零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第36話(最終話) 清香流、矛の収め方

「……はあぁ、良く寝たぁ。早起きすると気持ちが良いわね。今日も一日、頑張ろうっと!」
 試験期間突入の月曜日。まだ薄暗い外の景色などお構いなしに、清香はこれ以上は無い位、爽やかに朝の五時にベッド上で体を起こした。そして手早く着替えてから机に向かい、今日試験を受ける予定の教科の最終確認を始める。
 そして時計が七時になった時、清香は無言で椅子から立ち上がり、リビングの方へ歩いて行った。


「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう、清香。朝ご飯はできてるから」
「分かったわ。すぐ食べるね」
 そんないつも通りのやり取りをした二人はダイニングテーブルに着き、「いただきます」と挨拶をして食べ始めた。しかしそこから先は延々と無言で咀嚼する、微妙に気まずい雰囲気が漂う。


「……あの、清香?」
「何?」
「まだ怒ってるのか?」
 昨夜帰宅してからはあからさまに怒りをぶつけられた事は無かった清人だったが、時折チクチクと嫌味を言われ、結構神経をすり減らしていた。しかしそんな清人に向かって、清香が朗らかに笑う。


「怒るって、何が? 私がお兄ちゃんに? 有り得ないでしょ。詳しく言ってみてくれる?」
「……いや、見当違いなら良い」
(やっぱりまだ怒ってるな……)
 それをはっきり認識させられて清人は密かに落ち込んだが、ふと気になった事があって清香の全身に視線を走らせた。更に座ったまま体を屈め、テーブルの下も眺める。


「……何やってるの、お兄ちゃん」
 冷え冷えとした声がテーブルの向こう側からかけられたが、上半身を起こした清人は真顔で清香に告げた。


「清香、その服装で出掛ける気なら、着替えて行った方が良い」
「は?」
「ジーンズにスニーカー。荷物もリュックに詰めて背負って行け」
「……何なの? いきなり」
「いいから、言う通りにしろ」
 そう言って清香から視線を逸らしつつ清人は食事を続行し、清香も怪訝な顔をしながら食べ続けたのだった。


 それより少し後の時間帯、前夜から全く清香と連絡が取れなくなっていた聡は、清香達が住んでいるマンションの入り口付近で、通勤や通学の為に出て来る住人達からの訝しげな視線を浴びつつ、清香を待っていた。
 辛抱強く待つこと三十分近く。自動ドアが横にスライドして、清香が姿を現す。それと同時に清香は聡の姿を認めて一瞬立ち止まったが、聡はそれに構わず通路の真ん中で上半身を直角に近い状態にまで折り曲げて声を上げた。


「清香さん! 全面的に俺が悪かった。何度でも謝るから、落ち着いて俺の話……、え? ……はあ? ちょっと!」
 パタパタと自分に向かって駆けてくる足音と気配を察知した聡は、罵倒されるか蹴られるか、または投げられるかと地面を見たまま一気に緊張したが、何故か背中から腰の間を突かれた感じがしてから、背後に走り去る足音を聞いて慌てて上半身を戻して振り向いた。すると予想に違わず聡を馬跳びして乗り越え、軽快に駅方向に走り去る清香の姿を認めて唖然となる。
 それに追い討ちをかける様に、中から出て来た清人が軽く拍手をしながら、棒読み調子で呟いた。


「冷静な判断力と抜群の運動神経。流石俺の妹だ。革靴のお前では、もう追い付けないな」
「兄さん! 他人事の様な事を言ってないで、少しは清香さんに取りなしてくれても良いじゃないですか!?」
「他人事だからな。お前もさっさと出社しろ。遅れるぞ?」
「…………くっ!」
 怒りを露わにして文句を言った聡だったが、清人に手で追い払われる真似をされた上、軽くいなされて歯軋りした。しかしいつまでもその場に居るわけにもいかず、重い足取りで職場に向かったのだった。


 そして翌日。朝再び清香を待ち構えていると、清香に先んじて清人が現れた。それに警戒心ありありの表情で、聡が声をかける。
「……おはようございます」
「ああ。……しかし夜押し掛けず、朝だけなのは誉めてやろうか」
「年度末の決算期で、何かと忙しくて連日残業なんですよ!」
「それは良かった」
「……嫌みですか」
 前日同様聡が歯軋りした所で、清人がさり気なく移動して聡の横をすり抜けようとしながら素早くその背後に回り込み、羽交い締めにした。


