零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第18話 計り知れない女性(ひと)

「それで……、大学祭は、こんな感じで終わったんだけど」
 聡が仕事帰りに由紀子の病室に寄り、請われるまま先日の出来事の一部始終を語り終えると、それまで黙って相槌を打ちながら聞いていた由紀子が、我慢できなくなった様に口元を手で押さえ、クスクスと笑い出した。


「ふふふっ……、清香さんの従兄さん達に散々邪魔された挙げ句、彼女の前で頑張って清人と競り合ったのに、残念だったわね? 聡」
「仕方ないさ。全く……、兄さんがあんなに大人気ない人だとは思わなかった」
 憮然とした聡の表情が面白かったのか、由紀子は益々笑みを深くした。


「それにしても……。二人で散々張り合った挙げ句、一番最後においしい所を、真澄さんに持って行かれるなんて、笑えるわね」
「何故だかは分からないけど、兄さんはあの人には頭が上がらないみたいだから」
 溜め息を吐きながら、聡がその時の情景を思い返していると、何か思い付いた様に由紀子が真顔で尋ねてきた。


「ねえ、聡」
「何?」
「話を聞いていて思ったんだけど……。ひょっとしてその真澄さんって方、清人の恋人なのかしら?」
「有り得ないから!」
「なぁに? その即答は」
 口にした途端即座に力一杯否定され、由紀子は目を丸くした。そして聡は、何となく気まずい思いをしながら、微妙に視線をさまよわせる。


「あ、いや、何となく。あの女性が兄さんの恋人って、あまり考えたくないと言うか、考えられないと言うか……。でも、本当にそんな空気は皆無だったから。強いて言えば……、“天敵”?」
「そうなの? それなら川島さんって言う方は?」
 そう言われて、聡は眉を寄せて黙り込んだ。そして当日の清人の様子を思い返し、慎重に言葉を選ぶ。


「川島さんは……、柏木さんとはまた違った意味で、何となく違う気がする」
「そうなの。でも本当に、楽しい顔合わせだったみたいね。見られるものなら、是非この目で直に見たかったわ」
 しみじみと、如何にも残念そうに溜め息を吐かれ、聡はげっそりと肩を落とした。


「母さん、他人事だと思って……」
「だって、おかしいんですもの」
 そう言って先ほど聞いた話を思い出した様に、再び小さく笑い出した由紀子を見て、聡は少々うんざりしながらも自分自身を宥めた。
(まあ、良いか。こんなに楽しそうに笑う母さんを見るのは久しぶりだしな)
 そんな事を考えて苦笑いしていると、由紀子が予想外の事を口にした。


「何だか、清香さんに会ってみたくなってきたわ。私の退院祝いを作ってくれると言うし、一度家に招待できないかしら?」
 由紀子に首を傾げて尋ねられた聡は、盛大に顔を引き攣らせた。
「それはさすがに、兄さんが黙っていないかと……」
(一緒に展示を見る約束をしただけで、あの妨害っぷり。もし家に招待なんかした日には、どんな制裁を企ててくるか……)
 考えを巡らせて戦々恐々としている聡の耳に、更に驚愕する内容が飛び込んできた。


「それはそうよね。清人は勿論だけど、あれだけ派手に殴られた勝さんも、清人の事は警戒しているから、清香さんを招待する事には反対するだろうし。その辺りはどうしたものかしら?」
(母さんの中で、彼女を家に招待するのは決定事項なのか!? いや、それより……)
 動揺しながらも、聡は慌てて難しい顔で考え込んでいる由紀子に確認を入れた。


「母さん、父さんが殴られたって何の話?」
「あら、話したでしょう? 清吾さん達のお通夜に出向いた時の事」
 不思議そうに問い返した由紀子に、聡は納得しないまま尚も問い掛けた。
「聞いたけど、確か母さんが兄さんに殴られて、二発目は父さんが止めたって話で……」
「ええ、私が平手打ちされて倒れ込んだのを庇った勝さんが、拳で殴り倒されたのよ。勝さんが盛大に地面に転がったものだから、それで清人も少し落ち着いたみたいだったわ」
「母さん! 俺はまさかそんな事態だったとは、思って無かったんだけど!?」
 事の次第を知って、さすがに顔色を変えた聡だが、由紀子は平然と話を続けた。


