零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第20話 吹き荒ぶ寒風

 学食で日替わり定食を食べていた朋美は、何を思ったか唐突に箸の動きを止め、テーブルの向かい側に座っている清香に目を向けた。
「うふふふふっ……」
 彼女のその笑いに、ナポリタンを食べていた清香が思わずフォークの動きを止めて、怪訝そうに見やる。


「何? 朋美。気持ち悪い笑い方をして」
「もう十二月だなって思ったのよ」
「そうね。それが?」
 不思議に思いながらコップに手を伸ばし、清香が一口水を飲んだ所で、朋美が幾分強い口調で尋ねてきた。


「惚けているんじゃないわよ! 十二月と言ったらクリスマスでしょうが! どうするのよ?」
「そうね、そろそろツリーを出さないと」
 若干考え込み、真顔で今後の予定を口にした清香に対し、朋美は僅かに苛々した様に箸を皿に置いて問い掛けた。


「そうじゃなくて! 今年はイブをどうするのよ?」
 その問いに、清香は首を傾げた。
「どうするって……、いつも通り、お兄ちゃん特製のディナーを食べて……。他は特に何も」
「はあ? 聡さんはどうするの」
「だから、どうするも何も……。聡さんからは何も言われて無いし」
 怪訝な顔した清香に、朋美が呆れた果てたといった表情で問い質した。


「どうして!? あんた達、付き合ってるんじゃなかったの? この前あんたの兄貴に対して一歩も引かずに、オークションでガチンコ勝負していたくせに!」
「あれは、聡さんも『ついムキになって大人気なかった』と後から謝っていたもの。元々競り落とそうとしたのも、私があのアレンジが売れ残ったらどうしようって心配していたから、親切心から気を回してくれただけだし」
 そうして何事も無かった様に食事を再開した清香に対し、朋美は如何にも疑わしげな視線を向けた。


「……その状況で、付き合って無いって?」
「うん、別に聡さんに告白とかはされて無いし。それに私、女性としてはよっぽど魅力が無いと思うから、聡さんは他の人達と同様、私の事を妹みたいに思って、可愛がってくれているだけよ」
 事も無げに言い切った清香に、思わず朋美が憮然として尋ねる。


「なんでそんなに、自分に魅力が無いと思うのよ?」
「だって私、これまで告白されても、『やっぱり気が変わった』とかでお断りされたり、『他に好きな人ができた』と謝られたりしてすぐに別れる事になってるし。最短記録は一日だよ? どう思う?」
「さあ……、どうしてかしらね」
 その理由に、心当たりが有り過ぎた朋美は、気まずい思いを抱えて清香から視線を逸らした。


(全く……、あのシスコン男にちょっと脅された位で、悉く尻尾巻いて逃げ出すんじゃ無いわよ! それを考えるとあの聡さんって、未だに粘ってるみたいだから、かなり貴重な存在なのよね……)
 そんな事をしみじみ考えていると、清香が再び食事の手を止めて独り言の様に言い出した。


「やっぱり男の人って、朋美みたいに世慣れてる感じの人が好きなのかな?」
「……どうして比較対象が私なのよ」
「だって心変わりした人の九割位の人が『実は朋美さんの方が好きだった』とか『朋美さんを好きになった』とか言って、別れを切り出してきてるから」
 そう言って、幾分気まずそうに自分を見る清香の視線を受け、朋美は心の中で、過去に清香をふった男達に罵声を浴びせた。


(どいつもこいつも、腰抜け野郎どもがっ! 確かに清香の親友の私を好きになったけど、申し訳無くて近付けないって風にすれば、私と付き合わなくても不自然じゃないけど。勝手に人を別れの理由にするなっ!! そのせいで、私は親友の彼氏を悉く奪っている、性格悪い女だって、陰口を叩かれてるんだからね!)
 これまでに陰で、散々とばっちりを受けまくって憤っていた朋美だったが、流石に清香に対しては弁明しておこうと口を開いた。


「え、え~っと、清香?」
「何? 朋美。さっきから何か変よ?」
「あの……、清香をふった馬鹿な連中が、何を言ったのかは知らないけど……。それは私は、全然預かり知らない事なんだからね!」
 その切実な訴えに、清香は何も含む所の無い、晴れやかな笑顔を見せた。


