零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第10話 反発と後悔と

 休み明けで何となく仕事の効率が悪い、月曜日の午前中。自分の仕事に一区切りつけた聡は、席を立って壁際のコーヒーメーカーが置かれている場所へ足を向けた。各自好きな時に飲める様に、出入りの業者がコーヒーと共に、常に過不足無く備え付けているカップにコーヒーを注ぎ、砂糖を加えて飲みながら一息入れていると、背後から明るく声がかけられる。


「よう、角谷。先週招待券を渡した例の試写会、どうだった?」
 その声に振り向いた聡は、同期の高橋の顔を見て(そう言えば、こいつはほぼ一週間出張だったか)と思い出した。そして出社早々自分と顔を合わせる事なく、上司や関連部署への報告を済ませ、漸く自分の部署に戻って来たらしい彼に、礼を言いながら尋ねる。


「ああ、譲ってくれてありがとう。連れも喜んでくれたしな。ところで飲むか?」
「頼む。ミルクと砂糖入りで」
「了解」
 すかさず注文を付けてきた高橋に気を悪くする事なく、聡は軽く笑いながら手早くコーヒーを新しいカップに注ぎ、砂糖とミルクを入れてかき混ぜた。そして完成したそれを相手に手渡しながら、思い出した様に苦笑混じりに付け加える。


「そう言えば、『譲ってくれた会社の人に、お礼を言っておいて欲しい』と言われていたのに、今まで忘れてた。朝一番で言わなくて悪いな」
「そんな事を気にするなよ。それより……、やっぱり女と行ったんだな。男とは有り得ないと思っていたが」
 途端にニヤニヤ笑いを隠さずに突っ込んできた高橋に、聡は小さく溜め息を吐いてから、微妙に視線を逸らしつつ答えた。


「誤解しないでくれ。彼女はただの知り合いだから」
 勿論それで納得する高橋では無く、わざとらしく目を見開く。
「単なる知り合い? それでお前がわざわざ趣味でない作品の試写会の招待券を目にするやいなや、『譲ってくれ』と懇願するわけか? お前、経理部の美里ちゃんとか人事部の真紀ちゃんとか情報統括本部の陽子ちゃんと付き合ってた時に、わざわざそんな事をした事はないだろう?」
「だから……、清香さんはそんなんじゃ無いから。第一彼女達なら、間違ってもあの手の映画は見ないし」
「へぇ~、『さやか』ちゃんって言うんだ。可愛い名前だな。どんな字を書くんだ?」
「…………」
 弁解の台詞が、却って相手の興味を引く結果になった上、入社以来の社内での女性遍歴まで口にされた聡は、憮然としてコーヒーを一口啜った。それをチラリと横目で見ながら、高橋が微かに苦笑しつつ容赦のない指摘をしてくる。


「お前、『来る者拒まず、去る者は追わず』とはちょっと違うが、基本的に女のご機嫌を取ったりしないタイプだから、長続きしないんだぞ? 皆良い子ばかりなのに、入社三年目で三人と付き合って別れたって、男としてどうかと思うが」
 最後はしみじみと語った高橋に、聡が些か気分を害しながら言い返す。


「言っておくが、二股をかけたりはしてないぞ? 単に長続きしなかっただけだ。それにどうしてそんなに卑屈になって、付き合ってる女のご機嫌を取らなきゃならないんだ?」
「そりゃまあ、卑屈になるほどする事は無いと思うが、お前は逆に気を遣わなさ過ぎ」
「そうか? 自分ではそうは思っていないが」
 淡々と自分の考えを述べた聡に、今度は高橋が溜め息を吐いてから口を開く。


「お前さ……、実は身内に超フェミニストの男が居て、それへの反発心から、付き合ってる女には無意識のうちに『黙って俺に付いて来い』的なオーラを発してるんじゃないのか? そんなの今時、流行らないと思うが」
「何だそれは……」
 予想外の内容を聞かされた聡は思わず脱力しかけたが、高橋は真顔で続けた。


「うん、そう考えると単なる知り合いの清香ちゃんで、女への気の遣い方に関してリハビリするのも良いかもな」
「だから、リハビリって何だ」
「ところで知り合いってどんな知り合いだ? 仕事関係じゃ無いよな」
 自分の話を聞かずに一方的に断定してくる高橋に、色々諦めた聡は多少自棄気味にそれに答えた。