「ちょ! 兄さん、いきなり何を!?」
「うるさい。大人しくこっちに来い」
 そのままの体勢で清人がズルズルと出入り口から離れた場所に移動すると、壁の向こうから清香の声が微かに伝わってくる。
「お兄ちゃん、行ってきまーす!」
 それを耳にした聡は、怒気を露わにして叫んだ。


「兄さん! 何で邪魔をするんですか!?」
「俺は清香に嫌われたくない」
「……本当に血も涙も無い人ですね、あなたって人はっ!」
 盛大に文句を言いつつ何とか清人の拘束を振り払った聡は、憤然として駅に向かって歩いて行った。


 そして水曜日は地下駐車場で清人の車に清香が乗り込み、待っていた聡の目の前を無情にも通り過ぎて行ったが、木曜日はいつまで経っても清香が出掛ける気配が無かった。
 自らの出勤時間も近付いている事からじりじりしながら待っていると、悠然と中から清人が現れ、信じられない内容の事を口にする。


「清香なら一時間以上前に出掛けたぞ?」
「え?」
「早く行って、試験開始前に友人と一緒に図書室で勉強するそうだ」
 それを聞いた聡は一瞬黙り込んでから、苦々しげに呻いた。


「……兄さん、よくも今まで黙ってましたね?」
「人聞きの悪い。ギリギリには教えてやっただろう? さっさと行かないと本当に遅刻するぞ?」
「ご親切にどうも!!」
 腹立ち紛れに吐き捨てた聡は駅に向かって駆け出し、間に合わないと判断したのか流しているタクシーを捕まえて慌ただしく乗り込んで去って行った。


 そんな四日間が過ぎた後の金曜日。いつも通り朝食を食べながら、清人は慎重に問い掛けた。
「なあ、清香……」
「うん? なあに? お兄ちゃん」
「その……、あいつに連絡とかは……」
 恐る恐るそう口にした途端、清香の目が物騒に光った。


「え? お兄ちゃん、“あいつ”って誰の事? 浩一さん? 友之さん? 正彦さん? それとも修さんか明良さんか玲二さん? ちゃんと誰か分かるような言い方をしてくれないとな~」
「いや、いい。何でもない」
「そう?」
 そうして黙々と食べ続ける清香を見て、清人も黙って食事を続けた。


 そしてその日は聡の待ち伏せは無く、清香と清人は肩透かしを食らった気分でマンションの出入り口で別れた。そして清人は台所を片付けながら、しみじみ考え込む。


(清香もな……。普段温厚な分、一旦怒るとなかなか収まらないタイプだから。そう言う所は、流石あの香澄さんの娘だ……)
 そんな事を考えつつ、自分は比較的あっさり清香に許して貰った分、聡への当たりがきつくなっている事を自覚していた清人は、この間多少後ろめたい気分を抱えていた為、濡れた手をタオルで拭きながら深い溜息を吐いた。


「仕方がないな……」
 そう心底嫌そうに呟きながらも、清人は時計で現在時刻を確認しながら携帯を取り上げた。そして使う事は無いだろうと思いながらも、真澄から一応教えて貰っておいた番号を、多少躊躇しながらも選択して電話をかけ始める。


「……はい、角谷ですが」
 大して待たされる事無く応答があったが、名乗られた名前で相手の居場所が特定できた。
「ああ、やっぱり今の時間は職場か。今大丈夫か?」
「……少々お待ち下さい」
 聡が幾分険しい口調で断りを入れ、少しだけ待たされてから再度声が伝わってくる。
「何の用ですか?」
 隠す事無く冷気を伝えてくる聡を、清人は微塵も気にせず話し始めた。


