零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第19話 男のプライド

 待ち合わせした日曜日。都心から一時間ほど、愛車のBMWを軽快に走らせてきた聡に、助手席の清香が笑顔を向けた。
「聡さん、もうすぐ着きますけど、道場の近くには駐車場が無いので、駅前の駐車場に入れて少し歩きますね?」
「分かった。もう少し近くなったら、誘導してくれるかな」
「はい」
 そこで来る道すがら、清香から聞いた話を思い返しながら、聡が運転しながらしみじみと呟いた。


「だけど……、清香さんのご両親が結婚する時は、大変だったんだね」
「ええ、お母さんは私が大きくなってからも、散々文句を言って悪態を吐いてましたね。向こうからの連絡も、皆無でしたし」
「そうなんだ……」
(しかし従兄弟達は、あの通り、平気で接触してるよな?)
 今まで疑問に思いながら、つい詳細を聞きそびれていた事を、時間潰しに聞いてみた聡だったが、尋ねた途端、清香が激しい口調で両親の結婚に至るいきさつを語り出し、その一分後には激しく後悔していた。しかし清香が一通りの事情を語り尽くした後も、聡は疑問を完全に払拭できなかった為、さり気なく尋ねてみる。


「因みに、お母さんの旧姓は何て言うの?」
「旧姓、ですか? そう言えば、何だったかしら? でも、未来永劫関わり合う筈の無い人達ですから、知らなくても全然支障ありませんから!」
「は、はは……、それはそうか」
 聡の問いに、清香は一瞬キョトンとしたものの、すぐに苦々しげに吐き捨てた為、聡は僅かに顔を引き攣らせながら同意した。


(やっぱり皆の素性は、隠したままなんだ。俺がそれをバラしたら、立場がより一層まずくなる事が、確実なんだろうな)
 そんな事を再認識して冷や汗を流しつつ、聡は清香の指示で駅前通りを走り、一本横の細い道に入って首尾良くコインパーキングに車を停めた。


「じゃあ行こうか」
「はい、こっちです」
 車を降りた聡が清香の案内で歩き始めると、並んで歩く清香が深呼吸でもするように、軽く両手を広げながら呟いた。
「う~ん、やっぱり落ち着くな~」
 その自然な笑顔に、聡もこれまで聞いた話を振り返りながら、笑顔で尋ねる。


「この辺に、ご両親が亡くなるまで住んでいたんだよね?」
「はい、もう少し歩いて坂を上った所に、住んでいた団地があります。あ、あそこの商店街で、良く買い物をしていて」
 再び広い道路に出た二人の向かい側に見える、アーケードの入り口を指差しながら清香が説明した為、思わず聡は笑顔で確認を入れた。


「ああ、いつか聞いた、清香さんがマスクメロンへの愛を、熱く叫んだ商店街?」
「聡さん! 笑わないで下さい!」
 途端に顔を赤くして喰ってかかった清香に、聡はますます笑いを誘われた。
「ごめん、でも見てみたかったな、当時の清香さん。きっと可愛かっただろうし」
「もう! 聡さんって結構意地悪です」
 プイと顔を背けてしまった清香を、聡が何とか宥めながら歩いていると、ふと彼女が思い出した様に言い出した。


「マスクメロンと言えば……。あの後、おじさん達と初めて顔を合わせたんだっけ。思い出したわ」
「え? おじさん達って、誰の事?」
 不思議に思って尋ねると、清香は懐かしそうに当時の事を語った。


「実は商店街で『マスクメロンが欲しい』とゴネた直後、お母さんと幼稚園から帰宅したら、お客さんが三人いて。お母さんが『清香、ご挨拶しなさい。“お父さんと昔からの知り合いの”柏木さんと倉田さんと松原さんよ』と教えてくれたんです。そして何故かおじさん達全員、マスクメロンをお土産に持って来ていまして」
「……へぇ、豪勢だね」
 何とも言えない表情で取り敢えず感想を述べた聡に、清香は大きく頷いた。


「そうですよね。それに三人ともだなんて凄い偶然。それで私、夢にまで出てきたマスクメロンが三個も目の前にあって、もう嬉しくて嬉しくて!」
「それはそうだろうね」
「皆『さあ、私の持ってきたメロンも食べなさい』と次々勧めるからウキウキで食べて、食べ過ぎてお腹が痛くなったというオチなんですけど。それ以降“マスクメロンのおじさん”って、三人に凄く懐いちゃいました」
 喜色満面で当時の事を語る清香から、聡は何となく視線を逸らしてから、再度慎重に問い掛けてみた。