「図書館で知り合った、二十歳の女子大生。偶々あの映画の原作者のファンだって知ってたから、券を融通して貰ったんだ」
「お!? 五歳下の女子大生とは、隅に置けないな。それで? 映画の後、機嫌の良い彼女を、どこぞに連れ込んだとか?」
「するかっ!! 第一、会場で出くわした彼女の知り合いに、俺が逆に拉致されたぞ」
「はぁ? 何だそれは」
 嬉々として食い付いてきた高橋を、仕事中の周囲を憚りながら小声で叱責すると、案の定怪訝な顔をされた。ここで聡は勢いで口を滑らせてしまった事を後悔しつつ、適当に誤魔化すのを完全に諦めた。


「柏木物産、企画推進部第二課課長の柏木真澄と、その弟の営業部第一課課長の柏木浩一と遭遇したんだ。彼女がその二人と家族ぐるみで親交があって、両者とも清香さんを妹みたいに可愛がってるらしい。映画の後、彼女共々無理矢理食事を付き合わされる羽目に」
「げっ! あの長男の弟を押し退けて踏み付けて、名実共に柏木産業次期後継者レースに躍り出ていると言われてる、あの《柏木の氷姫》に可愛がられてる女ぁ!?」
(何か微妙に、浩一氏が気の毒になって来たな。確かに姉の方がインパクトは強烈だが)
 自分の話の途中で突然呻いて指を差してきた高橋に、聡は無意識に眉を寄せた。そんな聡の内心など分からない高橋が、慌てて尋ねてくる。


「おい、ちょっと待て。さっき食事を付き合わされたとか言ったか」
「ああ。『私の奢りだと食べられないとか言わないわよね?』とか半ば脅迫されて。浩一氏は終始申し訳無さそうにしていたが。その後、カラオケにも連れて行かれて、門限が二十一時の彼女の携帯にお兄さんから電話がかかってきたら、名乗りもせずにそれに出て『私が後から送り届けるわよ。黙ってお座りして待ってなさい!』と問答無用でブチ切っていた。そう言えば……、その後、電話がかかって来なかったな」
 そこで(やっぱり兄さんも、あの猛女には適わないらしい)と妙な親近感を感じつつ、苦笑混じりにその夜の事を思い返していると、高橋が頭を抱えて呻いた。


「“あの”柏木真澄の妹分に言い寄っているだけじゃなく、おそらく超ゴージャスな食事を奢って貰った挙げ句、仲良くつるんでカラオケに行っただと?」
「いや、言い寄ってはいないし、奢られたのは不可抗力で、つるんでなんて表現は以ての外なんだが」
 そこでいきなり棚の上にカップを置いた高橋は、空いた両手で聡の肩を掴み、真剣な表情で睨み付けてきた。


「ぐだぐだ言うな角谷! 悪い事は言わん、今すぐその清香ちゃんとは、すっきりきっぱり別れろ!」
「藪から棒に、いきなり何だ?」
「その清香ちゃんと付き合ってるのがバレたら、お前、最悪仕事を干されるぞ?」
「おい、高橋落ち着け。だからどうしてそうなる」
 呆れた様に見返す聡に、高橋はゴクリと唾を飲み込んでから声を低めて話し出した。


「課長、去年数社参加したプレゼンで、柏木物産に負けたんだ。覚えていないか? 当時日本未進出だったドイツの《Freiheit》の商品を、全国展開しているホームセンターとタイアップして販売、供給させようっていう話」
「ああ、あったな、そう言えば。……まさか、その時の向こうの担当者が」
 思い当たった内容に聡が軽く驚きを示すと、高橋は重々しく頷いた。


「ああ、泣く子も黙る柏木女史だった。その時、俺も担当者の一員だったから、課長と係長に同行したんだが、提案内容もさることながら、実に威風堂々としていたな。最後に会場を後にする時、わざわざ向こうからこちらに挨拶しに来たし」
「何て?」
「『小笠原産業の提示した内容もなかなかでしたわ。よほど《Freiheit》の商品に、愛着を感じていらしたんですね。ご安心下さい。我が社が御社の分まで、日本全国で商品の魅力を十分に知らしめて、思う存分売り上げて見せますわ』と上から目線で、実際見下ろされながら。実際に言われなかったが、背後から高笑いが聞こえてきそうなオーラを醸し出していた」
「あの人、女性にしては上背があるからな……」
(そして課長は、男性にしたら背が低いからな)
 ハイヒールを履くと、百八十cm弱の自分とさほど目線が変わらなかった真澄の姿を思い返した聡は、当時の上司の心境を思って少し切なくなった。しかしそんな感傷を打ち消す様に、高橋が話を続ける。