「お前、今日の午後に早退して、一度家に帰れ」
「いきなり何です?」
 その唐突な物言いに、流石に聡が腹を立てた声を返してきた。しかし一方的な清人の話が続く。


「清香の試験期間は今日までだ」
「はい、以前に彼女から聞いて知ってます」
「十六時半に終了予定だ」
「それがどうかしましたか?」
「清香の話では、最近キャンパス周辺の取り締まりが厳しいそうで、先週どこぞのバカボンが正門横に堂々と停めていたポルシェが、レッカー移動させられたそうだ」
「良い加減にして下さい! それが何だって言うんですかっ!」
 廊下の隅で周囲の目を憚りながらコソコソと電話を受けていた聡は本気で苛立ちながら叫んだが、そんな事を考慮しないまま清人が話を続けた。


「だから試験終了時間を狙って、正門の真ん前にお前の車を停めろ」
「は?」
「構内から門に向かって歩くと、嫌でも目に付く様にしろと言っている。もうこれ以上は言わんから察しろ」
「……………………」
 そこで唐突に黙り込んだ聡に、今度は清人が苛立たしげな声を上げる。
「おい、聞いているのか?」
 その問い掛けに、聡は慎重に問い返してきた。


「それは……、俺に車をレッカー移動される危険を冒して、清香さんが逃げ出さない様な処置を講じろと? 例えば『乗ってくれるまで移動させない』と言うとかですか?」
「最悪、目の前でレッカー移動される無様な事になっても、同情はして貰えるだろうな」
 自分の言いたい内容を汲み取った聡に、清人皮肉っぽく付け加えた。それに笑いを堪える様な声で聡が応じる。


「アドバイス、ありがとうございます」
「それと……、その後どこかに寄ってきても構わんが、門限は十九時だ。一分一秒たりとも遅れたら、一生家に立ち入れないと思え」
「……門限は二十一時では無かったんですか?」
 思わず憮然とした声を発した聡に、清人が平然と言い返す。
「今夜は清香の試験が無事終了したので、清香の好きな料理を色々作る事にしているからな」
 それを聞いた聡は、諦めた様に溜め息を吐いてから、神妙に告げてきた。


「分かりました。時間厳守で清香さんを送っていきます」
「そうか。もしきちんと門限前に送ってこれたら、お前にも食べさせてやってもいい。多目に作るつもりだったから」
「え? あの……」
 そこで戸惑い気味の声を返してきた聡に、清人が淡々と続ける。


「何か不服でも?」
「いえ、とんでもありません!」
 慌てて否定してきた聡に、清人は思わず口角を上げた。


「そうか。それなら適当に理由を付けて職場を抜けろ。……ただし、間違っても母親がまた病院に担ぎ込まれたなんていう、縁起でもない嘘は吐くなよ?」
「大丈夫です。兄が交通事故で病院に担ぎ込まれたとでも言いますから」
「おい!」
「冗談です。それでは失礼します」
 冗談では無い内容を口にされた清人は思わず怒りの声を上げたが、聡は笑いを含んだ声であっさりと通話を終わらせた。そして通話が途切れた携帯を見下ろして、清人が忌々しげに呟く。


「あいつ……、やはり気に入らん……」
 清香を巡る男二人の紛争は、未だ収束する気配は無かった。


 同じ頃、試験の休憩時間に教科書の最終チェックをしていた清香に、隣に座っていた朋美が不審そうに声をかけた。
「……ねえ、清香。試験が始まってからずっと思ってたんだけど、あんたこの試験期間中変じゃない?」
「ん~? 変ってどこが~?」
 朋美の言葉に一瞬ピクリと反応したものの、素知らぬ顔で教科書を捲る清香に、朋美は呆れ気味に言葉を継いだ。


「凄いピリピリしてるでしょ。別にしゃかりきになって試験に挑まなくても、あんたの成績なら単位を落とす危険性は少ないのに」
「単に、何事も油断は禁物って事よ」
「そうなの? それなら良いんだけど……。ところで春休みになったら聡さんとデートの約束でも」
「朋美!!」
「はっ、はいっ!」
 そこでいきなり清香が分厚い教科書をバタンと勢い良く閉じながら、咎める様な口調で朋美の名前を口にした為、朋美は反射的に返事をし、周りの者達は何事かと視線を向けた。
 そんな中、険しい顔を見せていた清香が、にっこりと笑いながら朋美に言い聞かせる。


「他人の迷惑だから、試験に集中しようね?」
「……分かりました」
 そしてコクコクと頷きながら、朋美は確信する。
(これはやっぱり聡さんと何かあったのよね。まさか全面撤退した訳じゃ無いとは思うけど……、後から清人さんに確認してみないと)


