異世界の愛を金で買え!
泣き叫ぶ心
ただひたすらに痛かった。
夜通し走り続けた足は既に限界を越えていた。暗闇の中、足下もおぼつかない中で走ったせいで何度も転び、顔や手には数え切れないほど擦り傷ができていた。
血と汗でぐしゃぐしゃになりながら、アイファは走った。
体中が悲鳴を上げていた。
でも、何より痛かったのは、手でも足でも、そもそも身体でもなかった。
本当に痛かったのは、胸の奥。
心が、慟哭していた。
全力で走り、家に帰ったとき、目に入ってきたのはあの忌まわしき人狼の姿であった。金貸しのドニー。金を取り立てるためには文字通り何でもすると言われた男である。
母親が死に、父親が失踪してから、この男との付き合いが始まった。借金は多額と言えば多額ではあったがそれだけが問題ではなかった。兄弟姉妹あわせて六人が生きていくだけでも大変なのだ。それなのに借金を返す余裕なんてありはしない。
ただそれが許されるのであればこの男は恐れられてはいない。
はじめてこの男がアイファの元にやってきたとき、アイファは当然「お金はない」と断った。するとドニーは躊躇うことなく弟を切りつけた。今でも弟の頬にはその跡が残っている。
その結果アイファはこの男が来たときはあることをすることになった。盗みである。アイファはこれまで何度も職場の金銭を盗み、利息の返済にあてた。そのため家族の拠点は度々代わり、仕事も何度も変えてきた。
「よう、アイファ。随分と遅かったじゃねえか」
ドニーはナイフを片手に椅子にふんぞり返って座っている。弟妹達は皆おびえた様子で部屋の隅に固まっていた。
「弟妹には手を出していないでしょうね」
「ああ、勿論だとも」
アイファは弟妹達に駆け寄りドニーの言っていることが本当か確認する。全員おびえた様子ではあったが特に外傷を与えられてはいなかった。
「姉さん……」
「大丈夫。……お金は?」
「渡した。でもあいつら足りないって言って、ずっといるんだ」
「わかった。あとはなんとかする」
アイファは再びドニーに向き直る。
「お金なら渡したはずよ」
「あのボウズが渡した金か?あれじゃ足りねえな」
「利息分にはなるはずよ」
「ダメだ。こっちも急ぎの理由ができたんだ。元の分まで払ってもらわなくちゃな」
ドニーはナイフの切っ先をアイファに向ける。その鋭い切っ先はアイファの柔らかい首なぞわけもなく切り裂いてしまうであろう。しかし後ろで震えている弟妹のため、アイファは引き下がるわけにはいかなかった。
「これがあるわ」
アイファはそう言って金庫から盗んできた袋を渡す。
「ひーふーみー……随分入っているな」
「これで問題ないでしょ。残っている借金もこれでチャラになるはずよ。さあ、帰って」
アイファはそう言って、家の扉を指さし帰るように指示する。しかしドニーは突然笑い出した。
「嬢ちゃん、力関係を勘違いするなよ。お前は指示される側であって、する側じゃねえんだ」
そう言うとドニーは「アオーン」と軽く遠吠えをする。すると外から仲間らしき人狼が家の中に入ってきた。
「……どういうこと?」
アイファはドニーに尋ねる。一味と思われる人狼達は皆同様に「へっへ」と笑っている。
「簡単だ。お前の仕事は終わったんだよアイファ」
そう言ってドニーは立ち上がり、アイファにナイフを突きつける。
「これからお前らを檻にぶち込んで、東の港町から出荷する。どうも奴隷が足りないみたいでな」
「どういうこと!話が違うじゃない!」
アイファは怒鳴るようにドニーに言う。しかしナイフを首元に突きつけられ、無理矢理黙らされる。
「力関係を勘違いするなよ。嬢ちゃん。もう二度目だぞ」
「………」
「約束を守るべきなのはお前らであって、俺たちではない。依頼主に頼まれていた金は回収したんだ。あとはお前らを売って、俺たちの取り分にしなきゃならん」
「クズめ……」
「クズ?金も返さない父親と、盗みばかりはたらくその娘に言われたくはないね」
アイファはその言葉に何かが切れた気がした。
「あんたに……」
「?」
アイファの肩が震える。
「あんたなんかに何が分かるのよ!」
「バタンッ」という音と共にアイファが地面に叩きつけられる。アイファは呼吸が一瞬止まり、自分がドニーに首元をつかまれ叩きつけられたことを理解するまでにすこし時間がかかった。