「清香さん……、柏木さん達が来ている間、お母さんはどんな顔をしていたか覚えている?」
「どういう意味ですか?」
「その……、迷惑そうとか、睨んでいたとか……」
 それを聞いた清香は不思議そうな顔をしながらも、真面目に答えた。


「最初から最後まで、もの凄くにこにこしていましたよ? 帰ってからも文句とか言いませんでしたし、その後尋ねて来た時も、いつも笑顔で応対してました」
「そうなんだ……」
(なんとなく分かった……。恐らく柏木サイドが香澄さんと和解したくて、周囲を興信所とかで探らせてた時、マスクメロンの話を仕入れたんだ)
 そこまで考えた聡は、かつての地元であるこの周辺の事について、嬉々として話している清香を、チラリと横目で見やった。


(それで喜び勇んで押し掛けて、清香さんに好印象を持たれるのには成功したものの、恐らく終始怖すぎる笑顔の香澄さんから『余計な事を清香に一言でも漏らしたら、承知しないわよ!?』とかの無言の圧力を受けて、実の伯父だと名乗れなかったんだな)
 そこで柏木兄妹双方の心境を思い、聡は思わず溜め息を吐いた。


(だが、そのまま十数年経過ってどうなんだ? しかも香澄さんはもう亡くなっているのに。香澄さんの執念深さもそうだが、妹の前にまず子供の懐柔をと、いそいそとマスクメロン持参で、ご機嫌取りに出向くのもどうかと。柏木三兄弟と言えば、柏木総一郎氏の長男である雄一郎氏は勿論、婿入りした次男、三男も、業界内ではいずれ劣らぬ切れ者揃いと評判なのに、そんなイメージが音を立てて崩れていくぞ)
「……さん、聡さん!」
「え? 何?」
 強い口調での呼び掛けに思考を遮られ、慌てて聡が清香に注意を向けると、彼女は幾分心配そうに聡を見上げてきた。


「話しかけても上の空なので……。ひょっとして、運転で疲れましたか? それとも、お仕事の疲れが残っているとか……」
 その問い掛けに、聡は慌てて首を振った。


「ああ、ごめんね。ちょっと考え事をしていて。何かな?」
「そろそろ道場が見えてきました。あれです」
「あれかい? へえ……、思っていたよりも本格的だね」
 清香が指し示す先には、昔ながらの町並みに突然出現した、かなり立派な門柱の向こうに、広い戸口を開けている白い壁と瓦葺きの道場が見えた。聡を促してその門を通り抜け、清香が開けっ放しの玄関に入り靴を脱いで下足箱に入れると、躊躇う事無く奥の引き戸を開けて元気良く声を放つ。


「師匠、こんにちは----っ!」
 中からは勇ましい掛け声や衝撃音が響いていたが、清香がそう叫んだ途端、その喧騒がピタリと静まり、少し離れた場所からカラカラと笑う声が聞こえてきた。


「おう来たな、嬢。珍しく彼氏連れとは、骨のある男も居たものだ。ほら、遠慮せんで入れ」
「かっ、彼氏って! そんなんじゃ!」
「本日は、お邪魔させて頂きます」
「あのっ! 聡さん!?」
 清香が一人で狼狽えている間に、聡は声をかけてきた小柄で白髪の老人がここの責任者だろうと見当を付け、スタスタと歩み寄って頭を下げた。
 そして男二人で何やら小声で言葉を交わしている間に、柔道着姿の小学生から中学生位までの少年達が、清香の周りにわらわらと集まって来る。


「さや姉、久し振り--!」
「あ~、師匠が言ってた通り、男連れ~」
「清人さん公認? んなわけ無いよな~」
「ねえ、本当に彼氏?」
「でも絶対、清香さんの方が強いよね?」
「あ、あのねぇぇっ!」
 好き勝手に言われて、さすがに清香が切れかけた時、何やら話が纏まったらしい聡と清香の柔道の師匠である槙村が、笑顔で声をかけてきた。