 そんな決意をしながら横に座る清香の顔を慎重に窺っていた清香だったが、携帯がメール着信をバイブで知らせてきた。
 試験開始時にはまた電源を落とす為、今のうち内容を確認しておこうかとバッグから取り出し、受信内容を確認した朋美は、無言で首を捻る。


(何なんだろう、この指示。相変わらず清人さんのやる事って、凡人には理解不能な事が多いわよね……)
 そうは思ったものの、清人からの指示内容は大した手間や労力がかかるものでは無く、帰りにそれを実行する旨を頭に叩き込んで朋美は携帯の電源を落としたのだった。


 そして夕方になって期末試験は無事に全日程を終え、清香と朋美は連れ立って校舎から出て歩き出した。
「はぁ~、やっと終わったわね~。あと少しで春休みだわ。嬉しい~」
「……そうね」
 何となく心ここに有らずといった風情で朋美と並んで歩いていた清香だが、ふと気がついて横に顔を向けながら尋ねた。


「ねえ、朋美。朝話していた店に帰りに寄って行くなら、西門の方が近いのにどうして正門の方に行くの? 遠回りじゃない」
 それを聞いて、朋美が些か慌てた様に答える。


「……え? そ、そうかもしれないけど、ちょっとこっちを回って行きたいなあって」
「だからどうして」
「だって、皆一斉に校舎から出てくるし、西門に向かう通路って狭いでしょ? ゴチャゴチャした人込みを歩きたくないのよ」
「……ふぅん? まあ、良いけど」
 不思議そうな顔をしたものの清香は取り敢えず頷き、朋美は密かに安堵の溜め息を吐いた。そして二人揃って歩きながら、無言で考え込む。


(全く……、変な指示を寄越さないでよね? 第一、聡さんとの事がどうなってるのか、気になってしょうがないわよ)
(流石に今朝は聡さん、マンションの前にも居なかったみたい……。だけど、まだ納得できないし、腹を立ててるんだから!)
 そうして校舎間を通り抜けて、真っ直ぐ正門へと伸びる道に入った所で、朋美がいきなりその足を止めた。清香は少し遅れてそれに気付き、二・三歩先に進んでから立ち止まった朋美を振り返る。


「どうしたの? 朋美。こんな所で止まって」
 その問い掛けに、朋美は前方から清香に視線を移し、何とも言えない微妙な顔付きで口を開いた。


「……あのね、清香。私、初めて聡さんに会った時に、何となく清人さんと似てる気がするな~と思ったんだけど」
「はぁ? あの二人の、どこら辺がどう似てるって言うのよっ!」
 一連の事を口にすると怒りがぶり返す為、週明けから聡と清人に関する事は一言も漏らしておらず、当然二人の関係性を知らない筈の朋美にそんな事を言われて清香は苛立った。


(何? 無関係の朋美にも分かる位、あの二人って端から見て似てるわけ? それなら全然気が付かなかった、妹の私の立場って何なのよ!?)
 そうして半ば八つ当たりしながら朋美の次の言葉を待った清香だったが、続く台詞で目が点になった。


「どこら辺って……、その、二人とも頭が良い筈なのに、時々もの凄いお馬鹿さんな所?」
「……何、それ?」
 思わず胡乱げな視線を向けた清香に、朋美が冷静に尋ねる。


「清香、聡さん、車持ってるよね?」
「うん」
「黒だよね?」
「そうだけど」
「外車っぽいよね?」
「うん、確かにBMW……、でもどうして知ってるの? 私、話した事あったっけ?」
 不思議そうに問い返した清香に、朋美が些かげんなりした様な顔付きでゆっくりとした動きで前方を指差した。


「現物が目の前にあるから」
「え?」
 そして朋美が差し示した正門方向へ素直に顔を向けた清香は、そこにとんでもない物を発見して固まった。


「ななな何あれっ!?」
 絶句して固まった清香の背後から、容赦無く駄目出しをする朋美。
「……どこからどう見ても聡さんだよね」
「それは分かっているけどっ!!」
 清香が驚愕したのも当然で、正門のど真ん前に停められた黒のBMWの前に、一抱えほどもある大きなピンクのバラとかすみ草で作られた花束を抱えたスーツ姿の聡が、キャンパス内の方を向いて立っていたのだった。
 当然中から続々と出てくる周囲の学生達の好奇心に満ちた視線や、聡の行為を咎める目線が彼の全身に突き刺さっていたが、当の本人は一向に気にする素振りを見せていなかった。


