零れた欠片が埋まる時

篠原皐月

第2話 男達の事情

 その日、食事当番だった清人が台所で軽やかに野菜を刻んでいると、オープンカウンターの向こうから、自身のアシスタントをしている川島恭子が困惑気味に声をかけてきた。


「先生。お忙しい所、申し訳ありません。お電話が入っているのですが」
「うん? 誰かな?」
 手の動きを止めて顔を上げた清人に、恭子が説明を加える。
「『小笠原聡』と名乗っていらっしゃいます。『小笠原由紀子の息子と言えば分かる』とも仰っておられますが」
 その台詞を耳にした途端、清人は瞬時に表情の一切を消し去った。


「知らないな。そのまま切ってくれ」
 吐き捨てる様に告げて、再び手元に視線を落とした清人に、恭子は諦めて頷く。
「分かりました」
 多少気まずい思いをしながら恭子はリビングの奥に戻り、電話の向こうに一言断りを入れて切ったが、間を置かず再び着信音が鳴り響いた。立場上、再び恭子が受話器を取り上げ応対してから保留にし、恐る恐る清人にお伺いを立てる。


「先生、先程の小笠原さんから、またお電話ですが……」
 今まさに中華鍋で油を熱し、炒めに入ろうかと思っていた清人は、憤然と舌打ちをして火を止め、乱暴な足取りでキッチンを出てリビングを横切った。


(どうやってここの番号を調べやがった?)
 向かっ腹を立てながら保留音を響かせている電話の受話器を取り上げ、相手に何か言う隙を与えず、もの凄い棒読み口調で伝える。


「只今おかけになっている番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、再度お掛け直し下さい」
 言うだけ言ってガチャンと乱暴に受話器を戻した清人は、些か険しい視線を恭子に向けた。


「川島さん。今後この人物からの電話は、一切取り次がないで下さい」
「あの、でも……」
「まだ何か?」
 常に自分に従順な恭子がここで口ごもった事を、清人は不思議に思ったが、続けられた台詞で再び表情を険しくした。


「先程の男性は、自分は先生の弟だとも仰ってまして……。でも今まで、先生に弟さんがいるなんてお話は」
「川島さん。俺の家族は、亡くなった両親の他は清香だけですからそのつもりで。勿論この電話の事は、清香の耳に入れる必要はありません」
「分かりました」
 慌てて頷いた恭子に背を向け、清人は調理を再開したが、動揺と苛立ちはなかなか収まらなかった。


(今更何だって言うんだ! 胸くそ悪い! それに……)
 それから一心不乱に中華鍋を振るっていた清人だったが、少ししてから再度邪魔が入った。


「あの、先生。柏木さんからお電話が入っていますが…」
「浩一から? 何の用だ。こんな中途半端な時間に」
 中学の頃からの腐れ縁である浩一からの着信を告げられた清人は、反射的に通常なら就業時間内である事を掛け時計で確認し、眉根を寄せながらキッチンを離れた。


「もしもし? 何だ浩一、まだ仕事中だろう。ろくでもない用だったら即行で切るぞ?」
 不機嫌さを隠さずに応対した清人の声を耳にしつつ、リビングのテーブルで頼まれていた資料の整理を再開した恭子だったが、清人の苛立たしげな声に思わず視線を向けた。


「はあ? 今夜? お前いきなり何を……」
 何事かと思ったものの恭子はおとなしく作業を続け、幾つかのやり取りの後、清人は不承不承といった感じで会話を終わらせた。


「……分かった。いつもの場所で九時だな。時間を合わせて行ってやる」
「どうかされましたか?」
 憎まれ口を叩いた清人が受話器を戻してから、恭子は静かに声をかけてみた。すると話している間に幾分感情が落ち着いたのか、清人がいつも通りの柔和な笑顔で振り返る。


「川島さん。今日帰りがけに原稿を届けるのをお願いしてましたが、やはり俺が行く事にします」
「予定が変わりましたか?」
「ええ、出版社に顔を出すついでに次回作の構想を相談して、軽く食べて時間を潰した後、浩一と待ち合わせする事にしました。……それで、川島さんに一つお願いがあるのですが」
「何でしょう?」
 急に真顔になった相手に恭子が若干固めの表情で応じると、清人は淡々と「お願い事」を述べた。


「夕食を二人分準備してしまいましたし、清香を予定外に一人で夕食を食べさせるのは可哀想なので、一緒に食べてやってくれませんか?」
 それは確かに異母妹を溺愛している清人らしい台詞ではあったが、おそらく長く一人暮らしを続けている自分への心配りをも含んでいると分かっている恭子は、軽く笑いながら了承した。


「先生のシスコンぶりは相変わらずですね。そういう事でしたら、喜んでお相伴に預かります」
「それは良かった。それではもう少ししたら出掛けますので、後は宜しくお願いします」
「畏まりました」
 そんなやり取りの後、帰宅した清香と入れ違いになるように、清人は夕闇が迫る街中へと出かけて行った。