「それじゃあ、嬢! 儂はこのボンを連れて更衣室に行っとるぞ。貸す奴は、いつもの所に置いてあるから勝手に使え!」
「あ、はい。分かりました」
「牧村さん。そのボンと言うのは……」
 控え目に主張してきた聡に、槙村が真面目くさって言い返す。


「嫌かの? なら小僧、若造、若いの、ハナタレ」
「お好きな様に呼んで下さい」
「うむ、人生諦めが肝心だからの」
 そう言って槙村が高笑いしながら聡を引き連れて道場を出て行くのを見送った清香は、自分も周囲を振り切って更衣室に飛び込んだ。


「それじゃあ、これを使って貰おうかの。使い終わったらこちらで洗濯するから、そのまま置いて行って構わん」
「ありがとうございます。お借りします」
 更衣室に入ってすぐ、準備されていた柔道着を槙村に手渡され、聡は素直に礼を述べた。そして視線で示された棚に脱いだ服を畳んでしまっていく。何故か柔道着を渡した後もその場に居残っていた槙村は、インナー姿になった聡をしげしげと眺めてから、徐に口を開いた。


「少々、尋ねても良いかの?」
「はい、何でしょうか?」
「お前さん、見た目に似合わず、結構引き締まった身体じゃの。何か運動はしとったか?」
「中学から大学までテニスを」
 淡々と答えながら下履きを穿いていく聡に、槙村は納得した口調で続けた。


「それなりに、瞬発力と動体視力はありそうじゃな。ちなみに柔道の経験は?」
「中高一貫の男子校だったので、体育の授業でそれなりに」
 何故か苦い物を含む様な言い方に、槙村は面白そうに口許を歪めながら話を続けた。


「なかなか、偏った指導をされてそうじゃの。受け身の取り方と寝技からの抜け方は、散々やらされて結構上手くなったとみた」
「どうして断定口調なのか、お聞きしても良いですか?」
 嫌な予感を覚えた聡が上衣の袖に腕を通しながら尋ねると、槇村は事も無げに言い切った。


「お前さんみたいに、金持ち顔良し頭良しだと、体育会系の嫉妬を一身に受けて、散々しごかれそうじゃからの。違っとるか?」
「……ご想像にお任せします」
 思わず顔を引き攣らせた聡が答えると、相手はわざとらしく目を見開き、感心した様に言ってのけた。


「清人の奴と違って素直じゃの。『金持ち顔良し頭良し』の所を否定せんとは」
「………………」
 もう何も言う気がしなくなった聡は、黙って白い帯を締めた。そして連れ立って道場に戻ると、殆ど同時に清香も戻って来たのを見て、槇村が指示を出した。


「じゃあ儂は子供達に稽古をつけてくるから、お前達は体を解しておけ」
「分かりました」
 頷いて道場の隅の方に移動した二人は、二人一組でストレッチを始めた。


「じゃあ始めましょうか」
「ええ。……清香さん、先生もここに通っていたんですね。どれ位ですか?」
 柔軟体操をしながら聡が尋ねると、清香は体を折り曲げて考え込みながら答えた。


「えっと……、期間の長さなら十歳の頃からです。強さなら二段ですね」
「黒帯ですか……」
 淡々と口にされた言葉に、聡は思わず溜め息を吐いた。両手を組んで互いに引っ張り合い、筋を伸ばしながら、清香が当然の如く話を続けた。


「最近は何ヶ月かに一度、ここに顔を出す位ですけど、学生の頃は週に何回も通っていました。講道館にも月に何回か、形の指導を受けに通っていましたね」
「相当強いみたいだね」
 聡がそう口にした瞬間、清香は繋いでいた手をパッと解き、満面の笑みで聡に訴えた。


「ええ、もう、とても格好良いんですよ!? バッタバッタと相手を投げ飛ばしているお兄ちゃんは! 近所のお姉さんやおばさん達が、私設ファンクラブを作っていましたし!」
「そうだろうね……。因みに清香さんは?」
 多少やさぐれた心境に陥った聡が、話を逸らそうとしたが、更に落ち込む結果となった。


「私、ですか? 中学に入ってすぐに引っ越して、近くにめぼしい道場も教室も無かったんです。それでも以前は週一でここに通って来てましたが、流石に最近は真面目に通って無いので、二級止まりです」
「それでも立派だと思うけど」
 真顔で告げられた後は、少しの間黙々と準備運動をしていたが、一区切り付けて深呼吸した所で、タイミング良く槙村から声がかけられた。