「この場合さぁ~、聡さんがあそこで待ってるの、絶対あんただよね~」
「ま、待っててなんて言った覚えは無いわよっ!!」
「うん、まあ、そうだろうけどね~。聡さん、捨て身もいいとこだよね~。……あんた達、一体土日に何があったのよ」
「なっ、何も無いってばぁぁぁっ!」
 生温かい目で朋美が見やると清香は半泣きになりながら弁解したが、朋美は躊躇う事無く清香を切り捨てた。


「じゃあ、私、西門から帰るから。さよなら清香、また来週」
「ちょっと待ってよ朋美、私も西門から帰るっ!」
 踵を返した朋美の腕を捕まえつつ清香が叫んだが、朋美は冷静に言い聞かせた。


「清香……。聡さん、あんたが出てくるまで、あそこでずっと待ってるわよ。賭けても良いわ」
「そそそそんな事、私知らないから!」
「……あんた意外に血も涙も無い女ね。聡さんをあのまま晒し物にして平気なんだ」
「だ、だって、恥ずかしいわよ、あの中に行くのは! 皆何事かと遠巻きにして見てるじゃない!!」
「車もねぇ……、いつからあそこに停めてるのか知らないけど、早く移動させないと大学の事務局から通報されて、持ってかれるんじゃない?」
「………………っ!」
 わざとらしく溜息を吐きながらの朋美の台詞に、清香が最近の話題を思い出して盛大に固まった。それに追い打ちをかける朋美。


「まあねぇ、今後金輪際無関係って言うなら? 無視して帰ってもどんな仕打ちをしても一向に構わないと思うんだけどねぇ」
 それを聞いた清香は、聡の方を睨みつけながら盛大に呻いた。


「うぅぅ……、どうして私の周りって、こう面倒くさくて非常識な人間ばかりなのよ! 朋美、私、今日はこっちから帰るから。さよならっ!」
「さよなら~、色々頑張ってね~」
 文句を言ってから自分に別れを告げ、勢い良く正門に向かって走り出した清香の背中に、朋美は間延びした声をかけた。そして小さく噴き出す。 
「一応、清人さんに経過報告しておこうかな?」
 そうして携帯を操作しつつ、朋美は西門の方へ向かって歩き始めた。


 一方の聡は全身に突き刺さる視線をものともせず、正門で立ちつくしていたが、道の向こうから猛然と駆けて来る人物を認めて、思わず笑顔になった。そして息を切らせて自分の目の前に立った清香に、何も言わせず花束を押し付ける。


「やあ、清香さん。試験お疲れ様。良かったらこれを貰ってくれる?」
「うえっ、ちょっと」
「それで、試験の出来はどうだった? 勿論清香さんの事だから、心配は要らないと思うんだけど」
「どうだった? じゃあないでしょう! こんな所で一体全体何をやってるんですか!?」
 顔の前に押し付けられた大きな花束を反射的に受け取った清香は、それを横にずらしつつ聡に向かって吠えた。それに対して聡が平然と答える。


「試験期間中は集中したいって気持ちは分かったから、終わったらじっくりと話をさせて貰えないかなと思って、誘いに来ただけなんだけど」
「……一昨日までは連日朝に押しかけてたくせに、何を白々しい事を言ってるんですか」
 思わず清香が白い目を向けると、聡が苦笑いで応じた。
「まあ、それは置いておいて、車に乗ってくれないかな?」
 さり気なく清香の腕を掴んだ聡が促したが、清香は黙り込んだままピクリとも動かなかった。しかしそれはある程度予想された事だった為、聡は穏やかに笑いながら再度清香を促す。


「言っておくけど、乗ってくれるまでここから動かないから」
 それを聞いた清香は、ヒクリと顔を引き攣らせて静かに凄んだ。
「……あのですね、手を離して頂けませんか?」
「申し訳ないけど、それは駄目かな?」
 笑顔の聡と仏頂面の清香の間に静かな緊張感が満ちたが、それに音を上げたのは清香の方だった。