「説明不足だったかしら? でもそれで、少し安心したの」
「その状況で安心って、何に?」
「幾ら憎くても、私は平手打ちで済ませてくれた訳でしょう? あんな状況でも女性には手加減してくれるなんて、なんて優しい子に育ててくれたんだろうと思って、もう清吾さんと香澄さんに会う事が出来なくなって悲しいのと同時に、二人に感謝する気持ちで、胸が一杯になったわ」
 片手で軽く胸を押さえながら、しみじみとそう語った由紀子に、聡は心の中で絶叫した。


(母さん! そこ、絶対感動する所じゃないから!! 第一、本当に優しいなら、間違っても母親に手を上げたりしないって!!)
 そうして少しの間項垂れてから、聡は誰に言うともなくボソッと呟いた。


「何か意外だな……」
「え? 何が?」
 ゆっくりと顔を上げ、尋ねてきた由紀子の顔を眺めながら、聡は苦笑いした。


「父さんが体を張って、母さんを庇うとは思っていなかったから。親戚連中はこぞって、やれ『財産目当てだ』とか『会長の腰巾着が』とか、好き放題言っていたし」
「確かに財産目当てで結婚した所は否定できないけど、ちゃんと私の事は守ってくれる、結構律儀な人なのよ?」
 穏やかに言い聞かせてくる由紀子に、聡は一気に脱力した。


「……母さん。爽やかに財産目当てって、断言しないでくれるかな」
「でも実際、そう言われたもの」
「誰に何を言われたって?」
 思わず眉を顰めた聡に、由紀子は苦笑しながら思い返す様に話し始めた。


「あれは……、小笠原の家に戻って二年位過ぎてからね。父が『今度こそは儂が認める男と再婚しろ!』と五月蠅くてね。断るのも面倒臭くなって、もう適当にお見合いしていたのよ」
「適当って……」
 相当自棄になっていたであろう当時の母親の心境を想って、思わず聡は溜め息を吐いたが、由紀子は淡々と続けた。


「父は、私の最初の結婚と離婚の事を、必死に隠そうとしていたけど、お見合いの席で私から暴露していたの。その途端に破談というパターンを、繰り返していたわ」
「……じいさん、怒ったよな」
(そうだよな。お嬢様然としてても、駆け落ちまがいの事もした人だものな。こうと決めたら、引かない所はあるだろうし)
 思わず呻いた聡に、由紀子は小さく笑った。


「勿論よ。父が顔を真っ赤にして怒っていたけど、構わずそれを続けていたら、噂が広がって次第に縁談が来なくなってね。相手が父が言うことを聞かせられる、社内の人だけになったの」
「それで父さんが?」
「勝さんに引き合わされたのは、結構な人間に引き合わされてからね」
「それまでどうして断ってたの?」
 これまで父親の謹厳実直さと無愛想ぶりと、面白味の無さを散々目の当たりにしてきた聡としては、他にもっとマシな結婚相手が居たのではと思ったのだが、由紀子は小さく肩を竦めてその理由を述べた。


「だって……、父から事前に言い含められたのか、皆揃いも揃って『辛い経験をしましたね』とか『これからは俺が面倒を見ますから安心して下さい』とか『子供だって、またすぐできますよ』とか、分かった様な事を言って、愛想笑いをしてくるんだもの。話に付き合う気にもなれないわ。どうせ小笠原の社長の椅子と、財産目当てなのに」
「そう言い切ってしまうのも、どうかと思うんだけど……」
(あのじいさんの息のかかった人間なら、間違い無くそうだろうけどな)
 一応フォローらしき物をしてみたが、聡自身、心の中では母の意見に賛同した。すると由紀子が、真顔で話を続ける。


「それで、悉く突っぱねているうちに、勝さんとお見合いする事になって。その席で開口一番『あなたは自分の資産が、今現在どういう状態なのか、きちんと把握しているんですか?』と聞かれたの」
「……えっと、本当に初対面の場で?」
(それって、一般的に見てどうなんだ?)
 流石に聡が心の中で突っ込みを入れたが、由紀子は平然と肯定した。


