零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第21話 遅れて来た反抗期

「失礼します」 
 秘書の先導を受けて聡が湊の部屋に入ると、正面の机で仕事をしていたらしい湊が相好を崩して声をかけてきた。


「ああ、すまないな角谷君。仕事中に急に呼びつけたりして」
「いえ、それはお構いなく……」
 如才なく言葉を返そうとした聡だったが、手前の応接セットに腰を下ろしている人物を認めて、瞬時に口ごもる。


「父さ……、社長もいらっしゃいましたか」
「居てはまずいのか?」
「……いえ」
 小笠原物産社長であり、自分にとって厳格な父親でもある勝に面白く無さそうな表情で睨まれ、聡も憮然とした表情で言葉を返した。そんな親子を取り成す様に、勝とは入社以来の友人であり聡とも何度も面識の面識がある湊が、椅子から立ち上がりながら聡に声をかける。


「まあ、そこに座ってくれ。いきなり社長室に呼び付けたら君の立場が無かろうと、私がこいつをここに呼んだのでな」
「……失礼します」
 勝とは微妙に視線を外しつつ、湊に断りを入れて聡は長椅子に腰を下ろした。そして湊がその反対側で友人の隣に腰を落ち着けると、手にしていた書類を、聡に向かって差し出す。


「それで、君を呼びつけた理由だが……、まずこれを見て貰えるか?」
「はい」
 素直に受け取って内容に目を走らせた聡だったが、次第にその顔が強張ってきた。


「これは……」
「まだ社内に公表してはいないが、見ての通り、この一か月程の間に、営業一課が関わっている業務内容のうち、駄目になった物の一覧だ」
「……こんなに、ですか」
 思わず呆然と呟いた聡に向かって、勝が鋭い視線と口調で追い打ちをかける。


「今日は更に大きな仕事が、盗られたようだが?」
「…………っ!」
 僅かに顔を紅潮させながら、盛大に喚きたいのを何とか堪えた聡だったが、ここで湊が口を挟んできた。


「ところで角谷君。調べてみたら、これらにはちょっとした共通点が有ってね」
「どんな共通点でしょうか? 確かに一課が取り扱っているのは資源・エネルギー関係と工業用品関係ですから、取引相手に共通点が有ると言えば有りますが……」
 バサバサと書類を捲りながら、困惑気味に再度目を走らせた聡だったが、湊は手を伸ばしてその端を軽く何度かつつきながら、思わせぶりに話を続けた。


「取引相手の企業、及び横から参入した企業の担当者もしくはその上司に、学部はバラバラだが東成大卒業者が名を連ねている。特に特定の年度の卒業生が多いな。後は……、柏木産業の縁故企業とか、柏木兄弟の姻戚関係に当たる家が、創業者の企業とか……」
「まだ私達が、何を言いたいのか分からんか?」
 父親に冷徹極まりない口調で駄目出しをされ、聡は必死に歯軋りを堪えた。


(やっぱり兄さんの仕業か……。たかが一介のシスコン作家と油断したのが間違いだったな)
 本人に面と向かって言えば、叩きのめされる事間違い無しの事を考えた聡は、ここまでバレているなら仕方が無いと、潔く腹を括った。


「分かりました、お話しします。一月半位前から、佐竹清香さんとお会いしてます。先月末には、佐竹清人本人と顔を合わせました」
 厳しい顔の勝に対し、微塵も臆することなく真っ向から言ってのけた聡の言葉に、湊が思わずといった感じで片手で顔を覆いながら、呻き声を上げた。


「やってくれたな、聡君」
「湊さんは、彼の事をご存知なんですか?」
 不思議に思った聡が湊に目を向けると、湊は苦笑いを零した。


「勝とは、同期入社以来の腐れ縁だからね。因みに、君は《会長ご乱心仏花事件》を知っているか?」
「……何ですか、その得体の知れない名称は?」
 呆れて問い返した聡だったが、今まで耳にしていなかった祖父の清人への働きかけと、清人の実の祖父に対して行った常識外れの所業についての全てを湊から説明され、今度は聡が頭を抱えた。