「準備は良いかの? 嬢、久し振りに小僧達と乱取りせんか? そっちの男は、儂が基本を教えといてやる」
 そう言われた清香はちょっと驚いた表情になってから、次いで幾分心配そうに聡を見上げた。


「構いませんか?」
「ああ、俺だと相手にならないと思うからね。遠慮しないで」
「じゃあ行ってきます」
 そしてその場に槙村と二人で残された聡だが、別に怖気づく事は無く、平然と相手を見下ろした。その視線を受けた槙村が、如何にも楽しそうに笑う。


「度胸は有るようじゃな」
「先程も言いましたが、投げられるのには慣れています。投げられていた頃は、それに感謝する日が来るなんて、予想だにしていませんでしたが」
 苦笑いをその顔に浮かべた聡を見て、槙村は小さく噴き出した。


「ふっ……、それこそ『人生万事塞翁が馬』と言うやつじゃな。それじゃあ、組んでみるか」
「お願いします」
 そうして頭を下げた聡に手を伸ばし、まずは最初に槙村は基本的な立ち位置の確認や、重心のかけ方などをしてみせたが、一通りやってみて聡が基本はできているのを確認してからは、実戦に沿った動きをし始めた。


「ど素人で無くて安堵したわ。流石に素人を投げ飛ばしたら、危ない上に良心が痛むからの」
「それは良かったです」
 そんな会話を交わしていると、少し離れた所から甲高い声が響き渡った。


「さあ、どっからでもかかってきなさいっ!」
「いっくぜ――! ぶん投げてやるからな!」
「十年早い!」
「いでででっ!」
「さや姉! あんまり暴れてると、そこの彼氏に振られるって!」
「余計なお世話っ!」
「ぐはぁっ!」
「次、俺ね。嫁の貰い手が無かったら、俺が貰ってやっ」
「んな事言ってないで、しっかり踏み込め――っ!」
「ぐえぇっ!!」
 年下とはいえ体格的には負けていない少年達を、次々に投げ飛ばし、押し倒し、絞めまくっている清香を見て、思わず槙村は動きを止めて楽し気に笑った。


「相変わらず元気じゃの」
「はあ……、何よりですね」
 それ以上何とも言えず、苦笑いした聡だが、次の瞬間、槙村がその懐に踏み込みながら、勢い良くその襟を掴み上げた。


「嬢はな、『お兄ちゃんみたいに強くなりたい』と言って、柔道を始めたんじゃ。ほれ、しっかりかわせ! 襟を取られるな!」
「すみません」
 足払いをかけて来る槙村から動いて距離を保ちつつ、再度聡が、注意深く相手の動きを追う。


「だが清人の奴は、『強くならないといけないから鍛えてくれ』と言ってきおった。ほれ」
「え? ぐっ……」
 何気ない世間話をしながら、槙村が聡の一瞬の隙を突いて片手を取り、予想外の方向に重心を崩されて聡は引き倒され、呆気なく畳の上に転がった。そんな仰向けの聡を見下ろしながら、槙村がしみじみと続ける。


「『強くなりたい』と『強くならないといけない』では、響きは似とるが、天と地ほどの違いがあるからの。まあ、柔道には身体的鍛錬と精神的修行の両面があるから、取り敢えず面倒をみてみたが」
「はぁ……」
 なんとなく気まずい思いをしながら立ちあがった聡だが、槇村は先程より動きが鈍った彼の足を蹴り上げる様にして、横方向から投げ飛ばした。


「ほら、甘い!」
「うっ……。本当に容赦ないですねっ!」
「馬鹿にするな。初心者相手に本気でできるか。なら本気でやってやるぞ?」
「うわっ……、ちょっ、待っ」
 起き上がろうとした所をあっさり転がされ、圧し掛かられつつ動きを封じられた聡が呻く。


「あいつは確かに腕っぷしは強くなったが、他の所はな。師匠の儂に『気に入らん奴が行くから、ボロボロにしてやってくれ』と電話してくるなんぞ全くなっとらんし、相変わらず嬢に関しては馬鹿丸出しで困ったもんだ。そうは思わんか?」
「押さえ込みながら、同意を求めないで下さいっ!!」
 何とか腕を抜こうとしながら、足を使って体を捻っていた聡が、畳を叩きながら切羽詰まった声で訴えた。それに軽く笑いながら、槇村が手を放して立ち上がる。