「ええ。それで私、正直に『全て父が管理していますので存じません』と言ったら鼻で笑われて、『無駄に年だけ食ってるんですね。あのごうつくばりの会長が生きている間は大丈夫でしょうが、あれがくたばったら忽ち路頭に迷いますよ。あの会長が一応頭を下げてきたので、俺に管理を一任してくれたら、そんな事態からは回避させてあげます。ゆくゆくは社長にも就任させて貰える事で、話はついていますし』と言われたわ」
 そこまで言って、当時の事を思い出したのかクスクス笑い出した由紀子を、聡は半ば叱り付けた。


「母さん、笑い事じゃないだろう!? 何だよ、その如何にも財産目当ですって感じ丸出しの台詞はっ!!」
「だって、聞いていてあまりにも清々しくて。思わず『それなら私の財産が全て無くなったら、私と離婚する事になるんですね?』と聞いたら、『そうなりますね』と真顔で返すし」
(父さん! 俺はあんたを、流石にここまでの守銭奴だとは思ってなかったぞ!)
 愕然として、心中で父に対して非難の声を上げた聡に、由紀子は更に予想外の内容を口にした。


「だからね? お愛想笑いなんかしてくる人より、そんな正直な人の方が良いかなって思って、いい加減清吾さんとの事は諦めて再婚してみる事にしたのよ」
「『してみる事にした』って……」
 呆然と呟いた聡に、由紀子が徐に言い出した。


「それで……、結婚して十年近く経った時、勝さんが如何にも申し訳なさそうに、私に謝ってきたの」
「何を謝ったわけ?」
「『君の資産が倍になってしまったから、半分は聡名義に振り替えたから』と報告してくれたわ」
「は?」
 意味が分からずとうとう絶句した聡に、由紀子は真顔で解説した。


「初めて会った時に私が『資産が無くなったら離婚しますか?』と聞いたから、どうやら勝さんは、私が離婚したくて資産を減らす事を期待していると思っていたみたい。だから『増えて困るものでも無いですよ?』と笑ったら、何だか安心していたわ」
(ちょっと待ってくれ。母さんと父さんは普通の夫婦とは違うとは思っていたけど、何だか益々、意味が分からなくなってきた……)
 思わず椅子から降りて、床に蹲りたくなってしまった聡だが、由紀子はすこぶる冷静だった。


「それに、私は最初の結婚と離婚で、親戚中から白い眼を向けられていたけど、再婚してからは勝さんが『ろくな家の出じゃない』とか『財産目当て』とかって、集中砲火を浴びていたわ。父が事ある毎に『社長にしてやった』と恩着せがましく言ってくるのを黙って聞いて、外でのお付き合いでは気難しい顔で周囲を睥睨して、下手な人は寄って来ない様にしてくれていたし」
 そこで聡が、どこか疑わしそうに口を挟んだ。


「じゃあ父さんって……、昔から結構矢面に立って、母さんを庇ったりしていた?」
「そんな風には見えなかった? 私が社長にしてあげた訳じゃ無いのに、本当に律儀な人でしょう? だから清吾さんみたいに好きと言うのでは無いけれど、勝さんの事も大事に思っているわよ?」
(見えなかったから、余程夫婦仲が悪いのかと、俺が一人で気を揉んでたんだよ!!)
 慎重に尋ねたが、由紀子に事も無げに言い返されてしまい、聡は本気で項垂れた。
 それから幾つかのやり取りをしてから、聡は由紀子に別れを告げて病室を後にした。
 いつもならまっすぐ家に戻る所だが、色々な精神的疲労が重なったせいか足取りが重く、病院出入り口近くの長椅子にドサリと腰を下ろして、盛大な溜め息を吐き出す。


(何か疲れた。これまで色々気を回していたのが、馬鹿みたいに思えてきた……。熱愛夫婦って訳じゃないけど、実はそんなに仲が悪いってわけじゃ無かったみたいだし)
 そこまで考えた聡は頭に手をやって苛立たしげにガシガシと掻いた後、ポケットから携帯を取り出し、迷わずある番号を選択した。そしてすぐ応答があった事に安堵しつつ、口を開く。


「もしもし、清香さん?」
「こんばんは、聡さん。どうかしましたか?」
「うん、何か精神的疲労が激しくて、ちょっと癒されたくなって……」
「はい?」
 思わず本音を漏らした聡に、清香が戸惑った声を返してくる。それを聡は軽く誤魔化した。


「いや、こっちの話。それで用件なんだけど、今週の水曜の夜とか空いてるかな? 一緒に食事でもどうかと思って」
 誘いの言葉を口にした聡だったが、清香は申し訳なさそうに断ってきた。