(そんな事が……。いや、確かにあの爺さんは、自己中心的かつ虚栄心の高い人だったが、幾らなんでもそれはない無いだろう、兄さん)
 愕然として呆然自失状態になった聡だったが、そこで冷え切った父の声が耳に届いた為、瞬時に意識を切り替えて心に防御壁を張り巡らせた。


「聡……。お前に彼の事を話して聞かせた時、私は『彼に関わるな』と言わなかったか?」
「仰いましたね、確かに。ですから彼では無く、彼の妹と会っていただけです。彼とは学園祭で予想外に遭遇しましたので、不可抗力です」
「詭弁だな」
「どうとでも、お取り下さい」
「おいおい、二人とも。人の部屋で親子喧嘩は止めてくれないか?」
 正面から睨み合い、バチバチと火花が散りそうな雰囲気を醸し出す両者を見て、真っ先に湊が音を上げた。しかしここでノックの音と共に、隣室に控えている秘書が顔を出し、新たな来客を告げる。


「失礼します。専務、望月様がいらっしゃいました」
「ああ、通してくれ」
「それでは俺は」
「まだ話は終わっていない」
 鷹揚に頷いた湊を見て、自分は席を外した方が良いのかと腰を浮かしかけた聡だったが、面白く無さそうな口調で勝に引き留められ、憮然とした顔付きになる。それを取り成す様に、湊が補足説明をした。


「君にも聞いて欲しい内容の話をするから、このまま座っていてくれ」
「はあ……」
 何となく釈然としない顔つきながらも、聡が再びソファーに座ると、三十代前半と見られる男が一人、室内に入ってきた。


「失礼します」
「ああ、わざわざ足を運んで貰って悪いね。こちらにかけたまえ」
「はい」
 役員室に呼び出されて緊張しているのか強張った顔つきで挨拶した彼だったが、指し示されたソファーに自分よりも若い聡が座っているのを見て、何となくほっとした様に僅かに顔を緩めた。勿論そんな心境など手に取る様に分かっている湊が、相手の緊張を解す様に笑顔で話しかける。


「望月君、そう緊張しないで。別に叱責しようとしてこんな所に呼びだしたわけでは無いんだ」
「は、はぁ……」
「役員に就任した途端、現場の人間と交流が持てなくなってね。私は時々、将来有望な若手を選んで、現状の問題点や将来のビジョンについて、忌憚のないやり取りをするのを楽しみにしているんだよ。今日は偶々横に鬱陶しいのが居るが、置物だとでも思って率直な議論が出来たら、嬉しいと思っている」
「そうだったんですか? こちらこそ光栄です! 宜しくお願いします!」
 現金にも『将来有望』の一言で舞いあがったらしい望月は、横に無表情で座っている勝の事も忘れた様に、喜色満面で湊に頭を下げた。そしてその瞳に思慮深い色を湛えながらの、湊の追究が始まった。


「それで……、私も経験があるが、営業だと仕事をする上で人脈作りと言うのは、重要だろう?」
「はい、全くもってその通りです!」
「仕事関係でのそれも重要だが、商談での話題の幅を広げる上でも、経営畑だけではなくて、異種業種の人間との交流は欠かせないんじゃないかな。ひょんな事から、ビジネスチャンスに結び付く事もあるし」
「そうですね…。以前囲碁が趣味と聞いていた商談相手と、碁石の材質について話が盛り上がった事があります。大学時代に博識な友人が話していたのを、聞きかじった程度の知識でしたが」
「なるほど。……しかし普通だったら自分の知識としてひけらかすものを、望月君は友人の話から仕入れた知識と、素直に述べる事ができるとは、率直で好ましいな。営業をする上でも、真摯な態度は必須条件だからね」
「あっ、ありがとうございます!」
 穏やかに微笑まれつつ高評価を受けたと感じた望月は、顔を紅潮させ涙ぐまんばかりに喜んだが、湊の眼が決して笑っていない事を見て取った聡は、(流石、営業部時代は『鬼の角谷、仏の湊』と、父さんと並び称されただけの事はある。喰えない人だ)と内心で舌を巻いた。


「ところで……、大学時代の友人と言うと、その博識な友人とやらも東成大の経済学部出身だね? 今は君と同じ様に、営業の第一線で活躍しているのかい?」
(え? ちょっと待て、それってまさか……)
 何かを探る様に、湊が言い出した内容に聡が嫌な予感を覚えたが、それは望月によって最悪の形で肯定された。