 それから出向いた出版社で担当者と結構有意義な打ち合わせを終えた後、軽く腹ごなしを済ませた清人は、その足で待ち合わせ場所へ向かった。
 高級ホテルとして名高いラルフリードホテルをエレベーターで上がり、最上階スカイラウンジのバーカウンターに出向く。そこに何人かの男性がまばらにスツールに腰掛けている中で、迷わず一人のスーツ姿の男に近付いた。


「よう、待たせたか?」
 勝手知ったる仲である気安さから、いつもとは違う砕けた口調で声をかけつつ隣に座った清人に、浩一は苦笑いしてみせる。
「俺も少し前に来たばかりだ。しかし男二人で待ち合わせって言うのは、ちょっと虚しいな」
「呼びつけた本人が何を言う」
 清人も苦笑いで返して早速注文を済ませ、顔見知りのバーテンダーと幾つか言葉を交わしてから、肘を付いて浩一に視線を向けた。


「それで? さっさと俺を呼び出した本題に入れ」
 その詰問口調に幾分困った様に視線を彷徨わせてから、浩一は重い口を開いた。


「実は……、これから暫く俺達が清香ちゃんの回りをうろうろするが、黙認して欲しい」
「何だそれは。しかも『俺達』?」
「それなんだが……」
 そうして浩一は、清香の誕生日に自分を含む総一郎の孫達に召集がかけられ、その場で清香との結婚を求められた経緯を話した。


「……そんなわけで、お前の気に障って強制排除されるのは勘弁して欲しいが、電話で済まそうとすると益々お前の機嫌を損ねかねないし。かといって家に押し掛けるのも、清香ちゃんの耳に入る可能性が、無きにしも有らずだ。それでお前とちょっと突っ込んだ話もしたかったし、呼び出したって訳なんだ」
 事情を一通り聞き終えた清人は、その間に目の前に置かれたグラスを持ち上げながら小さく失笑した。


「それなら当然、ここの支払はお前持ちだな。しかし会長は相変わらずだと思っていたが、いよいよ棺桶に片足を突っ込んだのか? そんなくだらない策とも言えん策を用いようとするなんて」
 奇しくも当日、真澄が心の中で評した表現と酷似した言い方を清人はしたが、当然そんな事は知りようもない浩一は、憮然として清人の顔色を窺った。


「勿論、正直に名乗る事ができれば一番なんだけどな。その時、お前フォローなんかしてくれないよな?」
「当然。そんな義理は無い」
「容赦無いな」
 溜め息しか出ない浩一の前でグラスの中身を一口飲み落としてから、清人はすこぶる冷静に相手に告げた。


「だが、告白自体を妨害しようとは、今も昔も思っていない。清香ももう二十歳だし、幾ら子供の頃に香澄さんから散々刷り込まれているとしても、少しは大人の対応ができる、かも……、と、思うんだが?」
 その会話の最初と終わりの微妙な口調の変化に、浩一が鋭く突っ込みを入れる。


「あくまで疑問形か」
「流石に三十過ぎると、若い子の心境に疎くなってな」
 ニヤリと笑いながら再びグラスを傾けた清人に、些か気分を害した様に浩一が肩を竦めた。


「言ってろ! あちこちで若い女を口説き落としてる癖に」
「向こうから言い寄ってくるだけで、自分から率先して口説いた事は無い。お前の方こそどうなんだ? 柏木産業の御曹司どの」
 そこで不毛な言い合いになりかけた事を自覚した浩一は、話題を変える事にした。


「それはともかく。お前、母方の方と未だに連絡を取り合って無いのか?」
 軽く顔を覗き込む様に尋ねてきた浩一から視線を逸らし、清人が途端に不機嫌そうに目を伏せる。
「愚問だな。酒がまずくなる話題を出すな」
 その態度に浩一が軽く溜め息を吐き、手元のグラスを見下ろしながら淡々と続ける。


「やっぱりな……。実は先週親父の代理であるパーティーに出席したんだが、そこで小笠原氏を見かけたんだ」
「それで?」
「夫人が今入院中だそうで、単身で出席していた」
 言うだけ言って浩一は再び清人の反応を窺ったが、相手はさほど関心が無さそうに呟くのみだった。


「へぇ? それはお気の毒に」
「別に命に関わるような大病じゃないらしい。来月末には退院するとの話だったし」
「…………」
 途端に周囲に漂い始める冷気にもめげず、浩一はもう一押ししてみる。


「なあ、見舞いに行ったりとかは……」
「…………」
 まるで取りつく島もない様子の清人に、浩一は完全に説得を諦めた。


「分かった。もうこの話は止めよう」
「今日、家に電話があった」
「は? 誰から?」
 いきなりの話題の転換に浩一が戸惑った顔になると、面白く無さそうに清人が続ける。