「ああ、もう!! 分かりました! 乗ります! 乗りますから、さっさとここから移動して下さい! 駐車禁止の標識の目の前で停めてるなんて、車を持って行かれますよ!」
「あれ? うっかりしてた。それは気が付かなかったな」
(白々し過ぎる……)
 必死で訴えたのにしれっと言い返されて、清香は呆れ果てた溜息を漏らした。そして周囲から様々な視線を受けながら二人で車に乗り込み、その場を後にしたのだった。


 そして少しの間車内は無言だったが、発進させた車が車道の流れに乗り、スムーズに走り出した所で、幾分申し訳無さそうに聡が口を開いた。
「その……、今日は変に目立つような事をして、悪かったね」
 その台詞に、運転席の方に向き直りながら、清香が盛大に噛み付く。


「当たり前ですよ! 週明けに、私が正門前でアッシーを待たせてたなんて噂が広がってたら、どうしてくれるんですか!?」
「そうだな……、責任を取って毎日送り迎えをする?」
「ふざけないで!」
 そこで聡が我慢できなくなったという様に、笑いを零す。


「ごめん、今週ずっと無視されてたから、清香さんが普通に喋って文句を言ってくれるのが嬉しくて」
「怒られて喜ぶなんて、おかしいです」
「うん、そうだね」
 憮然として文句を言った清香に、聡は笑顔のまま頷いた。そして顔付きを改め、前を見たまま再度口を開く。


「俺と兄さんの関係を黙ったまま清香さんに近付いたのは、本当に悪かったと思ってる」
「当然です」
「当人である母さんと兄さんの意思も立場も、まるで無視した独りよがりな行動だったし」
「……本当に、良識のある大人の行動とは思えません」
「確かに最初はあの兄さんが溺愛してる、血の繋がらない義理の妹がどんな人間か、興味本位で近付いた事は認めるけど」
「認めなかったら投げ飛ばしてます」
 殺伐とした声で淡々と言い返された聡はここで一瞬怯んだが、表面上は動揺を見せずに話し続けた。


「清香さんと知り合ってから、もっと君の事が知りたくなった。いつも明るくて元気で、その笑顔に見惚れて、いつの間にかこの笑顔を見る為には、どうすれば良いかと四六時中考える様になってた」
「何か際限なく、考え無しに笑ってばかりみたいじゃないですか……」
 ぼそっとひねくれた感想を述べた清香に気を悪くした風情も見せず、聡が話を続ける。 
「今はそうじゃないだろう? だから必死に考えてるよ。最初はどうあれ、いつの間にか母さんと兄さんの事は二の次……、と言うか、もう殆どどうでも良くなってた」
「そうは見えませんでしたが?」
 些か皮肉っぽく横目で睨んだ清香に、流石に聡も苦笑する。


「……正直、兄さんに関してはどうしても避けて通れない関門だったから、嫌でも考えなければいけなかったけど。それはあくまで清香さんの兄という立場で、自分の兄って事は殆ど意識していなかったし。……逆に、あの容赦の無い人と、あまり血が繋がってるとは思いたくない」
「………………」
 これまで清香にとっては唯一無二の自慢の兄であった清人だったが、これまでの経過を洗いざらい吐かせられた時に、聡に対する嫌がらせの数々も素直に自白した為、清香の中で一時的に信用が失墜していた。今現在ではかなり回復していたものの、聡のその感想を全面的に否定できなかった清香は、何とも言えない顔で黙り込んだのだった。
 そして沈黙の中、聡が再び口を開く。


「一連の事で、清香さんの中で俺の信用がガタ落ちだって事は分かってる。だけど君に付き合ってくれと言ったのは、便宜上とか口先だけの事とかじゃなくて、俺なりに本気で考えた上で申し出た事だから。……だから俺にもう一度、チャンスを貰えないかな?」
 その聡の話をフロントガラスの向こうを凝視したまま聞いていた清香だったが、ここで聡の方に顔を向けて頼んだ。 


「少しだけ、どこかに停めてくれませんか?」
「分かった。ちょっと待ってて」
 清香の求めに応じ、聡は前方を見渡して車道の幅に余裕がある所を見つけ、路肩に寄せて静かに車を停めた。そして助手席の清香に向き直る。