「いえ、実は彼は、俺と一緒にここの内定を貰ったんですが、作家になるからと辞退したんです。ご存知ありませんか? 東野薫の名前で、活動していますが」
(やっぱり……)
 思わず項垂れてしまった聡には構わず、湊は人の良い笑顔を望月に向けた。


「ああ、覚えているよ。佐竹君、だったかな? 面接には私も同席したんだ。なかなか優秀な人材が来てくれると喜んでいたのに、縁が無くて残念だよ」
「本当に、彼位頭が良くて見た目も良くて、性格が良い奴なんていませんでした。俺も、彼と机を並べる事が出来なくて残念です。ここの内定を辞退した後、俺に『自分の我が儘で、今後の後輩の就職に差し障っては申し訳ない。勝手な事を言ってすまないが、俺の分まで小笠原で頑張ってくれ』と激励してくれて。あいつこそ本当の、男が惚れる男です!」
 如何にも残念そうに嘆息して見せた湊に、望月も力強く頷く。しかし語られた内容から、望月以外の三人は、望月と清人の関係を正確に把握した。


(性格が良いなんて、絶対騙されている。こいつ友人とか言っていたが、相手はそう思っていないな)
 思わず白けた空気が漂ったのも束の間、望月がふと傍らの聡を振り返り、親しげに語りかけてきた。


「ああ、そう言えば! 君は一課の角谷君だよね? こんな所で顔を合わせるなんて奇遇だな。君、今佐竹の妹さんと付き合っているんだって?」
「え?」
 いきなりの予想外の台詞に、聡が最大に顔を引き攣らせ、勝と湊が鋭く目を光らせた。そんな事とは露知らず、望月が嬉々として聡に話しかける。


「実は卒業以来没交渉だった佐竹が、どうやってか俺の連絡先を調べて、最近電話してきたんだ。世間話の後『実は妹がそちらの営業部の男と付き合っているみたいで、どうも心配だから、どんな人物なのか知っている事があれば教えてくれないか?』と言われたんだよ」
「あの、それで……」
 ソファーの向かい側から突き刺さる様な視線を浴びた聡は、冷や汗を流しながら、一応先を促してみた。


「いやぁ、あいつは学生時代から、妹の事になると目の色を変えていたから。ミス東成大とのデートを『妹が風邪をひいたから、早く帰って消化の良いものを作らないといけない』と言って、すっぽかす位で」
「は、はあ……」
 当時を思い出したのか笑いを堪えながら望月は語ったが、聡は生きた心地がしないまま、何とか頷いた。


「まあ、同じ営業部所属といっても課が違うから、電話があった時点では、君の名前と顔も一致していなかったし。だから保留にしてもらって、君の事を調べて教えてやったんだ」
「因みに……、どんな事を……」
 恐る恐る尋ねた聡の顔色を見て、何やら誤解したらしい望月は、バシバシと聡の肩を叩きながら、気合いを入れる様に明るく言った。


「そんな心配そうな顔をするな! 同じ社員の事を、悪し様に言うわけが無いじゃないか。レアメタル採掘調査プロジェクトとか、原油精製プラントでの新素材フィルター導入とか、遠心分離機の新型接合部品の調達とか、社内でも有望と思われている事業に関わったり任されたりしている、若手でもピカイチの実力保持者で、将来を嘱望されてるイケメンだって、目一杯ヨイショしてやったからな!! 安心してくれ!」
「……ありがとうございます」
(やっぱりこいつか……)
 墓穴を掘りまくりの望月を、哀れに思って項垂れた聡に、流石に顔を引き攣らせた湊。しかしそれでも勝は、無表情のままを無言を保った。


「まあ、そんなわけで、妹が関わってくる事だから、流石にちょっとは風当たりが厳しいかもしれないが、頑張れ! 最後まで諦めるなよ? 角谷君」
「ご声援、ありがとうございます」
 もうほとんど自棄で聡が礼を述べると、湊が輝くばかりの笑顔で望月に話しかけた。


「なるほど。望月君は友人関係でも、幅広い交流がある様だね。感心したよ」
「いえ、それほどでも」
 照れている望月を一瞬気の毒そうに見やってから、湊は彼に別れの言葉を告げた。