「大丈夫よ朋美。そんな事はとっくに分かってるし、全然気にしてないわ」
「そ、そう? ありがとう」
「だってその人達、その後実際に朋美と付き合ったりしていないし。いつも私が朋美の側にいるから、きっと声をかけ難いのよ。だから朋美の交際範囲と可能性を狭めているみたいで、却って悪いなと思っている位だし」
(うっ……、清香の性格が良いから、私達未だに友人付き合いが出来てるのよね……。清香って、それほど親しく無い人間に対してはそれなりに警戒心を持っているけど、身近な人間の言う事は素直で疑いもしないタイプだから、本当に気が咎めるわ)
 淡々と自分の思いを語る清香に、朋美は改めて罪悪感にまみれながら、清香に言い聞かせてみた。


「あのね、清香。少なくともあの小笠原さんだけは、あの馬鹿な連中やお兄さんもどき達とは、違うと思うんだけど」
「え? どこが? どういう風に?」
 本気でそう問い返してきた清香に、朋美はどう言ったものかと、少しの間落ち着かなさげに左右に視線を彷徨わせたが、結局項垂れて突き放す様な言葉を返した。


「ごめん……、そこの所は、自分で考えて判断してくれるかな?」
「うん。分かった」
 何となく納得出来なかったものの、取り敢えず清香は頷き、それからは二人で黙々と食べる事に専念した。そして少ししてから、ふと清香がその手を止める。


(クリスマスか。今までお兄ちゃんと過ごす事以外に、考えた事は無かったなぁ……)
 しみじみとそんな事を考えながら、清香は何となく窓の外で揺れている木立を眺めていた。




 外回りから戻った聡が、課長に簡単な報告をしてから机に戻ると、横の机に座っている高橋が自分の仕事に一区切り付けたらしく、軽く伸びをしてから聡の方に椅子を寄せて来た。


「お疲れ。十二月に入ると流石に忙しないな。神谷工業の感触はどうだった?」
「まあまあだな。そっちの調子はどうだ?」
「……最悪だ」
 自分のPCを起動させながら問いかけた言葉に、高橋が項垂れつつ暗い声で返してきた為、聡は思わず目を見張った。


「どうして。確か菱倉グループのあれ、お前が担当だろう? 結構良い線まで進んでるって、この前聞いたばかりなんだが?」
「三日前までな。……あれはボツになった」
「はあぁ!? ボツって、お前一体何をした? 本契約寸前で、納入計画の作成まで済んでいた筈だろう!」
 驚いて思わず声を荒げた聡を、高橋が僅かに腰を浮かせつつ宥める。


「おい、声が大きい!」
「悪い」
 流石に周囲の目を集めてしまった事に気が付いた聡が、慌てて声を潜めると、高橋は途端に憤懣やるかたない風情で愚痴りだした。


「それに人聞きが悪いぞ。俺は何もしていない。急に社内の方針が変わったの一点張りで、協議を打ち切られたんだ」
「何なんだそれは……」
 唖然とする聡に、高橋が尚も続ける。


「先方だって、かなり乗り気だったんだぜ? あの新素材の梱包材の導入には。軽量かつ裂いても屑が出ないのは、引越しや梱包作業の現場でメリットが大きいって。しかも従来の物より低コストで製造・納入できるし。あそこは色々な業種の子会社があるから、幅広く導入していきますって話で」
「それでも断られたのか? 訳が分からないな……」
 思わず怪訝な顔で眺めた聡に、高橋は再度声を潜めて続けた。


「実は、後日談があるんだ。三日前に断りの電話が入った後、納得できない課長が、昨日再考をお願いしに出向いたら、同じ製品が柏木産業の仲介で納入される事に決まっていたそうだ」
「おい、ちょっと待て」
 流石に相手の言いたい事が分かった聡が声を荒げかけると、高橋が真顔で同意を求めた。
「なあ、きな臭過ぎると思わないか?」
「……………………」
 そこで何とも言えずに、黙り込む聡。