「ごめんなさい、その日は玲二さんと正彦さんと食事をした後カラオケに行く事になっていて……」
「ああ、それじゃあ仕方無いね。えっと……、それなら金曜日の夜とかは?」
 手にした手帳に記入されているスケジュール内容を確認しながら更に聡が尋ねたが、清香は再度断りを入れる。


「その日は、明良さんと映画を見に行く予定になっていまして……」
「はは……、やっぱり清香さんは、皆と仲が良いね。因みに土曜日は?」
 自分の顔が徐々に引き攣るのを自覚しながら、聡は諦めずに尋ねた。


「土曜日は……、お昼までお兄ちゃんと買い物をして、その後は浩一さんと友之さんが家に来るので、四人で麻雀をする予定です」
「は!? 麻雀って、何それ?」
 予想外の単語を耳にして声を裏返しながら尋ねた聡に、清香は真面目に説明した。


「何か、お兄ちゃんが今度小説の中で、登場人物に麻雀をさせたいみたいで、実際にやってみないと臨場感溢れる文章が書けないから実践してみるとかで。面子が足りないから、付き合ってくれと頼まれたんです」
「へぇ……。先生って、割と凝り性なんだ」
 思わず皮肉っぽい声を出したしまった聡に、清香がすこぶる真剣に返してくる。


「そうなんですよ。それでお兄ちゃんも私もした事がないので、友之さんが教えてくれる事になって。友之さんって『娯楽の類には精通して』と豪語するだけあって、何でも知ってて凄いんですよ!」
「……そうだね。さすがに俺もまだやった事は無いな」
 感心した様に語る清香に、辛うじて言葉を返した聡だったが、内心で怒り狂っていた。


(これは……、以前にもチラッと思ったけど、俺が清香さんを誘う暇が出来ない様に、絶対兄さんが仕組んでるな。もの凄い悪意を感じるんだが!? 第一「精通してる」って……、単に遊びまくってるだけだろうがっ! ふざけるなよ!?)
「清香さん。それなら日曜日は、誰かと約束があるかな?」
 多少ムキになりつつも、精一杯穏やかな口調を装って尋ねた聡に、清香は何気なく答えた。


「日曜日は、特に約束はしてはいませんけど、ちょっと出掛ける事にしています」
「一人で? 買い物か何か?」
「いえ、久し振りに思いきり体を動かしてこようかなと思っていまして」
「俺も付き合うから」
「え?」
 唐突に言われた言葉に清香が戸惑っていると、聡がその隙を逃さず畳み掛けた。


「俺も、最近体がなまっていると、思ってた所なんだ。そういう事なら、是非とも付き合わせて貰いたいんだけど」
「いえ、でも……、聡さんに付き合って貰うのは、無理かも……」
 何故か言葉を濁した清香に、聡は半ば自棄になりながら言葉を継いだ。


「これでも運動神経には、結構自信があるんだ。テニス? 水泳? それともジョギングとか? 一人で行くならバレーとかバスケとかの、団体競技じゃないよね? あ、それとも現地集合で待ち合わせとかするのかな?」
「いえ、待ち合わせとかはしないで、場所を借りると言うか、手合わせをお願いすると言うか」
「それなら俺も一緒に参加させて欲しいな。どうしても無理かな?」
 殆どごり押し状態になっているのも自覚せず、聡が訴えると、清香が微妙に口調を変えてきた。


「それは……、大丈夫かと思いますけど。ちょっと移動に時間がかかりますよ?」
「じゃあ尚更、俺が車を出すよ。その方が移動も楽だよね」
「良いんですか?」
「勿論。ところで何を持って行けば良いかな?」
 半ば押し切られた格好で、清香が同行に控え目な了解を告げて来ると、聡は機嫌良く詳細について尋ねた。それに清香がまだ幾分躊躇いがちに応じる。


「えっと……、私はいつも向こうで必要な物を貸して貰ってますので、事前に聡さんが一緒に行く事を話しておけば、持ち物はタオル位で良いんですが……」
「じゃあ予め、連絡をしておいて貰える?」
「それは構わないんですけど……。聡さんは、柔道の経験は有りますか?」
「え?」
 そこで清香から告げられた、あまりにも予想外の台詞に、聡の頭の中は一瞬真っ白になった。



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