「すまんすまん。つい力が入ってな」
 飄々と告げた槇村の前で、聡も憮然としながら柔道着の乱れを直しつつ立ち上がったが、そこで威勢の良い掛け声が道場内に轟いた。


「とぉりやぁぁぁっ!!」
「うっわ――、さや姉、容赦なさすぎ!!」
 周囲が悲鳴を上げる中、槇村が見事な一本背負いをかけた清香を見ながら、しみじみと語った。


「嬢が真っ直ぐに育ったのはな、あやつが自分の根性がねじ曲がってる事を自覚しとったから、その分気合いを入れて、全力で守って真っ直ぐ育ててきたせいじゃ。まあ、それが悪いとは言わんが。……ところで、お前さんの名前をまだ聞いとらんかったが、何と言うんじゃ?」
「小笠原聡です」
 いきなり問われた聡は、何も考えずに本名を口にした。すると槙村が微妙に目を光らせ、探る様な視線を向ける。


「ほう? 何やら以前、聞いた事が有るような無いような名前が出てきたの」
「そうですか? そんなに珍しい名前でも無いので、何かの折りに耳にされたんでしょう」
「そうかもしれんな」
 その場に白々しい空気が流れる中、聡は確信した。


(この人は……、絶対に兄さんから、聞いている筈。兄さんの性格がねじ曲がってると言うなら、この人から精神的影響を受けたのも、一因なんじゃ)
「それは邪推と言うものだぞ? 若いの」
「俺は何も言ってませんよ! 一体何なんですか!?」
 突然、前振り無く真顔で言い聞かせてきた槇村に、思わず畳にへたり込みそうになった聡だった。


 そして小休憩を挟みつつ小一時間程経過した所で、槙村が徐に言い出した。
「嬢。そろそろ小童どもに稽古をつけないといかんから、お前がこれと組んでくれんか? そんなに筋は悪く無いから、投げの練習相手位にはなるじゃろう」
「はあ?」
 思わず当惑の声を上げた聡を、槙村はじろりと睨みつけた。


「なんじゃ、不服か?」
「……いえ」
「じゃあ嬢、暫く揉んでやれ」
 軽く言われて、流石に清香も不安な表情を見せる。


「はあ……、でも大丈夫ですか? 聡さん」
「ええ、何とか。無理にお付き合いさせて貰いましたし、練習台位にはなりますよ?」
「そうですか? それなら宜しくお願いします」
 そうして一礼して組み合った2人だが、聡の予想以上に清香の動きが早く、一分持たずに足を払われて畳に転がった。


(早い……、やっぱり手加減してくれていたって言うのは、本当だったか)
 苦笑いしながら槙村の表情を窺うと、笑いを堪えて自分達の方を見ているのが分かった。それで逆に、聡の中に冷静さが戻って来る。


「もう一度、お願いします」
「はい」
 清香の手足の動きに神経を集中させながら、聡は慎重に攻め方を考えた。


(とにかくまず動きに慣れないと。そして投げ技だと敵わないから、なんとか寝技に持ち込まないとな)
 そんな事を考えながらも、聡は次々と技を決められてしまい、忽ち五回を数えた。
(冗談じゃない。投げられっぱなしで終わってたまるか!!)
 そんな決意も新たに、片手を付いて立ち上がりながら、清香に申し出る。


「すみません、清香さん。もう一回お願いします」
「えっと、本当に大丈夫ですか? 聡さんは初心者ですし、そろそろ休憩した方が……」
「何となくコツが掴めて来たので、続けてもう少しやっておきたいんです」
「……分かりました。それではお願いします」
「はい」
 瞬時に真剣な顔つきになり構える清香に、聡も再度気を引き締めた。そして時を置かず清香が足を踏み出し、道衣を掴もうと手を伸ばして来る。対する聡も素早く体を捻りつつ手を払いのけ、すかさず逆に清香の懐に踏み込んだ。