(まさか……、単なる偶然だよな? ここで柏木産業の名前が出てきたのは。おそらく菱倉の内部に、柏木の人間と懇意にしてる人間が居たとかで、偶々今回出しぬかれただけで)
 不吉な予感を覚えて、冷や汗を流しながら自問自答していた聡に、高橋が更に不安を煽る内容を口にした。


「……ここだけの話、他にもうちの課が手掛けている話が、立て続けに何件か潰れているらしいんだ。先週辺りから、課長がピリピリしているだろう?」
「確かに神経質になっているとは思っていたが……、そのせいだったのか」
 顎で少し離れた机を示され、聡が強張った顔のまま反射的に頷く。


「この不況下でも、他課の売上高は何とか昨年実績をギリギリ保つレベルで推移してるからな。うちの課だけ業績ガタ落ちだと、課長の評定にも響く事が確実だ」
「どうしてこう、年末に重なるかな……」
 気難しげな上司の顔を見ながら、思わず溜息を吐いた聡に、高橋は自分の気持ちを奮い立たせる様に、深刻そうな表情を一変させて苦笑いしてみせた。


「年末ですっきり厄落としをして、新年からはガンガン行きたいものだな」
「同感だ」
 思わず笑いを誘われて聡が頷き、報告書作成の為のページを開いた所で、高橋が口調を変えて尋ねてきた。


「ところで話は変わるが、年越しの前にクリスマスだろ。お前、どうするんだ?」
「どうするって?」
「この前話した『さやかちゃん』だよ。誘うんだろ?」
 思わず手の動きを止めて高橋を見やった聡に、相手はにやりと笑ってみせた。しかし聡は真顔になって一瞬考えてから、再び画面に向き直り、手を動かしながら淡々と告げる。


「それは……、無理かな? 彼女は多分、クリスマスはお兄さんと過ごすと思うし」
「はあ? なんだそれ? 彼氏より兄貴なのか? しかもお前、誘う前から諦めてどうする」
「そう言われてもな……」
 身を乗り出して来た高橋に苦笑しつつ、聡は頭の中で冷静に考えていた。
(誘っても兄さんが許す筈無いし、下手にちょっかいを出して怒らせたくはないしな)
 そんな事を思いながら、同僚を納得させる様に結論付ける。


「前にも言ったけど、彼女は恋人ってわけじゃないし」
「じゃあ、全然会って無いのか?」
「時々は会っているが。でもここ半月近くは、メールのやり取りと電話だけだ」
「へぇ……。まあ、師走だしな。因みにクリスマスは他の女との約束は」
「無い」
 即答した聡に、高橋が本気で驚いた目を向ける。


「珍しいな」
「……そんな、珍獣でも見る様な目つきは止めてくれ」
 思わず溜息を吐いてから仕事を再開した聡だったが、器械的にキーボード上で指を動かしながら、清香の事を考え始めた。


(でも……、駄目もとで話をしてみようか。申し訳無く思って、他の日を調整してくれるかもしれないし)
 そこまで考えて自然に笑みが浮かび、指の動きも止めて自分の考えに浸った。


(母さんも、当初の予定の半月遅れで退院が決まったから、来週末にでも招待してみればちょうど良いかな? 母さんも彼女に何かあげたい物があるとか言っていたし、後は兄さんが横槍を入れて来ない様に、如何にも尤もらしい理由を付けて……)
 そんな事を考えていた聡の思考を、どうやら隣から様子を窺っていたらしい高橋の声が遮った。


「……おい、何独りでニヤニヤしてるんだよ」
「別に何も?」
 反射的に惚けた聡に、高橋が白い目を向ける。
「いや、絶対そのさやかちゃんの事を考えてた。やらしいな~」
「そんなんじゃないから」
 画面から目を離さず淡々と否定した聡に、高橋が苛立たしげに椅子の向きを変え、迫りながら訴えた。