「なあ、嫌味だろ? 仕事を奪った上、そこまで追い討ちをかけなくても良いだろ? 鬼だよな。その晩居酒屋で、係長と一緒に課長に散々愚痴られてさ。本当に、酷ぇ目にあった」
「……お疲れ」
 切々と訴える相手を一応労った聡だが、ここで漸く高橋が話を戻した。


「だから! 『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』って言葉もあるし、その柏木女史と懇意の女の子と付き合っているなんて事が課長にバレたら、絶対お前目の敵にされるって!」
「それとこれとは関係無いだろう。それに付き合ったりはしていないと、何度言えば分かるんだ?」
(第一、下手に俺を干したりしたら、飛ばされたり干されたりするのは向こうだが……)
 呆れつつも、どちらにしても自分の立場からすると少々困った事になりそうだと考えていると、高橋が慌てた様に動き出した。


「うわ、やべ。課長が睨んでる。俺行くわ」
「ああ、無駄話をし過ぎたな。俺もそろそろ机に戻る」
 聡も険しさを含んだ上司の視線を察知し、二人はカップの中身を一気に飲み干し、横に設置されているゴミ箱に空のカップを突っ込んで業務へと戻って行った。




 その日の夜、病院の面会時間ギリギリに聡が母親の病室を訪れると、電動式のベッドの半分を持ち上げた状態で由紀子がそこに上半身を預け、静かに本を読んでいた。


「あら、聡。来てくれたの?」
 自分の姿を見付けて嬉しそうに笑いかけてくる由紀子に、聡も照れ笑いで応じる。


「今日は何とか、消灯前に来れたな。いつもバタバタしてごめん。土日とかにゆっくり来れば良いんだけど、色々あって」
「良いのよ? もういい大人なんだし。良い加減、母親より彼女を優先にしないと、振られてしまうわよ? えっと……、何てお名前だったかしら、三宅さん?」
 笑って確認を入れてきた由紀子に、聡は幾分気まずそうに視線を逸らした。


「……彼女とは、もう別れたから」
「あ、そうだったの? ごめんなさい、知らなくて」
「いいよ。俺もわざわざ言わないし」
 しかも最後ではなく二代前の彼女の名前を口にされた事で、聡は(俺ってそんなに彼女の入れ替わりが早かっただろうか)と微妙に反省した。そして多少気まずくなってしまった室内の雰囲気を一掃しようと、ここで聡が持参した物を鞄から取り出す。


「母さん、今日はこれを持って来たんだ」
「これって、私の本よね。どうしてわざわざ本棚から持って来たの?」
 見覚えが有りすぎる、自作のカバーをかけられたそれを受け取った由紀子が不思議そうに見返すと、聡は表紙を捲って見せた。


「母さんが喜ぶかと思って、東野薫先生のサインを貰ってきた」
 『喜ぶかと』と口にした割には、些か心配そうに告げた息子に、由紀子の目が驚きで軽く見開かれ、サインと聡の顔を何回か交互に見てから、喘ぐ様に囁いた。


「貰った……、って、聡? あなた、まさか……、本人に直接名乗って、サインして貰ったわけじゃ……」
 由紀子の顔色は白を通り越して、もはや蒼白になっており、その反応をある程度予測していた聡は、冷静に宥めにかかった。


「勿論、面と向かって『俺はあなたの弟です、宜しく』なんてやってないから。兄さんの異母妹の、清香さんって子と最近知り合って、俺と兄さんの関係は明かさないまま、その子経由で頼んだんだ。角谷って名乗ったし、心配要らないよ」
(名乗ったけど、兄さんにはバレバレだったみたいだが)
 余計な事は自分の胸の中だけにしまって説明した聡だが、それを聞いた由紀子が何かを思い出そうとする様に、前方の壁の一点を見やりながら呟く。


「清香さん……。そう言えばあの時、側にかなり年下のお嬢さんが、制服を着て座って居たような……。あの子の事かしら?」
「あの時って、母さん。ひょっとして彼女と面識があったの? 初耳だけど」
「……いえ、そんな事は無いわ。言い間違っただけよ」
 驚いて確認を入れた聡だが、それで瞬時に我に返った由紀子は誤魔化し、それ以上は余計な事を口にせずに黙り込む。何分かそんな沈黙が続いたが、開いたページに目を落とし、そこに書かれたサインを愛おしそうに手で軽くなぞっていた由紀子が漸くそこから顔を上げ、聡の顔を見据えながらゆっくりと口を開いた。


