気配もない。そんな自分に対して思うところがあったのか変化球を投げてくる木佐貫。
誠二は今までに無いぐらい追い詰められている気がした。
(俺……もう)
「君!早くしなさい」
審判に急かされて、誠二はふと我に戻り顔を上げる。
その時だった。
バックネット裏の席、一番前にフェンスに張り付くようにしながらこっちを見ている少女を見つけた。
「応援って言ってもどの席ですればいいのかわからないよ~」
芽衣は球場には着いたもののどこで応援すべきか迷っていた。一塁側の応援席はOBや後援会の人々でうまっており席は後ろの方しか空いてなかった。
(そういえばアイツは)
芽衣は守備についている選手の中に誠二を探す。野球に詳しくない芽衣はポジションというものを分かっていなかったため少し苦労したが、いつも見ていた姿を比較的早く見つけることができた。
(なんか……いつもより小さく見える)
芽衣は見つけたと同時に考えるわけでもなく、誠二が一番見える席へと走って行った。近づいて行くにつれて見やすくはなっていくものの、どこか体が小さく見え、その印象はどんどん深まっていった。
(まるで、最初に話したときみたい)
芽衣はバックネットのギリギリのところにまで来て立つ。
その背中はどこか寂しげで、おびえているようでもあった。
その時、ボールを誠二がそらした。近くまで取りに来て、うつむいている誠二と目が合ったのはほんの一瞬だった。
「嬢ちゃん。見えないからどいてくんねえか」
バックネット裏にすわっている高校野球に詳しそうなおじさんに注意され、芽衣は慌てて後ろに下がる。その時も誠二はまだ此方を向いていた。
芽衣は近くで席を探したがありそうもなかったのでずっと後方の席まで芽衣は歩いて行く。誠二も振り向きホームベースへと帰って行く。
(あれ?)
芽衣が歩いているとき視界に捉えた坂本誠二はどこか大きく頼もしく見えた。
「何やってんだかな、俺」
誠二はそれだけ言うと走ってホームベースまで戻る。セカンドはベース付近についており次の投球後のキャッチャーからの送球に備えている。
誠二は大きく深呼吸をして、背筋を伸ばし、大きく構えて木佐貫に合図する。
木佐貫はどこか楽しそうな表情をしている。誠二には次も変化球を投げてくることが予想できた。
ふと監督やベンチを見る。監督はどこか安心したように、他の選手はすこし心配げに誠二を見つめている。
「余裕がない男はダメだな。懐深く構えてけ」
木佐貫はセットポジションから思いっきり腕を振りボールを投げる。木佐貫の鋭く落ちてベース手前でワンバウンドする変化球をシングルハンドでキャッチし二塁へと送球する。
その送球は一筋の白線を残し、セカンドのグローブへと収まっていく。
その見事な送球は球場内にどよめきと歓声を生み出した。
「こりゃ今日は仕事はなさそうだ」
小林はそう呟き深い青空を見上げる。
長い長い夏が、今始まった。
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