「あぁ~、ムカつく。仕事もプライベートも順調な奴なんて。お前が今関わってる近海でのレアメタル採掘調査事業は、今のところ必要な機材や物品を調達して、運用するって地味な仕事だけど、埋蔵量が確定して採掘量が実際に飛躍的に伸びたら、流通販売もうちで一手に引き受けようっていう、大化けするかもしれないビッグプロジェクトなんだろう? よっぽど上に期待されてるんだよ、お前。どっちもボロボロの俺に、少し運をよこせ!」
 そこで相手の台詞に疑問を覚えた聡が、手を止めて不思議そうに問いかけた。


「仕事はともかく、プライベートもって。お前彼女は?」
「先月末に別れた……」
「…………今度奢る」
 そこで一気に沈鬱な雰囲気を醸し出した同僚に、聡が慰めの言葉をかけようとした時、少し離れた所で課長である杉野が驚きの声を上げた。


「はあぁぁっ!? 何ですか。そんな馬鹿な話があるわけ……、何ですって!?」
「何事だ?」
「さあ……」
 尋常では無い上司の様子に、二人は勿論、他の部下達も仕事の手を止めて杉野を凝視する。そんな視線にも気が付かない様子で、杉野は受話機片手に立ちあがったまま、必死の形相で電話の向こうの相手に訴えていた。


「いえ、それは……、そんな! こっちは納得できませんよ!  ……ええ? もしもし!?」
 何分か、そんな押し問答をしてから杉野は放心した様に耳から受話器を離し、叩き付ける様に元の場所に戻した。そして少しの間机に両肘をついて頭を抱えていたが、思い出した様に声を張り上げる。


「角谷、ちょっと来い! 川田もだ!」
「はい! じゃあ、ちょっと行って来る」
「ああ」
 あまりありがたくなさそうな指名を受けた聡だったが、嫌がる素振りなど微塵も見せずに立ち上がり、高橋に声をかけて歩き出した。その背中を何事かと、心配そうに高橋が見送る。そして杉野の机の前で、主任である川田と並んで立った聡は、神妙に杉野の言葉を待った。




「課長、どうかしましたか?」
 怪訝な顔つきで川田が口火を切ると、杉野はいつもにも増して沈鬱な表情と声音で話し始めた。


「お前達が中心になって進めていた“あれ”なんだが……」
「はい、三宅研究室と高見重設の意見を集約して今後の計画作成は終わりまして、後は各種登録手続きをするだけです。角谷、行政手続きの進行状況は?」
 如才なく杉野の言わんとする事を察した川田がスラスラと現状報告をし、中心となって動いていた聡に続きを促した。それに小さく頷いて、聡が後を引き取る。


「経済産業省、及び国土交通省への折衝と手続き代行は、滞りなく進めています。プロジェクトに参加する各企業に対しての説明も済んでいますので、来週頭には各社に出向いて本契約を」
「駄目になった」
「は?」
 聡の話の途中でいきなり口を挟んできた杉野にも驚いたが、それ以上に言われた内容が咄嗟に理解できなかった聡と川田が、揃って間抜けな声を上げた。それを聞いて再度杉野が端的に告げる。


「その契約は中止だ。ご苦労だった」
「え?」
 苦々しげに短く告げた杉野に2人とも呆然となったが、驚きの後、すぐに猛烈な怒りが湧き上がってきた。


「どうしてですか、課長! 納得できません!」
「特に大きな問題もこれまで出ていませんでしたし、どうして今更」
「そんな事、俺が知るかっ!! こっちが聞きたい位だ!!」
 机に両手を力一杯叩きつけて絶叫した杉野に、目の前の二人はおろかフロア中の視線が集まる。
「課長……」
 その剣幕に思わず黙り込んでしまった二人に、両手を組んだ杉野が押し殺した声で呻いた。


「理由は分からんが、今回のこれを仕組んだ奴は分かっているんだ」
「誰ですか?」
 僅かに怒気を孕んだ声で問いかけた川田に、杉野が薄笑いを浮かべつつ淡々と告げた。


「効いて驚け? 先方の担当者が漏らした所では、何をどうやったのかは知らんが、柏木産業の企画推進部二課課長様が、裏で糸を引いていたらしい。今回弾かれたうちの代わりに、柏木産業がほぼ同じ条件で契約して、プロジェクトを進めていくそうだ」
「なんですって?」
「……それは本当ですか?」
 川田は怒りで顔を赤くし、聡があまりの事態に顔を青ざめさせると、その前で杉野は発狂したかの様に先程にも勝る怒声を発しながら、手にした書類をビリビリに引き裂き、周囲に盛大に撒き散らした。