「聡? 嬉しいけど、こんな事はもう止めてね? 相手を怒らせるだけだから」
「怒っていたら、サインなんかしてくれないと思うけど?」
「それはこちらが、身元をきちんと告げなかったからよ。第一、清香さんにも迷惑だろうし」
「彼女に母さんが兄さんの作品を愛読してる事を話して聞かせたら、凄く喜んでくれて快諾してくれたけど?」
「余計な事はしないでって言ってるの! 人の気も知らないで、自分の自己満足の為に他人を騙して平気でいるなんて、人として最低でしょう! 黙って、親の言う事を聞きなさい!!」
 いきなり由紀子が声を荒げながら叱責してきた為、常には有り得ないその光景に聡は驚いて固まったが、次に激しい怒りに駆られた。


「……へぇ、母さんは、余計な事だって言うんだ」
「当たり前でしょう? 先方とこちらとは、今ではもう無関係なんだから!」
「じゃあ発作で倒れて、意識が朦朧としてた時、兄さんの名前を何度も口にしてたのは? 父さんは勿論、俺の名前だって、母さんは一度も口にしなかったけど」
「え?」
 そこで由紀子の声に勢いが無くなり、逆に静かに語り掛けた聡の口調が、段々激しいものに変化していく。


「ああ、確かにそうだね。兄さんと俺達は無関係だ。現に五年前に父さんから話を聞いた時、だから母さんが東野薫の本を読んでいるんだと納得したけど、本当にそれだけだったし。母さんが倒れるまで、正直存在すら忘れていたさ!」
「聡、ごめんなさい。さっきは、私が言い過ぎたわ」
 慌てて謝ってその場を治めようとした母親の台詞を、聡は聞かぬふりで続けた。


「だけど母さんは、ずっと忘れて無かったって事だろ? そりゃあそうだよな。何と言っても家付き娘の母さんが、本気で好きになって駆け落ち同然に結婚した相手との間の子供だし。そりゃあ可愛いだろうさ! あの頑固爺に押し付けられた再婚相手の、あの面白味の無い父さんの子供の俺なんか、二の次だろうし!」
「聡! そんな事は無いわ!」
 血相を変えて激しく由紀子が否定したが、それを見て逆に落ち着いた聡は、いっそ冷たいとも言える口調で淡々と続けた。


「何を今更……。あれではっきり分かったから、別に遠慮しなくて良いさ。正直に言ったら? 俺は兄さんの代わりだって」
「聡。だからそれは誤解よ。私は別に清人とあなたを比べたりなんかしていないわ」
 必死で弁解する由紀子を真正面から見据えながら、母親が初めて“清人”と兄の名前を読んだ事実に訳も無く苛ついた聡は、以前からの疑問を母親にぶつけた。


「未だに気持ちを残してるなら、佐竹さんと別れた時、どうして兄さんを引き取らなかったんだ? 佐竹さんは再婚するまで、十年近く男手一つで兄さんを育てていて大変だったろうし、うちは昔から金だけは十分過ぎる程あるんだから。母さんが言えばあのジジイだって、いけ好かない男の子供でも、兄さんを手元に引き取ったんじゃないか?」
 言うだけ言った聡は母親の反応を慎重に窺ったが、由紀子は聡から視線を逸らして俯いたまま、ボソッと呟いたのみだった。


「…………あなたには、関係の無い事よ」
「分かった。もういい、俺は帰る。おやすみ」
 何となく母親に裏切られた気持ちで一杯になってしまった聡は衝動的に立ち上がり、吐き捨てる様に別れの言葉を口にしながら由紀子の顔を見ずに足早に病室を去った。
 廊下に出た瞬間、幾らか頭が冷えて残してきた母親の事が気になったが、どうしても病室内に戻る気にはならず、苛々しながらそのまま歩き出す。ちょうどその病棟で待機していたエレベーターに乗り込み、一階フロアに降りて廊下に足を踏み出した直後、我慢できなくなって廊下の壁を拳で力一杯叩いた。


「くそっ……」
 考え無しに殴った拳も痛かったが、これまで穏やかな性格の由紀子に対して、怒鳴ったり嫌味を言った事など皆無だった聡は、それ以上に胸の痛みを覚え、そんな自分自身の感情を持て余してしまった。 



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