「清香さん、ここで良いかな」
 そう言った途端、聡の左頬に派手な衝突音と共に鈍い痛みが走った。平手打ちされたと分かった聡に、清香がまだ固い表情のまま告げる。


「……お祖父ちゃんもこれで済ませましたから、これが妥当でしょう」
「ありがとう、清香さん」
「あと一つ……、条件があるんですけど」
「何? 遠慮なく言ってみて?」
 まだ緊張が残る顔で聡が促すと、清香は逆に表情を緩め、如何にも申し訳無さそうに言い出した。


「その……、怒りに任せて、携帯に登録していた聡さんのメルアドと携帯番号と家電番号を、着信拒否にした上でアドレス帳から全部消去しちゃったんです。ですから、また教えて貰いたいんですけど……」
「それは構わないよ。家に帰る前に、どこかでお茶していこうかと思っていたからちょうど良い。だけど……」
「どうかしましたか?」
 怪訝な顔付きで言葉を濁した聡に、清香が幾分不安そうな表情で問い返した。それに聡が淡々と答える。


「登録拒否設定にしたアドレスや番号を、アドレス帳に復帰させた上で、設定を解除すれば良いだけの話じゃないのかな?」
 不思議そうに言われた内容を頭の中で考えた清香は、花束の中に顔を埋める様にしてがっくりと項垂れた。


「私の馬鹿…………。お兄ちゃんに知られたら『だからお前はまだまだ子供なんだ』って馬鹿にされる……」
 本気で落ち込んでいるらしい口調の清香を、聡は笑いを堪えながら宥めた。
「兄さんには言わないから、安心して良いよ」
「本当に?」
 思わず顔を上げ、縋る様な眼で見つめて来た清香に、聡が優しく笑いかけながら請け負う。


「ああ、それにこれからは兄さんの代わりに、俺が色々教えてあげるから」
「ありがとう、聡さん」
「どういたしまして。じゃあそろそろ出すから」
 そうしてブレーキを踏み込みつつ、ギアに手をかけてドライブモードにした時、視界の隅に鮮やかなピンクの物が映り込み、強い香りと共に左頬に僅かな柔らかい感触を感じた聡は、思わずそのままの姿勢で固まった。
 そして一瞬遅れて、左手をギアから離し、頬を軽く押さえながら、呆けた様な表情を助手席に向ける。


「……え?」
 その視線を受けた清香は、逃げ場が無い助手席で難儀そうに片手で大きな花束を抱えつつ、片手で口許を押さえながら真っ赤な顔で喚いた。
「ああああのっ! この間の事は、ちょっと自分でも大人げ無かったと思いますし、結構思ったより強く叩いちゃったみたいですし、ちょっとしたお詫びですっ! こんなの、お嫌かもしれませんけどっ!」
 それを受けて、聡が些か呆然自失状態で呟く。


「いや、嫌じゃないよ。嫌じゃないけど……」
「な、何ですか?」
 不自然に言葉を濁した聡に清香が恐る恐る声をかけた所で、何故か聡は視線を逸らし、両腕をハンドルに持たれかけさせて突っ伏した。そして清香に聞こえない程度の声で、忌々しげに呟く。
「まさかこうなる事まで予測して、門限を十九時設定にしたわけじゃないよな、兄さんは……」
「え?」
 そこで盛大に溜息を一つ吐いてから聡は顔を上げ、自分の反応を窺ってビクビクしている清香にいつも通りの笑顔で笑いかけた。


「何でも無い。じゃあ、ちょっとお茶してから、十九時前には家に送って行くよ。兄さんが清香さんが頑張ったご褒美に、清香さんの好きな物を作って待ってるって言ってたから」
「本当?」
「門限を守ったら、俺にも分けてくれるそうだし」
 途端に目を輝かせた清香に、聡が苦笑気味に付け加える。それを聞いた清香は一瞬目を丸くし、次いで笑って断言した。


「それじゃあ遅刻できないですね」
「ああ、そう言う事。……ちょっと残念だけどね」
 その聡の台詞に清香は僅かに首を傾げたが、聡は笑って前方に視線を戻し、車を再度発進させたのだった。


【心の隙間の埋め方】(完)







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