「柏木は、小笠原と全面戦争でもする気なのか? 一度ならず二度までも……、ふざけやがって、何様のつもりだ柏木真澄!? 俺に何か恨みでも有るってのか!? あの冷血吸血鬼で、嫁き遅れの年増女がぁぁぁっ!!」
 完全に平常心を失った上司を見て、聡と川田は逆に落ち着きを取り戻した。フロア中からの驚きと非難の視線を背後に受けた二人は、互いの顔を見合わせてから、二人がかりで杉野を宥めにかかる。


「……課長、気持ちは分かりますが、少し落ち着いて下さい」
「今の発言、社内セクハラ防止規則に、抵触するかもしれませんよ?」
「分かっている……」
 そこで何とか落ち着いたかに見えた杉野はフラリと立ち上がり、おぼつかない足取りで廊下へと歩き出した。


「……ちょっと喫煙室に行ってくる。後を頼む」
「分かりました」
 すぐ近くの係長に断りを入れた杉野は、呆然とした表情で廊下に消え、一課には重苦しい沈黙が漂った。その中を聡は自分の机に向かって歩き始めたが、突如それを遮る様に杉野の机上の電話が鳴り響く。
 一瞬、反応が遅れたが、係長の海藤が慌てて受話器を取って応対した。


「お待たせして申しありません。杉野課長は只今席を外しておりまして……、はい?」
 話を進めるうちに何故か上擦った声を上げた海藤は、受話器を持ったまま背後を振り返った。そして何となくその方向に目をやっていた聡と、しっかり目が合ってしまう。


「はい、……はい、分かりました。今すぐ向かわせます。……それでは失礼します」
 海藤と目が合った瞬間激しく嫌な予感に襲われていた聡だったが、それは受話器を置く音と共に確信に変わった。


「角谷君、悪いが今すぐ湊専務の部屋に出向いてくれ。専務が君をご指名でお呼びだそうだ」
「……はい。今から行ってきます」
「係長、どういった用件で、角谷が呼ばれたんでしょうか?」
 色々諦めながら頷いた聡だったが、ここで横から心配そうな顔で川田が口を挟んできた。しかし海藤は小さく首を振っただけで言葉を濁す。


「詳しい内容は説明されなかった。ただ……、湊専務は営業部担当の役員だし……。下手すれば今回の件で、叱責される可能性も……」
 その場に益々気まずい沈黙が漂ってから、立ち上がったまま考え込んでいる聡に向かって、川田が気遣わしげな声をかけた。


「この件は一応俺も関わっているし、一緒に行くか?」
「いえ、どうして自分が呼ばれたかも分かりませんし、取り敢えず俺だけで行ってみますので」
「そうか……。それもそうだな」
 あからさまにホッとした様子で頷いた川田に文句を言う気にもなれず、聡は海藤に対して軽く頭を下げた。


「宜しくお願いします。それでは暫く席を外します」
「ああ、課長が戻ったら俺が伝えておく」
 すっかり顔色を変えている一課の人間の気遣わしげわな視線と、他の課の人間の好奇心に満ち溢れた視線を一身に浴びているのを感じながら、聡は一歩一歩床を踏みしめる様にして歩き出した。
 自分でも険しい顔をしているのを自覚しながら、ふつふつと湧き上がってくる怒りを、何とか押さえ込もうと努力してみる。


(あの切れる柏木さんが、進んでこんな強引な手法を取るとは思えない……。どう考えても、他の人間の意図が関わっている筈)
 一人きりのエレベーターの中で、腕組みした聡は壁にもたれながら考えを巡らせ、小さな声で吐き捨てた。


「幾ら俺の事が気に入らないからといって、ここまでやりますか? とことん迷惑な人ですね、兄さん」
 そしてエレベーターを降りて廊下を進んだ聡は、目指すドアの前で足を止めて深呼吸してから、重厚感溢れるドアに手を伸ばしてノックをした。



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