(とにかく、より素早く踏み込んで、良い形を取る)
 自分にそう言い聞かせながら、両手で柔道着の襟近くを掴んだ瞬間、聡は力一杯清香を手前に引っ張った。それと同時に清香が僅かに体勢を崩した隙を突いて、彼女の足の間に右足を勢い良く踏み込み、その反動をつけて清香の左内腿を自分の右脚で跳ねあげようと試みる。しかし流石に年季の入り方が違う清香は、片足になった状態で踏み止まり、逆に左脚を畳に着けた瞬間、体を捻って再度手を伸ばして来た聡の右足の踵の上方を、勢い良くつま先の方向に払った。


 堪え切れず背中から倒れた聡だが何とか受け身は取り、体を捻って逃れようとしたが、清香が素早く覆いかぶさる体勢になる。体重差が有る為このまま崩れて逃れるかと思いきや、清香は隙の無い動きで聡の右腕を自分の左腕で深く挟みこみ、右腕を聡の首の下から差し込んで首を抱え込みつつ柔道着の前襟を掴んで袈裟固めの体勢に入った。しかし聡も体格差と長い手足を生かして、体を捻って何とか逃れようと抵抗する。
 その一部始終を、ひやかし気分で見ていたギャラリーは、呆れ半分感嘆半分の呟きを漏らした。


「すっげ~、あの兄ちゃん」
「さっきまでバッタバッタ、投げられまくってたのに」
「初心者の癖に、何とか形になってんじゃね?」
「さや姉の腕が、鈍ってるって事じゃないよね?」
「素人の根性を舐めちゃいけないって事かな」
「だよな。惚れた女に投げられっぱなしってのは、プライドズタズタだろうし」
 少年達が好き勝手な感想を口にしているのを耳にしながら、槙村は一人ほくそ笑んでいた。


「なかなか頑張るのぉ、若いの。まあ、あの清人と真っ向から張り合おうとする男だから、これ位は当然じゃろうな」
 そう言ってから、槙村はチラリと明かり取り用の窓を眺める。


「さて……、それではついでに余計な小ネズミにも、稽古をつけてやろうかの?」
 そして畳の上で組み合っている清香と聡に背を向けた槙村は、含み笑いをしながら道場の外へと足を運んだ。




 その日の夜。清香と夕飯を食べてから自室に引き籠った清人は、早速ある人物に電話を入れたのだが、相手の話を聞き始めてすぐに激しい怒りに駆られた。


「いや~、まいりましたよ。こっそり覗いていたつもりが、爺さんに見つかって、いきなり道場の中に引きずり込まれまして……」
「随分なヘマをやらかしましたね。それでもプロですか?」 
 自分の声が万年雪より冷たいのを自覚しながら、清人は電話の相手に対する憤りを堪え切れなかった。そして清香が帰宅時に何も言っていなかった為、可能性は無いと思いつつも一応気になった事を尋ねてみる。


「それで? 俺が清香に尾行を付けていたのがバレたんですか?」
「いえ、それが……。流石に相手の男は勘付いて嫌な顔をしてましたが、爺さんが『この若いのも体験希望だそうだ。今日は多いの、皆で揉んでやれ』と誤魔化してくれまして。妹さんにバラさせる代わりに、ガキどもに寄ってたかって、散々投げ飛ばされました。今回は酷い目に合いましたよ」
(師匠、完璧に面白がってますね? 相変わらずお達者の様で何よりです)
 思わず清人は溜息を吐いてしまい、相手は多少情けない声で報告を続けた。


「妹さんが帰るのと殆ど同時に、開放して貰いまして、あの男がちゃんと寄り道せずにお宅まで妹さんを送り届けるのは確認しましたから、勘弁して下さい」
「分かりました。今後はそんな失態が無い様にお願いします」
「はい、勿論です。ああ、今日の報告分をメールに添付して送信しましたので、確認お願いします。それでは」
 そこで忌々しい会話を終わらせた清人は、机に向かってPCのメールボックスを開いてみた。すると新着メールの中に告げられた内容の物を認め、何も考えずにそれを開いてみる。
 そこには今日一日の清香の行動内容の報告と、その時々の様子を示す写真が添付されていたが、ある所で画面のスクロールが止まり、清人の顔が憤怒の表情に染まった。


「あの野郎……、やはり徹底的に叩きのめしてやる」
 清人にそんな決意を新たにさせたのは、清香と聡が互いに寝技をかけようと、畳の上で絡み合っている何枚かの写真だった。
 小笠原物産営業部、第一課の不幸過ぎる冬は、もうそこまで来ていた。
  

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