「小笠原聡とか名乗りやがった」
 数瞬かけて、その名前を記憶の底から引き上げた浩一が、思わず驚きの表情を向けた。
「え? それって確か、お前の異父弟の名前だった筈」
「問答無用でブチ切った」
「お前な」
 はあぁ、と重い溜め息を吐いた浩一に、清人が冷たく吐き捨てる。


「だがさっきの話で、大体のところは分かった。話を聞く気にはならんが」
 それ以上、不用意に相手を怒らせたく無かった浩一は、続ける言葉を選びつつグラスを揺らし、琥珀色の液体に浮かぶ氷が微かな音を立てるのを眺めていたが、ふと面白い事を思い出した様に口を開いた。


「しかしよくよく考えてみれば、大したものだよな、お前の親父さん」
「いきなり何だ?」
 訝しげな顔を向けた義理の従兄弟兼親友に、浩一は茶化す様に指摘してみせる。


「だって考えてもみろ。柏木産業と小笠原物産、長年業界一位の座を争って、ガチンコ勝負している総合商社のご令嬢二人をたぶらかして、両方と結婚したとんでもない人だぞ?」
 それに清人は、相手以上に笑いを堪える風情で応じた。


「悪いが今の話、一点だけ訂正させてくれ。親父が口説いたんじゃなくて口説かれたんだ。『あの人』も香澄さんも、殆ど押し掛け女房だった筈だし」
「そうだったな」
 浩一は失笑しながらも、心の片隅で(実の母親を『あの人』呼ばわりか。今更だが、相当根が深いな)と思った。しかしそれ以上は突っ込まず、持ち上げた自分のグラスを清人のそれに近付ける。


「それじゃあ、モテモテで羨まし過ぎる、良い男だった清吾叔父さんに乾杯」
「乾杯」
 軽く触れ合ったグラスがカチンと小さな音を立て、男二人はそれから余計な事は言わずに酒と他愛も無い話を楽しむ事に専念したが、両社とも心のどこかで、何かが少しずつ動き出しているのを感じていた。




 同じ頃、都内でも有数の規模を誇る総合病院内で、消灯時間を過ぎた病棟内を極力足音を響かせない様に歩く二十代半ばの男性の姿があった。
 仕事帰りであるのか片手にビジネスバッグを持ち、薄暗い廊下を迷わずに進んで行く。そして目指す個室に辿りつくと、入口の引き戸をするすると音も無く開けた。
 中の人間に気付かれる事は無いと思ったのだが、予想に反して当面のそこの主である小笠原由紀子が気配を察した様に顔を向け、それを見た彼は心の中で舌打ちした。


「……聡?」
「ごめん。起こしたかな?」
 自分譲りの多少癖のかかった柔らかな髪を持つ息子が申し訳なさそうに謝ってきた為、由紀子はベッドから体を起こしながら笑って首を振った。


「ううん、何となく目が覚めたところだったから。それより何かあったの?」
 僅かに首を傾げつつ尋ねた母親に、聡は鞄から一冊の文庫本を取り出し、彼女に向かって差し出す。


「大した事ではないけど……、東野薫の新刊が今日発売だったから持って来た。もう寝ていると思ってたから、置いて帰るつもりだったんだけど」
「え? まさかわざわざ仕事帰りに買って来てくれたの?」
 それを見た由紀子は僅かに目を見開き、目の前の本と息子の顔を交互に見やる。その視線を居心地悪そうに受け止めた聡は、まるで反抗期の様な受け答えをした。


「今日は偶々外に出る用事があって。ついでに買って来ただけだから」
 ボソッとそう呟いて視線を逸らした聡を見つめた由紀子は、ほんのりと嬉しそうに笑った。そして愛おしそうに受け取った文庫本のカバーを撫でる。
「ありがとう。明日ゆっくり読ませて貰うわね」
 そのまま本の表紙に視線を落としている母親に顔を戻し、聡が静かに声をかけた。


「母さん」
「何?」
 顔を上げた由紀子と真正面から向き合った聡だが、少ししてから自分からその視線を外した。
「いや、何でもない。遅いしもう帰るよ。次の休みの日にゆっくり来るから」
 そう言って踵を返した聡の背中に、由紀子が気遣わしげな声をかける。


「来月には退院できるんだし、忙しい思いをして無理に顔を出さなくても良いのよ?お仕事が大変だろうし」
「ああ、分かってる。それじゃあ」
 些か重い気分で母親の病室を抜け出た聡は、そのまま依然として喧騒を保っている夜の雑踏の中へ戻って行った。そして家路を辿りながら、日中の出来事を反芻する。


(一応、電話をしてみたが、やはり直接は無理か。予想通りと言えば予想通りなんだが)
 未だ直接顔を合わせた事の無い異父兄の事を頭に思い浮かべた聡は、無意識に渋面になった。


(だが、このままで良い筈がないだろう?)
 そう決意を新たにした聡が、地下鉄のホームへと通じる階段を降りながら呟く。


「本人が駄目なら、この際、妹から接触してみるか」
 そんな風に、聡の当面の方針が決定したが、それによって更なる嵐が発生する事となった。





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