サイコ魔道士の変遷

ねんねこ

09.夜中の吸血鬼

「――あんた、チェスターだろ」
「ご名答」


 ヴァレンディア魔道国へ来てからというもの、イアンが幾度と無く口にしていた名前だ。名を言い当てられた事に驚く様子も無く、拍手喝采でも贈るかのように緩く手を打つ男――チェスター。


 それが心底恐ろしいものに見えたジャックは手に持っていたタガーを突如現れた吸血鬼へと投げつけた。
 正確に額に投げつけられたそれはしかし、刃先がチェスターに触れた傍から黒い羽虫が飛び立つように分かたれ、結果的に言えば彼に傷一つ付ける事は叶わなかった。目の前で起こった不可解な事情に顔をしかめる。見れば、掠りもしなかった刃物は背後の壁に弾かれ、床に突き刺さっていた。


「私の事は知っていたのに、『真夜中の館』については知らなかったのか? 吸血鬼に夜戦を仕掛けるなど、正気の沙汰ではないなあ」
「そっちが勝手に、俺の前に現れたんだろうが……!」
「そうとも言う。さて、お前は研究所に連れ帰るとして――ああそうだ、イアンは帝国へ戻る気はないのかね? 場合に寄っては帰って来るという選択肢も吝かではないと思うのだが」
「いや、無理だろ。ドミニク殺してるし」
「バルバラの事ならば、私が上手く計らっても良いぞ」


 ゆっくりとチェスターが椅子から立ち上がる。優美な動作長髪を肩から払った。


「ふん、あんたの言葉のどこに信用出来る要素がある? そう言っておいて、イアンを始末する気なんだろ」
「いいや? 事実、彼女程、魔道に長けた者はいない。戻ってくれるのならばその方が私の仕事も減って助かるのだがね。お前を盾に脅せば言う事を聞くだろうか」
「聞かないだろ、普通に考えて」
「そうだろうな。私はあれのああいう気質を好んでいたのだが、全く残念な事だ」


 話ながらもジャックはもう1本のタガーを抜いた。今投げつけたのは製品の方だったが、同時に手に取ったのは『曰く付き』と名高い方のタガー。どちらにせよ、現状では彼に対して有効な手段は無いので同じ事だろうが。


 ふわり、優雅にチェスターが床を蹴った。軽い音を立てて机の上に着地する。自分と彼を隔てていた障害を一つ乗り越えた吸血鬼は、急ぐ事も慌てる事も無くゆったりと距離を詰めてきた。
 勢いのままに攻めてくるのではなく、肉食獣が兎でも追い詰めるかのような余裕さに焦りばかりが募っていく。それは狩られる側の焦燥だ。


 一歩、二歩と後退る。背中が壁にぶつかった。
 薄い笑みを浮かべたチェスターの手が伸びてくる。まさに相手を意志ある他者と思っていないような、無造作な挙動で。


「クソっ……!」


 せめてもの抵抗と言わんばかりに持っていたタガーを振るう。


「ん……!?」


 それは伸びて来た吸血鬼の手の平を掠り、僅かに血を滲ませた。適当な行動が起こした、唐突な奇跡に目を見開く。
 先程、タガーを投げつけた時はそもそも攻撃が『通っていない』ようだった。チェスターは避けるでもなく、その攻撃が自分には無意味である事を知っていたかのように微動だにしなかったし、夜中の吸血鬼には『意味の無い』攻撃だったのだろう。


 しかし、今はどうか。
 武器を持ち替えただけだが、それでも、タガーの刃はチェスターの手に傷を付ける事に成功した。
 原理は分からない。分からないが――


「これなら、通る!」


 常日頃、何者かと相対する時の様にジャックは斬り掛かった。初めて余裕の表情を崩したチェスターが半歩下がり、顔面を強襲したタガーの刃を躱す。
 泳いだ腕を掴まれ、先程まで座っていた席とは反対側に投げ飛ばされた。
 くるりと空中で体勢を立て直したジャックは軽やかに床へと着地する。


「――変わった道具を持っているようだ」
「ふ、やっと俺が活躍する番か? 攻撃が当たるのなら、昼間の吸血鬼と変わらないな」
「……そうだといいな、127号」



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