「これからもどんどん見聞を広めて、小笠原の為に頑張ってくれたまえ。今日は時間を割いて貰って悪かったね。もう戻って構わないから」
「はい! それでは失礼致します」
 よくよく考えれば、殆ど清人に関わる話しかしていないのだが、望月は湊の笑顔と話術によってその事実を誤魔化され、ほんの少しも疑問に思わずに上機嫌で自分の部署へと戻っていった。そして彼が去った後の室内で、情け容赦無い評価が下される。


「全く……。笑顔の裏の裏を読めんとは、大した人物ではないな」
「仕方あるまい。この場合、相手が悪過ぎる。あの程度の人間を誘導するなど、佐竹君にとっては簡単だろう」
「彼は、現在主任だったな。来年度の人事異動考察では係長へ昇格の打診がされていた筈だが、問答無用で却下だ」
「確かに、漏らしているつもりも悪気も無かったとはいえ、簡単に外部の業務内容を漏らしたのは、問題だからな」
(兄さん、あなたって人は……。同級生の昇進の機会を、見事に潰しましたよ)
 暗澹たる気持ちになっていた聡に、勝が再び向き直って声をかけた。 


「今話が出た、業務の進行状況はどうなっている」
「レアメタル以外は、今の所順調に進行していますが……」
「なるべく早急に対策を取れ。恐らく手遅れだろうが」
「了解しました」
 思わず口ごもった聡に冷たく言い放つ勝。一言も反論できないまま、聡は頷く事しかできなかった。


「それに情報源は彼だけでも無い筈だ。東成大出身者を中心に、洗い直す必要があるな」
「しかし恐らく本人は、意図的に情報を引き出されたとは思っていないだろうから、厄介だな。女を使って誑し込んだりしていたら、誰も彼もが調査対象になるぞ?」
 今後の対応策として、一通り湊と意見を交わした後、勝は腕組みをしながら聡を睨みつけた。 


「さて、角谷君。どう落とし前をつけるつもりだ? 君の自分勝手な行動で、既に小笠原は甚大な被害を被りつつある。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、理由を公表する気にはなれんがな」
「…………」
 社長の顔で迫った父に、聡は無意識に唇を噛みしめた。すると勝が端的に告げる。


「さっさと手を引け」
「仰る意味が分かりません」
 即座に言い返した聡に、勝の片眉が上がった。
「今更だが、今後一切、佐竹清香嬢と接触する事を禁じる」
「いくら社長でも、プライベートに関して指図されるいわれはありません」
「それなら、父親として息子に言っている」
「お断りします」
「ほう?」
 表情を消しつつ淡々と断りを入れた聡に、勝は一層低い声になって凄んだ。


「叩き出されたいか?」
 その脅しに似た台詞を、聡はせせら笑った。
「会社から? それとも、家からですか? 俺は一向に構いませんが、その場合どちらにして、もあの人との関係が取り沙汰される事になりますね。馬鹿息子の俺の後始末を、押し付けられるあなたが気の毒です。先に謝っておきます」
 そう言って軽く頭を下げた聡を見て、勝は舌打ちでもしそうな表情になった。


「口が減らなくなったな」
「あと、もう一つ。彼女の都合が良ければ、来週末にでも家に招待しようかと考えています」
「何だと?」
 勝がここで殺気さえ感じる視線を向けたが、聡はそれを真正面から受け止めた。


「彼女から、母さんの退院祝いを貰いまして。母さんが凄く喜んで、彼女を招きたがっているんです。……ああ、勿論あなたはその日、家にいらっしゃらなくて結構です」
 睨み合う事数秒。何故か先に視線を逸らしたのは勝の方だった。


「……勝手にしろ」
 ソファーから立ち上がりつつ、捨て台詞の様にそう呟くと、勝は湊にだけ会釈して、その場から立ち去って行った。そして重圧感から解放された聡が、深い溜息を吐きだす。
(取り敢えずなし崩し的に、家に招待する事への了解は貰えたか?)
 前向きにそんな事を考えていた聡の耳に、湊の笑い声が聞こえてきた。