「三度目だ。もう言わねえぞ」
ドニーはアイファの様子をみる。叩きつけられた拍子に息を荒くしているが、いつもより感情的であるようにも見えた。
「お前にしては珍しいな」
「……何が」
「いつもは物わかりが良かった。ここで喧嘩を売れば殺されるって分かってたからな。だからいつも逃げていた。見つかる度に一時的にお金を払って」
「………」
「もってきた金もそうだ。普段のお前ならあんな大金素直に渡したりはしない。そのまま殺されるかもしれないからな。どうにかして自分たちの身が安全であることを確認してから渡したはずだ。今までだって渡し方には工夫があった。だが今日に限って冷静じゃなかった。どういうわけだ?」
「………あんたに関係ないでしょ」
「そうだな……」
ドニーはアイファを強く踏みつける。
アイファは「ウッ」といううめき声と共に腹をおさえた。
「姉さん!」
「動くんじゃねえ!ぶち殺すぞ」
ドニーの言葉に弟妹達が硬直する。
「何度言わせれば気が済むんだ。力関係を考えろ。どちらが上で、どちらが下かをな」
「………」
「これまでのお前は利口だった。だから俺も生かしていた。これからも面倒な事情がなければ生かしておくはずだった」
「……」
「今も変わってはいない。部屋にメモ書きを一つ置いておけば、盗みも働くし、すぐさま家に駆けつける。家族思いのドブネズミだ。だが一つだけ変わっちまった」
ドニーはしゃがみ、アイファの髪をつかんで顔をのぞき込んだ。
「今の職場に何の思い入れがあったって言うんだ?今まで通り掃きだめみたいな場所だったんだろ。なんたってお前を雇ってくれる職場なんだからなぁ」
ドニーは笑いながら続ける。
「良かったじゃねえか。今度はきちんとお前にあった場所に送ってやるよ。奴隷として、必要とされる場所にな」
ドニーは部下達に指示を出して、弟妹達を縄で縛り始める。
「しっかし、お前の雇い主もバカだよな。こんなろくでもない娘雇って、良い給料払って、あげく金も盗まれる。色に目がくらんだのか?その割には手を出されたみたいでも無さそうだし……。もしかして手を出す勇気は無い、あわよくばとか考えている臆病で小娘好きのバカオヤジなのか?」
「ドニーさん、そりゃあいい。この娘もうまい金づるを見つけたもんですぜ。給料もけっこう良かったみたいですし」
「そうそう。世の中捨てたもんじゃねえな。ゴミにだって使い道があらぁ」
ドニーとその部下達がゲラゲラと笑っている。アイファは静かに懐に手を入れた。
「あんたに……」
「あ?」
「何がわかる!」
アイファは懐からナイフを抜き、ドニーに突き立てようとする。しかしドニーに腕でガードされ、思い切り頬を殴りつけられる。
「もう何度目か分からねえ。これ以上言わせるな」
ドニーはナイフを防いだ腕を見る。アイファの腕の部分に当てたから突き刺さることは免れたものの、ナイフがかすり、少し血が出ていた。
「ドニーさん、殺しますか?」
部下の一人が言う。
「やめとけ。一時の感情で利益を失う必要は無い」
ドニーはそう言って、部下に仕事を続けるように言った。
(みんなが……)
アイファはすでに指一つ動かせなかった。ただでさえ疲労困憊の中で、相当なダメージまで受けたのである。
(なんで……私ばっかり……)
アイファは流れていく涙に光景がにじんできていた。
(誰か……)
「助けて……」
ドニーはかすれたアイファの声を聞きアイファの方に向き直る。
「助けなんかこねえよ。もう寝てな」
そう言ったときであった。
「案外そうとも限らんぞ」
不意にした声にドニーは慌てて声のする方をみる。すると玄関には一人の男が立っていた。
「誰だてめえは!」
ドニーは突然現れた男にナイフを構える。しかし男はそんなことはまるで気にもならないかのようであった。
「確かに名乗るべきではあるな」
男は更に一歩出て続ける。
「松下佐三、異世界からきた経営者だ。うちの従業員に手を出したんだ。経営者として対処する権利と義務があるな」
佐三は落ち着いた声でそう言った。
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