「はっ、はははっ! 聡君、言うようになったじゃないか! 良い面構えにもなったし、今頃、反抗期到来か? あのひょろひょろして、おどおどしていた子供の印象しか無かったから、すっかり見違えたぞ」
「湊さん……。いつの話ですか」
 腹を抱えて笑う湊に、小さい頃から顔見知りだった聡は憮然として文句を言った。それに気を悪くする素振りは見せず、ひとしきり笑ってから湊は真顔に戻り、心配そうに尋ねる。


「しかし、由紀子さんが清香さんとやらを招待したがっていると言うのは、本当かい?」
「はい。兄の事を考えると、俺は難しいかと思っているのですが。父もあの通り、嫌がっているみたいですし」
「先方の都合は別として、勝の奴は反対しないぞ? 由紀子さんが希望しているなら」
「どうしてですか?」
 その聡の素朴な問いかけに、湊は当然の事の様に答えた。


「どうしてって……。勝は由紀子さんに惚れ込んでるから、頼まれたら嫌とは言えないだろう」
「はあぁぁぁっ!?」
 予想外の事を言われた聡は本気で驚いたが、湊も予想外の反応をされて、戸惑いの色を見せた。


「え? どうしてそんなに驚くんだ?」
「いや、だって湊さん! 父さんが母さんと結婚したのは、社長の椅子と財産が目当てでしょう!?」
 必死になって言い募った聡に、湊が反射的に眉を顰める。


「……聡君。幾ら何でも、息子の君がそれは無いだろう。誰に吹き込まれて、そんな事を信じているんだ?」
「母から直に聞いたんです!」
「はあ? ……まさかあの馬鹿、未だに当時の誤解を正さないままだとか、言うんじゃあるまいな」
 叫ぶ様に訴えられた聡の台詞に、湊は一瞬ポカンとしてから苦々しい表情をその顔に浮かべ、ボソボソと呟いた。それに逆に聡が疑問を覚える。


「何ですか? 誤解って」
 思わず尋ねた聡を見返し、湊は重い口を開いた。
「実は……、勝の奴、入社何年目かの時に、偶々何かの用で来社した当時高校生の由紀子さんに、一目惚れしたんだ」
「…………はい?」
 聡が(今、何か変な事を聞いた)といった感じの顔で呆けている為、湊は溜息を吐いて念を押した。


「言っておくが、冗談とかじゃないぞ?」
「あの、でも、まさかそんな!? え、ええ!?」
 動揺著しい聡が必死になって次の言葉を選んでいると、それを無視した湊が、淡々と昔語りを始めた。


「だけどなぁ……、相手は社長が溺愛している一人娘だし、あいつはしがない和菓子屋の倅だから、婿として社長のお眼鏡に適う筈も無いって、最初から諦めててな」
「はあ……」
「あいつはそれでも他の女なんか見向きもしないで、密かに偶に見かける由紀子さんをずっと想っていたんだが、出会って十年しないうちに、どこぞの馬の骨と駆け落ちしたって風の噂で聞いて、もう荒れる荒れる。『こんな俺でも、勇気を出して告白していれば良かった』と、一晩中飲んで暴れたあいつに付き合って、色々な後始末をしてやったのは、何を隠そうこの俺だ」
「その節は、父が大変お世話になりました」
「全くだ」
 心の底から湊に申し訳ない気持ちになり、座ったまま聡は深々と頭を下げた。それに真面目くさって頷いてから、湊が話を続ける。


「結局、由紀子さんの最初の結婚は上手くいかず、何年かで実家に戻っただろう? 既に当時会長として実権を奮っていた君の祖父は、早速縁談を企てていた様だが、由紀子さんは悉く拒否していたらしいな。まあ、彼女の心境を考えれば無理も無いが」
「そこら辺の事情については、母から聞いています」
「そうか。外部との縁談が難しくなると、会長は社内での有望株を漁りにかかってな。しかしやはり家柄とか縁戚とか後見とか、会長が納得する奴らから話を持ち掛けていったから、同期の中ではダントツに優秀でも、あいつの優先順位はかなり低くて、最後に近い方だったと聞いてる」
「そうでしょうね」
 当時の父親の心境を思って、思わず溜息を吐いた聡だったが、そこで何故か湊が苦々しげな顔つきになった。


「それで……、同年代の人間にはその時点で既婚者も多かったし、幸運な事にあいつにお鉢が回って来たんだが、いざ自分に話が舞い込んだ時、怖じ気づきやがって……」
「どうかしたんですか?」
「俺に真剣な顔で『由紀子さんに何て言って結婚を申し込んで良いか分からないから教えてくれ』と言いやがった」
「……その話、作ってませんか?」
 もの凄く疑わしげな視線を向けた聡に、湊がうんざりとした口調で言い聞かせる。


「実話だ。あいつは無愛想だが、セールストークだけは抜群なんだ。必要なら、笑顔の大盤振る舞いだってする。だが、進んで女を口説く様な真似はした事が無くてな」
「すみません。俺の記憶違いでなければ、母と結婚した時、父は三十八歳だったような気がするんですが」
「ああ、それで間違いない」
「………………」
 最早匙を投げた様な口振りの湊に、聡は当時の父をフォローすべきかどうか真剣に悩んで黙り込んだ。しかし何故かそこで、湊が居心地悪そうに視線を彷徨わせながら、気まずそうに言い出す。


「その……、だな、聡君」
「はい」
「それで……、どうも、財産目当て云々に関しての誤解は、多少は俺のせいかもしれない、と思うんだが……」
「どういう事ですか?」
 本気で首を捻った聡に、湊は重苦しい口調で続けた。


「あいつの前に振られたのは、皆あいつより顔が良かったり、口説き文句なんか挨拶代わりに出る連中でな。そいつらと同じ様な事を喋ってもインパクトを与えられないし、感銘も受けないだろうと思ったんだ」
「それで?」
「思わず『どうせ財産狙いだって本人からも周囲からも思われるだろうから、通り一遍にあなたに惚れてる云々言うよりも、俺だったらしっかり財産を管理できるとかアピールしたら良いんじゃないか?』と冗談半分でアドバイスしたんだが……。その様子では、奴はそのままストレートに言った挙げ句、結婚してからもそのまま放置した可能性が……」
 言われた内容を頭の中で反芻した聡は、あまりと言えばあまりの内容に、一瞬遅れて非難の叫びを上げた。 


「湊さん! 何なんですか、それはっ!」
「いや確かに、無責任な事を言った俺が、悪かったかもしれん。だが聡君。両親を見ていれば、そこら辺は自然に分かるものじゃないのか? 由紀子さんは煙草の煙が嫌いだから、あいつは家の中や彼女の前では絶対に吸わないし、常に率先して由紀子さんの前でドアの開け閉めはするし、小笠原の財産は全て由紀子さんと君の名義になってる筈だぞ? 他にも挙げればキリが無いが」
 必死に弁解する湊に、動揺しまくりの聡が吠える。


「それはっ! 父が婿入りした事で、見た目に似合わず母に対してひたすら卑屈になってる結果だと! 親戚連中も、そう言っていましたし!」
「そんなわけがあるか。単にあいつが、由紀子さんにベタ惚れしているだけだ。下手すりゃ、箸より重い物を持たせるなんて、言語道断だとか思ってるかもしれん」
「……今更、勘弁して下さい」
 とんでもない驚愕の事実を知らされて、聡は一気に脱力した。


(父さんは母さんに惚れ込んでて、母さんもそれなりに父さんの事信頼してるなんて、俺が以前から思ってた関係とは全然違うじゃないか。真剣に両親の不仲を疑って悩んでいた、あの頃の俺の時間を返せ)
 思わず自分の思春期の頃を振り返って、物悲しくなった聡だったが、そんな聡の心境を知ってか知らずか、湊が朗らかに声をかけた。


「まあ、良い機会じゃないか。この際君が間に立って、そこの所を二人でじっくりと話し合って貰ってはどうだ? 何と言っても子はかすがいと言うしな」
「努力してみます。……ところで他にお話は」
「もう無い。角谷君、戻って構わんよ」
 途端に重役の顔に戻って指示した湊に、聡も一社員として立ちあがって頭を下げた。
「それでは失礼します」
 そうしてドアに向かって歩き出した聡だが、その背中に能天気過ぎる声がかけられた。


「ああ、それから聡君。清香嬢との事も頑張れよ?」
「…………」
 その如何にも楽しんでいるとしか思えない声音に、聡は思わず床に蹲りたくなった。



コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品